第32話:繁栄の光と、忍び寄る商魂
星降り祭りの夜から、一月が過ぎた。
フロンティアの街は、未曾有の活況に沸いていた。僕が創り出した『願いの灯籠』の噂は、旅の商人たちによって各地に広まり、フロンティアは「奇跡が起こる街」として、多くの人々の注目を集めるようになったのだ。
街の好景気は、それだけが理由ではなかった。
レオ君が率いる鍛冶工房は、僕が渡した『魔力式高効率炉心』と、ドルガンさんが秘密裏に横流ししている自動鉱山のミスリルを使い、これまでとは比較にならないほど高品質な武具を、安定して生産し始めていた。フロンティア製の武具は、今や、王都の一級品にも引けを取らないブランドとなりつつあった。
ギルドの薬局で売られるポーションもまた、『月光草の女王』から作られる特級品として、冒険者たちの間で絶大な信頼を得ていた。
街は潤い、人々は豊かになり、笑い声が溢れている。
その光景を、僕は、我が家の庭から、静かに、そして満足げに眺めていた。
僕の日常は、完璧なまでの平穏を取り戻していた。午前中は、リナ、セレスティーナ、そしてライラと共に、魔法の畑で野菜の世話をする。午後は、工房で、誰のためでもない、僕自身の好奇心を満たすための発明に没頭する。
リナは、僕の剣の師匠として、相変わらず厳しくも優しい指導をしてくれる。
セレスティーティーナは、僕の生活と財産の管理人として、完璧な仕事をしてくれる。
ライラは、無口ながらも、僕の庭と、そこに住まうグリフォンのゲイルの、最高の友人となっていた。
僕が望んだ、温かく、穏やかで、そして少しだけ騒がしい、理想の家族。僕のスローライフは、今、完成の域に達したのかもしれない。
――その平穏が、新たな訪問者によって、静かに侵食され始めようとしていることに、僕たちはまだ気づいていなかった。
その日、フロンティアの正門に、一台の、あまりにも豪華な馬車が到着した。
黒檀の車体に、金細工の装飾。それを引くのは、純白の駿馬が四頭。この辺境の街には、全く不釣り合いな、王都の大貴族か、大商人でもなければ使わないような代物だ。
馬車から降りてきたのは、一人の男だった。歳の頃は四十代半ば。仕立ての良い上着を身にまとい、その物腰は柔らかいが、瞳の奥には、全てを見透かし、値踏みするような、鋭い光が宿っていた。
男の名は、サイラス。
王都に本拠を置く、大陸でも五指に入るとされる巨大商業ギルド――『ウロボロス商会』の最高幹部の一人だった。
彼は、フロン-ティアの奇跡的な好景気の噂を嗅ぎつけ、その利益の源泉を探るために、自らこの辺境の地へとやってきたのだ。
サイラスは、数日間、街に滞在した。
彼は、その卓越した情報収集能力と交渉術で、瞬く間に、この街の奇跡の全てが、一人の人物に行き着くことを突き止めた。
――フロンティアの聖者、カイ。
そして彼は、その圧倒的な財力と政治力を使い、ギルドマスターのドルガンさんを通じて、僕との面会の約束を取り付けた。
◇
数日後。僕の家の応接室は、重い緊張感に包まれていた。
僕の正面には、にこやかな笑みを浮かべたサイラスが座っている。僕の左右には、リナとセレスティーナが、一切の油断なく彼を監視していた。
「いやはや、素晴らしいお住まいですな、カイ殿。この清浄な空気、豊かな庭。まさに、聖者様がお住まいになるにふさわしい」
サイラスは、当たり障りのない世辞を口にしながら、僕を、そしてこの家全体を、まるで商品を査定するように観察していた。
一通りの挨拶を終えると、彼は、本題に入った。
「単刀直入に申し上げましょう。我々、ウロボロス商会は、あなた様のお力に、ぜひ、ご協力させていただきたいのです」
彼が提示してきたのは、「事業提携」の話だった。
僕が創り出す、規格外のポーション、高品質な魔法金属、そして、その他の発明品。それらの独占販売権を、ウロボロス商会に譲渡してほしい、と。
その見返りとして、彼は、僕が一生遊んで暮らせるだけの莫大な富と、王都での貴族の爵位、そして、商会が持つ広範な影響力を約束した。
「あなた様のお力と、我々の販売網が結びつけば、この世界の経済そのものを、我々の意のままに動かすことすら可能ですぞ。富も、名誉も、権力も、全てがあなた様のものです」
その提案は、確かに、魅力的だったのかもしれない。
だが、それは、僕が最も嫌悪するものだった。
僕は、静かに、そして、はっきりと首を振った。
「申し訳ありませんが、そのお話は、お受けできません」
「…ほう。理由を、お聞かせ願えますかな?」
サイラスの笑顔が、ほんの少しだけ、引きつった。
「僕の発明品や、僕がしたことは、誰か特定の人を儲けさせるためのものではありません。この街の皆が、昨日より少しだけ豊かになったり、安全になったりすれば、それでいいんです。僕の力は、僕の友人たちと、僕が気に入ったこの街のためにだけ使いたい。それだけです」
僕の、あまりにも素朴で、商売の論理からかけ離れた答え。
サイラスは、しばらく黙って僕の顔を見ていたが、やがて、その完璧な笑顔の仮面が、わずかに剥がれ落ちた。その瞳の奥に、蛇のように冷たい光が宿る。
「…それは、残念ですな」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
「ですが、カイ殿。世の中には、善意だけでは守れないものもございます。その類稀なる才能が、いずれ、あなた自身を滅ぼす牙とならぬことを、お祈りしておりますよ」
それは、丁寧な言葉で包まれた、明確な脅迫だった。
サイラスは、一礼すると、何事もなかったかのように、僕の家から去っていった。
嵐が、静かに通り過ぎたかのようだった。だが、リナも、セレスティーナも、そして僕も、これが嵐の始まりに過ぎないことを、予感していた。
◇
フロンティアを離れる、豪華な馬車の中。
サイラスは、窓の外を流れる景色を見ながら、隣に控える側近に、冷たく命じた。
「交渉は、決裂だ。予定通り、次の段階へ移行する」
「はっ。して、どのような手を?」
「彼の力そのものを奪うのは難しいだろう。だが、彼の力の『源泉』となる、発明品や、鉱山。それらを、力ずくで奪うことはできる。そのためには、腕の立つ、そして、汚い仕事も厭わない、犬が必要だ」
サイラスは、口元に、冷酷な笑みを浮かべた。
「腕は立つが、今は落ちぶれている。金と名誉に飢えている、犬がな。確か、ちょうどいいのがいただろう。かつてはSランクともてはやされたが、今や、日銭を稼ぐために、どんな依頼でも受けるという、哀れな負け犬どもが」
側近は、心得たとばかりに、頷いた。
「承知いたしました。すぐに、手配を。その者たちの名は…」
「――『紅蓮の剣閃』。そうだったかな」
サイラスの呟きは、馬車の走行音に紛れて、誰の耳にも届かない。
僕が築き上げた、ささやかな平穏。
そのすぐ外側で、僕の過去と、僕が新たに生み出してしまった敵意が、静かに、そして確かに、結びつこうとしていた。
僕の知らないところで、運命の歯車が、また一つ、大きく軋みを上げて、回り始めていた。




