9 怜の灰色
「お邪魔します」
足を踏み入れればそこは眩しいほど、私の憧れが詰まっていた。日当たりのいい客間に、明るい 観葉植物、インテリアはどれも洋風の真っ白なアンティーク。窓際にはチェスの駒がある。
「座ってて。今お茶を持ってくるから」
白馬の尻尾のような脚で支えられた、丸テーブルに座った私は、なんだか慣れずに体を前後に揺らした。足元の方からにゃあーと猫の声が聞こえて私は下を見た。真っ白な長毛を足首に擦り付けてきてくすぐったかった。
「あ、マシュがアキラにご挨拶してる」片手にティーポットを持った姫が現れて言った。
「へえ、この子マシュって言うんだ。綺麗な目。宝石みたい」透けたガラス玉のような青い目を見て、子供の頃一度だけ訪れた沖縄の青い海を思い出した。
姫はカップへ紅茶を注ぎながら。
「僕の母が猫好きでね、父に頼んで飼い始めたんだよ。アキラは猫好き?」
「私は好きだけど、猫には好かれない」
「はは、でもマシュはアキラのこと気に入ったみたいだよ」マシュは私の足に頬ずりをしている。そっと手を伸ばして触れてみると、思った以上に柔らかく指が溶けそうだった。
「砂糖とミルクはいる?」
「うん、甘めがいいかもしれない」
「了解しました。お姫様」礼儀正しくお辞儀をする。まるで執事みたいだ。私は思わず吹き出して「姫は姫の方でしょ」と突っ込むと、姫は釣られてくすくすと笑いを溢して言った。
「どうぞ召し上がれ」
白いもふもふはしばらくして飽きたのか自由気ままに向こうの方へ行ってしまった。いただきますと言って湯気の立つカップに口をつける。
「美味しい!」
鼻先に掠める香りに、全身の力が抜ける。何の香りだろう。お花だろうか。
「よかった。気に入ってもらえて」 姫は顔を綻ばせながら、椅子に座った。そして自分の分の紅茶を口にしながら窓の外を眺めていた。本当に絵になるなあと私は感心しながら紅茶を啜った。その時、玄関の扉が開く音がしてとっさに立ち上がりそうになった。
「ただいまー、あらっお友達?」
大量の買い物袋を持って現れたのは、ウェーブのかかった長い髪の綺麗な女の人。少し姫に似てい る。ひょっとしてお姉さん? 私は立ち上がふと勢いよく頭を下げて挨拶をした。
「こんにちは! お邪魔しています、姫川くんの友達のアキラです!」
「怜のお友達? いらっしゃあい! いつもときと仲良くしてくれてありがとうね」
つばの大きなハットの影の下、明るく笑いながら私の手を握りぶんぶんと振り乱す。
「あ、あの。姫の......いや、姫川くんのお姉さん、ですよね」すると、帽子の中でらんらんと目が光った。
「えっ? そうよ、私は怜のお姉ちゃん」
歌っているように喋る人だ、と思った。
「す……っごく似てますね!」巻き髪のところや、睫毛が長いところ、大きな目に至るまでそっくりだ。私は自分が思った以上に声を弾ませていた。
「やだー、アキラちゃんってば素直な子」
すると横から姫のうんざりしたため息が聞こえてきた。
「アキラを騙さないで、お母さん」
「えっ、お母さん」私は目を見張った。
「もう、お姉ちゃんでよかったのに、細かい男はモテないぞっ」
「ごめんね、アキラ。騒がしくなって...」姫は難儀な顔をして呟いた。
「怜、女の子を連れてくるだなんて初めてじゃない。アキラちゃん! こんな神経質な子だけど仲良くしてやってね。この子友達少ないから」
「お母さん!!」姫は声をあげて立ち上がる。その顔は真っ赤だった。いつも穏やかな姫をこん な風にするなんてつわものだ。
「いいからあっち行っててよ。もう」お母さんの肩をぐいぐいと押す姫。
「何よ、せっかくゆっくりお話したいのに。ああもうあなたったらお茶を出してるのにお菓子のひとつも出せないの? 本当にお父さんそっくりなんだから。アーティストって皆そうなのよね。アキラちゃん、ちょうど今美味しいマカロンを買ってきたところなの。お皿に出してあげるわね」
「いいよ、俺がやるから」不満げに姫は言った。
「じゃあお願い。ついでにマシューの餌もお願いねー」
差し出された洋菓子の小袋を姫はさっと受け取って、キッチンの方へ向かった。 何だか姫のことが初めて普通の男子高校生に見えた。
「座ってて、アキラちゃん。今用意してきてくれるから」
「はい、あの。でも私も手伝いましょうか?」と気を遣って言うと姫のお母さんは片手で緩く制した。
「こういうのは男に甘えてもいいのよ」笑顔でウィンクをした。
私はそれでも姫の様子が気になりながらも、ゆっくり腰を降ろして小さく紅茶を飲んだ。姫のお母さんは真ん中の椅子に座って足を組み、大きな帽子や荷物を降ろした。白いワンピースから細い足首が伸びている。女の私でも惚れそうな位、綺麗な人。
「ねえ。アキラちゃん」
「は、はいっ」私は目線を整え、背筋をぐんと伸ばす。
「あの子の友達でいてくれてありがとうね」
「そ、そんな。私の方こそ……」
私の方が感謝したいくらいだ。
姫がやってきてお皿をテーブルの上に置いた。レストランで見るような三連になっているやつ。名前は忘れたけど、その上にはマカロン以外にも、クッキーなどが乗っている。歴史の授業で勉強したロココ時代とか、マリー・アントワネットとか、そういった単語が頭に浮かんでくる。
「マシュが見当たらない……」
「マシューならあっちの部屋のキャットタワーにいるんじゃない?」
「ちょっと探してくる」
「行ってらっしゃーい」
姫は客間から出た先の部屋へと消えていった。その瞬間、お母さんの肩が小さく揺れて、微笑っていた。
「怜が友達を連れてくるのって本当に珍しいの。だから私も嬉しくて。あ、どうぞ食べてね、遠慮なく」
「ありがとうございます」私は、お母さんの言葉に少し照れくさくなりながら傍のクッキーを一摘みした。
「あの子ね、前の学校ではあんまり馴染めなかったの」と、お母さんは瞳を絞って話しだした。
「自分が描いた絵も全部破り捨てて、部屋から一歩も出てこなかった。私と夫は相談をして、ちょうど別宅があったからそこの近くの高校に転校させることにしたの。心配してた。でも、こんないいお友達ができて本当に良かった」
「あの。姫川君は……」
私はお菓子をお皿に置いて、両膝に手をついて話した。お母さんは、私の聞きたいことを察したように瞼を閉じた。
「生まれつきよ。先天性の1色型色覚。全色盲なんていう風にも言うわね」
「……あの、手術とか。分かんないですけど、治ったりしないんですか?」
「治療法はないわ、今の所はね。でも、色を補う眼鏡を使えば、見えたりするのよ」
「じゃあ、それをかければ──」
お母さんは首を横に振る。
「私達に甘えたがらないのよ。難しい年頃なのね。それに父親に似て頑固なの。今はまだ自分の目で物を見たいって言って聞かないの」
それでも、姫のお母さんはあまり追い詰めた様子ではなかった。窓はすっかり橙色の光を差し込んでいて、その方向を目指している瞳はどこもくすんでいない。
「子供の頃は大変だったし、自分を沢山責めた。画家の子供が色が分からないなんて、どんな神様の悪戯かしら。色ってね、普段とても私達の助けになってるの。だから色が分からないあの子は、他の子の鞄も持ってっちゃうし間違えて女子トイレに入っちゃうし、好き嫌いも多くてね。おまけによくぶつける子で、クラスの中で一人だけ迷子にもなったりも。怜が泣きながら帰ってくる事がよくあったわ。お母さん、何で僕は他の子と違うのって」
私は頭の中で、小さな姫が真っ暗な場所でひとりぼっちでいる所を想像した。どこかで烏の声が空を裂くように鳴いて、お母さんの視線はふと壁に立てかけられた一枚の絵に向かった。
「あの絵は怜が、私に描いてくれた私の似顔絵。色もぐちゃぐちゃでちんちくりんで、私の肌なんて青色だし……、ふふ。でもこの絵を見たら不思議と涙がこぼれてきてね。私、怜がどんな道を選んでも必ず応援するって決めたの」
歯を見せて笑った、その顔は母親の愛情が見える。暖かくて優しい太陽のような。
姫の過去の話を聞いても、私が姫に対して抱く気持ちは変わらなかった。
「アキラちゃん、今の話はヒミツよ、ヒミツ」しーっと、人差し指を口の前に当てる。私は確かに頷いて。
「はい。私、姫川君の事はまだまだ知らないですけど、でも、姫の描く絵が好きです。だって私──」
探してた。生まれてからいつも自分の空の色を。空っぽで灰色だった空に必至に色を付けようとした。そしたらあの日、初めて姫の空を見た。あの空の色を、私に初めて教えてくれたのは、あの日美術室で一人キャンバスに向かって絵を描いている姫だった。あんな眩しい色を、私は生まれてから一度も見た事がなかった。
お母さんはくすりと優しく目を細めて。
「最近怜が笑うようになったのは、あなたといるからかもしれないわね」と言った。