終わりの時
「……ルカ?」
その声は、懐かしいはずだった。
温かいはずだった。
でも――今、ルカの中に流れ込んできたのは、
ドロドロに濁った、怒りと、悲しみと、混乱だった。
ゆっくりと振り返る。
ミリアが立っていた。
死んだはずのルカ。
その足元には、血の池とブラハムの死体。
「う……そ……いや………どう…して……? 」
ミリアは小さく声を上げ、
ふらつくように後退し、そのまま尻もちをついた。
ルカの肩が震える。
呼吸がうまくできない。
胸が熱いのか冷たいのかもわからない。
喉の奥から、なにか……声じゃない“音”が漏れ出す。
「っ……ミリ、ア……」
目に涙が溜まり、視界が歪む。
地面が揺れてる。いや違う、自分の足が揺れてるんだ。
体が勝手に震えて、歯が噛み合わない。
「なんでだよ……」
その一言で、堰が切れた。
「なんで、なんで、なんでなんでなんでっ……!!」
「俺が、俺が……どんな気持ちで……お前を……!」
「信じてたのに……信じてたのにっ……!」
喉が焼けるほど叫んでいるのに、
言いたいことが何一つ、言葉にならない。
「お前は……違うって……違うって思ってたのに……!」
「笑ってくれたじゃん……っ! 話してくれたじゃん……!」
「一緒に……いてくれたじゃん……!」
髪をぐしゃぐしゃに掻きむしる。
目をつぶっても、涙が止まらない。
止めようとしても、次の瞬間にまた違う言葉が飛び出してくる。
「守りたかったんだよ……!
お前と一緒にって……思ってたんだよ……!」
「なのに……お前は……!」
膝から崩れ落ちる。
「殺したんだろ……俺を……!
全部、知ってたんだろ……っ! 俺が“捧げられる”って、わかってて……!」
「笑って……たんだろ……? “立派に役目を果たした”って……っ!」
「俺のこと……モノだって……最初から……っ」
嗚咽。嘔吐しそうな息。
「……し、死んだんだぞ……俺……お前らのせいで……っ」
ミリアは、その場から動けなかった。
震える手。言葉を出せない口元。
目を見開いたまま、ルカを見つめていた。
ルカは、涙と呼吸と混乱にまみれながら、
ゆっくりと立ち上がる。
「わかんない……もう、何もわかんないよ……」
「……もういい」
その目が、またいつもの“ルカ”のそれに戻っていた。
冷たい。深い。底の見えない影。
「――終わらせる。」
影が足元から滲み上がる。
中庭の石畳に、ゆっくりと黒が広がっていく。
「殺してやる」
ルカを見て、ミリアは震えていた。
その唇が、ようやく何かを紡ごうと動く。
「ちが……うの……私は……私は、あのとき……っ」
声が震え、涙が浮かぶ。
必死に言い訳を探すように、過去を捏ね回すように、ミリアは言葉を重ねようとする。
「怖かったの……私は、知らなかったのよ……っ、そんな、本当に……!みんなに言われた通りに、してただけで……!」
その瞬間。
ルカの目が、ピクリと動いた。
「――やめろ」
ミリアの言葉が止まる。
「祈るな」
空気が、冷えた。
ミリアの体が、小さく震えながら、手を胸元に当てる。
そこに宿るのは――かつてルカから奪われた、“純粋な光”の魔力。
「だから……お願い……ルカ」
その刹那。
《逆祈願―アンブレス―》
ルカの声が響いた。
低く、静かに――もうひとつの声と重なるように。
影が蠢き、空気が反転する。
純粋だったはずの魔力が、穢れへと転じた。
ミリアが体内に抱えていた“白い光”――
誰よりも清く、眩しく、美しかった“あの魔力”が、
腐る。
「っ、あっ……ああああああッッ!!」
ミリアの喉から、裂けるような叫びが迸る。
魔力が逆流する。
血管の中で暴れ、細胞を焼き、臓腑を裏返すような痛みが全身を走る。
「いたい……やだ……いだイッ……ッ!」
肌が赤黒く爛れ、血と膿が浮き出る。
髪は煙を上げ、まつげが焼け落ち、歯茎から血が噴き出す。
その魔力の奔流は、彼女の内側から外側へと逆噴射し、
骨の隙間を割り、眼窩を焼き、鼓膜を破った。
「ごめなさい……っ、ごめ……やだ……し…じぬ…やめ……ッ!!」
もはや言葉にならない。
白かった服は、血と臓液で染まり、
少女の姿は、人の形を留める限界に近づいていた。
失禁。嘔吐。痙攣。
あらゆる生理現象が一斉に発動する。
瞳孔は開いたまま閉じず、
口元から泡と嘔吐物が垂れ流れ、
脚が勝手に痙攣し、石畳をバタバタと叩く。
かつて美しいとされていた"それ"は、
今、最も醜く、最も哀れな生き物に成り下がっていた。
"救い"を求めた少女に今、"裁き"が下った。
ルカは、それを無言で見ていた。
顔に感情はない。あるのは、ただ静かな――終わりを見届ける者の目。
「……さよなら、ミリア」
その声は、慈悲でも怒りでもなかった。




