35 消えない想い
「こんばんは」
「ああ、よく来たね」
李花の父親――幹夫は泰貴の訪問を快く受け入れ、居間に案内する。
(なんで、こんなことに……)
彼に椅子を勧め、その横に座る父親。
仲のよい二人を見ながら、李花は首を捻るしかなかった。
アヤーテ王国の王宮の池に飛び込んだ李花と泰貴は、無事に帰国。しかし、意識不明だったため、通りかかった人が救急車を呼び、病院に運び込まれた。翌日に目を覚まし、念のために精密検査を受けた後に退院する運びになった。
二人の体は元通りで、泰貴は所謂イケメン、李花は胸とお尻が大きな悩ましい姿に戻っていた。
泰貴から説得され、自宅に送ってもらうことになり、父親に怒鳴られるはずであったが、なぜか怒られることはなく、結婚式の予定はいつなどと、聞かれることになった。それを全否定したが、幹夫は泰貴が李花の恋人であると思い込んでおり、しかもこうして自宅に招くくらい気に入っていた。
「お父さん、どうぞ」
「お父さん。そう呼んでくれるかね」
「もちろんです」
席についた泰貴は調子よく、幹夫のグラスにビールを注ぐ。父親は嬉しそうにしており、李花は胸が痛くなる。
(係長と結婚するわけじゃないのに。でもしたほうがいいのかな)
嬉しそうな幹夫の笑顔に李花は自分が追い込まれていくような気がしていた。
「姉ちゃん」
「竜太。帰っていたの?」
「うん」
今年十五歳の竜太の身長はすでに李花を超えていて、百六十五センチほどだった。丁度キリアンと同じくらいの背丈で、顔は平凡な日本人顔だが、弟を見るたびに彼を思い出していた。
四年前に母がなくなり、当時大学入りたての李花が家事を全般担当することになった。幸い経済的に余裕があり、アルバイトをせずとも生活ができたため、困ることはなかった。
小学生だった弟も積極的に家事を手伝い、親子三人でこの四年を過ごしてきた。
竜太は人の気持ちに敏感で、李花は精神的に助けられることも多かった。
「疲れたでしょ? ご飯すぐに用意するから」
塾帰りの竜太は制服の姿のまま、台所に来ていた。
「うん……。長井さん、今日も来てるんだね」
「うん」
「姉ちゃん。無理しなくてもいいから。お父さんもまだバリバリ働いてるし、俺だって姉ちゃんがいない間、料理結構うまくなったんだから」
「ありがとう」
(竜太はやっぱりわかってるんだ。係長のこと、嫌いじゃないけど、結婚とかちょっと考えられないもん)
「あ、俺がビールもって行くよ」
李花が手に持っていたビール瓶を持つと、竜太は幹夫と泰貴のいる居間に歩いていく。
調子よくビールなどを注いでいるのを見て、弟自体は彼を嫌っていないことがわかる。
(でもなあ……)
彼女の父親と泰貴の両親はそれぞれ警察に行方不明者届けを出していた。
幹夫の場合は姿を消してから翌日に、泰貴の両親の場合は無断欠勤から三日後に会社から実家に連絡が入り、届出を出している。
この世界に戻ってきてから、二人は親、会社、警察と三つの面倒事があったのだが、その責任をすべて負ったのが泰貴だった。
無断で李花を旅行に連れて行き、携帯電話が壊れたため、連絡ができなかったと失踪理由を説明した。
そのため泰貴は警察と会社からは叱責を受け、彼の両親は古玉家を訪れた上、「嫁入り前の娘さんに対して申し訳ない」と謝罪を入れた。幹夫は事前に泰貴から詫びを入れられており、その人柄も気に入られていたため、彼の両親を責めることなく、角が立つことはなかった。
そういうわけで、李花の両肩には、泰貴への負い目と両家のために結婚という圧力がかかっており、戻ってきてから溜息ばかりをついていた。
(贅沢だってわかってる。係長はいい人だってわかったし。無職になった私を養ってくれるって言ってくれてるしな)
頭ではわかっているが、李花の心は暗く沈んでいた。
(ボットさん。ああ、ちゃんと告白しておけばよかったな。なんか、最後に抱きしめられた感触がまだ忘れられない。体も変わったなのに。なんでだろ)
彼の声は、まだ思い出にしては生生しく頭の中に残っていた。
(丁寧語と素のときのギャップとか、すごいドキドキしたな)
「姉ちゃん!ご飯」
「あ、ごめん!」
居間から竜太に声をかけられ、李花は我に返る。
シガルへの想いに浸っていた彼女は頬を赤らめており、泰貴はそんな様子に目を細めた。
「それでは後ほどご連絡いたします」
翌日、登録した人材派遣会社の面接を終え、会社を出た。
梅雨も明ける頃で、空には太陽が輝き、アスファルトの道路も昨日の雨が嘘のようにカラカラに乾いていた。
「暑いなあ」
長袖のシャツにカーディガンを羽織っていたが、今日は必要なかったようだ。李花は上着を脱ぎ、腰に巻きつける。とたん、その大きな胸が主張し始め、通り過ぎる人は一瞬彼女の胸元に目をやるが、次の瞬間素知らぬふりをして目線をあさって方向に向ける。
当人はそんな視線を気づくこともなく、足早に進んでいた。
ある場所を通り過ぎようとして、李花は足を止めた。
特徴もない商店街から少し離れた通り道。
夜は人通りがなくなり、静かになる一帯だ。
十六日前に見た水溜りは完全に乾き、少しへこんだアスファルトがそこに水溜りがあった名残を留める。
「馬鹿だな。私」
(なんでだろう。たった十六日。しかもちゃんと話したのは多分十日くらいだ。そして自分の気持ちに気がついたのは帰る前日。なのに)
シガルへの想いは消えるどころか、なぜか大きくなっている気がしていた。
「李花!」
背後から突然声を掛けられる。
それは昼食の約束をしていた泰貴で、なんとなく李花は後ろめたくなる。
「ここにいたのか」
「えっといや、たまたまですけど」
シガルへの想いがまだくすぶっていることを悟られたくなくて、笑って誤魔化す。
「まだ数日だからな。本当、夢みたいな話だよな」
李花の隣に立ち、彼も笑う。
夢かと思うことも何度もあったが、十六日間李花達がこの世界から消えていたのは事実で、夢だと簡単に片付けることはできなかった。
「今日は何食べたい?」
「いや、あの。係長に任せます」
「係長って。俺はもうお前の上司じゃないんだけどな。泰貴って呼んでくれないか?」
懇願するように見つめられ、彼女の心が揺れる。
「た、泰貴さん」
頑張ってそう呼ぶと彼は目尻を下がらせ、見たこともない笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
しかもお礼まで言われ、李花は動きを止めてしまった。
「どうした?」
「いえ、なんでも」
(ああ、本当に係長……違った。泰貴さんは私が好きなんだ。でもなんで?こんな私のどこが?)
「俺、飯が食べたいな。丼ものでいいか?」
「はい。お任せします」
「なんか、本当。まだまだだな」
「え?」
「いや、俺の話。行くぞ」
手を握られ、そのまま歩き出される。
「か、係長!」
「たいき、泰貴だ」
「た、泰貴さん!ちょっと放してください」
手を引かれ、転びそうになったので慌ててそう叫ぶ。
すると彼の足は止まったが、手は繋がれたままだ。
「俺と手を繋ぐのが嫌か?」
「えっと、そうじゃなくて」
「意地悪だな。俺は」
一生懸命説明しようとする李花に笑いかけ、泰貴は彼女の手を離した。
「時間をかけるつもりだったのに。悪かった。俺があせりすぎた」
「えっと、あの」
「ゆっくり歩くからついて来れるか?」
「はい」
泰貴は李花が頷くのを待って、歩き出した。
その後ろ姿を彼女が追う。
(……ひどいな。私。本当)
こんな風に好きになってもらったことは初めてで、贅沢なことはわかっていた。しかし、李花の中の恋心はまだシガルの元にあり、割り切れないでいた。