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第12話:浄化という名の大掃除

聖女セレスティーナが、その青い瞳で僕を捉えたまま、糸が切れたように崩れ落ちる。

周囲の神官たちが悲鳴のような声を上げ、群衆の不安は頂点に達した。このままでは、病が蔓延するより先に、パニックで街が崩壊してしまうかもしれない。


「カイ殿…」


隣で、リナが僕の顔を覗き込む。その視線は、「あなたなら、何とかできるのでしょう?」と雄弁に物語っていた。

僕は、天を仰ぎたくなった。

静かに暮らしたい。のんびりと、自分の好きなことだけをして生きていきたい。そう決意したばかりだというのに、目の前には助けを求める大勢の人々と、命を削って戦い、力尽きた聖女がいる。

この状況を見て見ぬふりをして、自分の家に帰り、趣味の家庭菜園に興じる。そんなことができるほど、僕の心臓は強くなかった。前世で培われた、ちっぽけな良識が、僕の背中を押していた。


「…仕方ないですね」


僕は小さくため息をつくと、リナに向き直った。

「リナさん、少し手伝ってもらえますか。僕がこれからやることを、他の人たちが邪魔しないように、周囲の警護をお願いします」

「承知いたしました。お任せください、カイ殿」


リナは、僕の決意を察すると、力強く頷いた。その顔には、絶対的な信頼が浮かんでいる。

僕たちは、人だかりをかき分けて前へ進んだ。セレスティーナを介抱している神官の一人に、僕は声をかける。


「すみません。僕はカイと申します。一介の冒険者に過ぎませんが、この病の原因について、少し心当たりがあります」

「なに…? 君のような若者に何が分かると言うのだ!」

「原因は、人から人へ移る病ではありません。この地区全体の、環境そのものが汚染されているのです。おそらく、水源が怪しい。どうか、この地区で最も古い井戸へ案内していただけませんか」


僕の、あまりにも具体的で自信に満ちた言葉に、神官は戸惑っていた。だが、聖女が倒れ、万策尽きた今、彼は僕の言葉に賭けてみるしかないと判断したようだった。

僕たちは、神官の案内の元、地区の中心にある古い石造りの井戸へとたどり着いた。周囲には、病に倒れた人々が、苦しそうに横たわっている。


「ここが、地区で最も古くからある井戸です。ですが、一体これをどうすると…?」

僕は神官の言葉には答えず、ただリナに目配せをした。リナは心得たとばかりに、抜剣はしないまでも、鋭い気配を放って周囲に円陣を描き、野次馬たちが近づけないようにする。


僕は、その古い井戸の縁に、そっと両手を置いた。

目を閉じ、創成魔法の意識を、無限に広げていく。家の庭を整えた時とは、規模が違う。この井戸から繋がる地下水脈、そして、この地区一帯を覆う大気。その全てを、僕の魔法の対象として認識する。


(汚染源は、やはりこの井戸の底。そこから、魔力のカビが地下水脈を通じて広がり、蒸発して空気中に拡散している。ならば、やることは一つだ)


僕の脳裏に浮かぶのは、ただ一つのイメージ。

「完全なる浄化」。

僕の手のひらから、銀色の光が迸った。それは、井戸の石材を伝い、地下深くへと潜っていく。地下水脈の隅々まで、僕の魔法が行き渡る。

僕が「不純物」と定義した魔力のカビは、僕の魔法に触れた瞬間、その存在を維持できずに分解され、無害な魔力の粒子へと還元されていった。


井戸の水が、ゴポゴポと沸騰するような音を立て始めた。だが、それは熱によるものではない。浄化の過程で、水に溶け込んでいた毒素が、気体となって追い出されているのだ。やがて、泡立ちは収まり、濁っていた井戸の水は、底の石が見えるほどに、どこまでも透き通った。


だが、僕の魔法はそれで終わりではなかった。

浄化された地下水から、清浄な魔力が蒸気のように立ち上り、大気へと広がっていく。それは、目には見えない癒やしの波となって、地区全体を洗い流していった。よどみ、重く、微かに異臭を放っていた空気が、まるで高原の朝のような、清冽で澄み切ったものへと変わっていく。

人々が、その変化に気づき始めた。


「な、なんだ…? 空気が…おいしい…?」

「身体が…軽い…」


そして、奇跡が起きた。

道端で衰弱していた病人の一人が、ゆっくりと身を起こしたのだ。彼の顔から、苦悶の色が消えている。

それを皮切りに、あちこちで人々が回復し始めた。汚染源が断たれ、体内の毒素が排出されれば、人間の持つ自然治癒力が、ようやく正常に働き始めるのだ。


「おお…! 治っていく…! 聖女様の魔法がなくても、皆が…!」

神官が、信じられないといった様子で声を上げる。


その時、僕たちの後ろから、ふらつきながらも、一人の女性が歩み寄ってきた。聖女セレスティーナだ。彼女もまた、汚染された空気が浄化されたことで、急速に魔力と体力を回復したのだろう。

彼女は、目の前で起きている奇跡と、井戸のそばに静かに立つ僕を見て、全てを理解したようだった。


彼女は、僕の目の前まで来ると、その場に崩れ落ちるように膝をつき、深く、深く頭を下げた。その姿は、民を救った神へ祈りを捧げる、敬虔な信徒そのものだった。


「あなたは…一体、どなた様なのですか? この奇跡は…あなたが?」


その声は、畏怖と、そして最大限の感謝に満ちていた。

周囲の人々も、この状況を理解し始めた。僕が、この災厄を終わらせたのだと。あちこちから、感謝と称賛の声が上がり始める。

その、あまりにも大げさな反応に、僕はどうしていいか分からず、頬を掻いた。


「いえ、奇跡なんてそんな…ただ、水と空気が少し汚れているようだったので、掃除しただけです」


僕の、いつもの調子の答えが、その場の喧騒にぽつりと響いた。

人々は一瞬、きょとんとした。

そして次の瞬間、誰からともなく、笑い声が上がった。それは、緊張から解放された、心からの笑い声だった。やがて、それは街を揺るがすほどの、僕への大歓声へと変わっていった。


聖女セレスティーナは、顔を上げて僕を見ていた。その青い瞳は、先ほどまでの絶望ではなく、星空のような、どこまでも深い尊敬の輝きを宿していた。

彼女もまた、僕の「錆落とし」とは違う、この「大掃除」が何を意味するのか、正確に理解した一人となった。


僕は、英雄になるつもりも、聖人になるつもりも、全くなかった。

ただ、静かに暮らしたいだけなのに。

僕のフロンティアでのスローライフ計画は、僕自身の規格外の力によって、またしても、とんでもない方向へと舵を切ろうとしていた。

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