一話-博士とあたし
「もう使わなくなった家を貸しているんだけれどね、変な先生が住んでいるのよ。」
なんてお祖母ちゃんが言ったのが、気になったきっかけだった。
「妖精類って、魚から進化したってこと?」
縁側に寝転びながら、天井に向かって声を投げかける。
頭上に仰ぎ持った資料が、扇風機の弱風でパタパタと柔くたわんだ。
「そう。妖精類の祖先は魚だよ。」
返事は天井ではなく横から返ってきた。
博士はいつもの肘掛け椅子に深く座っていた。
分厚く重そうなファイルをゆっくりと閉じ、眼鏡を外してあたしを見る。
「人間だって、ずっと祖先を辿れば魚に行き着くからね。
だから広い意味では、妖精類も人間も魚類。」
「あたしも博士も、魚の仲間ってこと?」
「そう。広い意味ではね。」
あたしも博士も魚で、今この家の外を歩いている知らない人たちもみんな魚で、地面を泳いでるんだ。
人だと思うとそれぞれ存在感にすごく個差がある気がするのに、みんな魚だと思うと大した違いがない感じがした。
「妖精類が感情を持つ生き物だと知っているせいか、みんな神格化しすぎて、生き物としてのルーツを知ろうとしないけど……人間とそんなに変わらない生き物だよ。」
「"妖精"っていうネーミングがいけなくない?」
「もとは、"幼く""生きる"と書くほうの"幼生"だったんだよ。
それがいつのまにか精霊的な"妖精"になっちゃったんだ。」
「ふーん……。
なんで"幼く""生きる"の幼生だったの?」
妖精類は見た目が可愛らしい個体が多いから、"幼生"と言われてもそんなに違和感はないし、答えにはそれほど期待せずに聞いてみる。
天井でも壁でも、あたしがどこに向かって質問を暴投しようと、博士は全部拾って答えてくれる。
それが嬉しくて、そんなに気にしてないようなことまで質問しちゃうってことを言ったら、博士はどんな顔をするのかな。
もしも嫌な顔をされたらショックだから、そんなの言わないけれど。
普段あまり表情の変わらない博士の口の端が少し動いた。
ちょっと嬉しそうに見えた気がした。
「ウーパールーパーの"ネオテニー"は分かる? 子供の姿のまま大人になるんだ。
妖精類も、魚の稚魚に似た半透明な姿のまま成長するからだよ。」
「妖精類は、魚の赤ちゃんの突然変異?」
「いや、一般的な魚とはまた違う生き物ではある。
妖精類と一般的な魚は、鳥とワニくらいの違いかな……。
祖先は近いけれど、今は別の進化をしてきたんだ。」
分かりやすい言葉を探している時、博士は音が鳴らない程度にテーブルを指で優しくトントンして、ゆっくりと話す。
その仕草が、赤ちゃんを寝かしつけてるようにも見えて、博士にとってあたしは、何にも知らない赤ちゃんなのかもしれないなんて思った。
穏やかで平和な昼下がり。
アールヌーヴォーを思わせる家具たち。
時計の針の音が静かに聞こえる。
縁側の外を見ると、魚に似た半透明の生物――"妖精類"がふわふわと飛んで行った。
こんなに身近にいるのに、その研究はまだまだ途上らしい。
夏真っ只中なのだけれど、周りを囲む緑のおかげか、いくらか涼しいような気がする。
外界と切り離されているような空気感が、まるで秘密基地みたいに思えた。
「ねぇ博士。
感情があるってことは、妖精類はいろいろ考える力があるってこと?」
今目の前を通って行った妖精類は、なんにも考えてないような顔してたけどなぁ。
行き先も来た道も知らなさそうな顔して、どんな感情を持って生きてるっていうんだろ。
「ほぼ単一の感情を持って生きているから、人間のような複雑な思考をすることはできないと考えられているよ。」
「うーん。嬉しいとか悲しいとかの感情が、具現化されたみたいな生き物?」
「そうだね。それよりはもう少し細分化された感情かな。」
それならもう、細分化された感情で思考ができてるってことじゃないのかな……。
それ以上もそれ以下も考えることがないから思考ができるとは言えないってことなのかな。
「見た目がほぼ魚なのに、感情だけ発達してるのってちょっと怖いかも。」
思ったと同時に言葉に出てた。
「新解釈の人魚と言ってもいいかもしれないね。」
「食べると不老不死になる?」
「ははは。……そうだなぁ。
食べたっていう人はまだ聞いたことないね。」
「魚は食べると頭が良くなるとか言うのにね」と呟く博士の目は、どこか遠くを向いていて、博士みたいな人は、今この瞬間にどれだけのことを考えているんだろうって思った。
あたしはというと、妖精類って魚とクラゲの間みたいでとても美味しそうには見えないよなぁくらいしか思ってないのに。
ふと、資料に"シーラカンスは水っぽい歯ブラシみたいな味"と書いてあったのを思い出した。
別に食べれなくても問題ないなぁ。
毎週水曜日。
休みの日には、博士の研究所兼自宅であるこの古民家に遊びに来てる。
あちこちに無造作に置かれた資料を読んで、博士とお話して帰るだけの時間。
博士は「置き忘れた。」と言うけれど、あたしは知ってるんだ。
縁側の床。
家電の横。
台所のテーブルの上。
博士はあたしが興味を持ちそうな資料をコピーしてわざわざ置いていて、あたしはこの古民家の中を宝探ししてる。
だからたまに台所を借りてクッキーを焼いて、あたしがテキトーにブレンドしたハーブティーでお茶をする。
博士が知らないであろう、クッキーに使ってる砂糖の量の話をしてあげた時の顔といったら!
この気持ちに似てる感情を持っている妖精類がいたら、どんな姿形をしてるんだろう。
博士は、知っているのかな。




