23 いつもと違う朝
「日記?」
「そう。彼の母親の日記」
深夜。
マグリートに呼ばれたシガルは彼の屋敷を訪ねていた。
真紅のソファに深く腰掛け、マグリートは手元のワイングラスを煽る。グラス半分ほど入ったワインを彼は勢いよく飲み干した。
「どうしてそれが重要なのですか?」
向かいに座るシガルはソファの端に座り、背中をぴんと伸ばしたまま、感情の篭っていない声で聞き返す。
マグリートは苦笑すると空のワイングラスをテーブルの上に置いた。
「彼の母親はタエの子孫なんだ」
「タエ? 最後の異世界の王妃ですか?」
「そう。しかも王との子でもあるから、王族でもあるね」
「そうなるとエファン様自身が異世界の血を持っていて、王族……」
「本当。無敵な存在だよね。まあ、彼は王になりたいという野望はもっていないようだけど。とりあえず、これで満月、水、血縁、条件はそれで全部そろったことになる。けれども、まだ儀式の方法がわからない」
「それで、日記ですか?」
「うん。彼の様子がおかしくなったのは半年前だ。その頃、彼は自分の母親のことを調べている。しかも彼は母親の日記を所持していると情報もある」
「……そんなことまで調べられたんですか」
「ああ。もちろん。僕はこの国随一の情報屋だよ。見くびってもらっては困るな」
不敵に笑い、マグリートがワインを注ごうとしたので、シガルが代わりにグラスにワインを注いだ。
「それで、俺に、その日記を入手させようということですか?」
「ご名答!さすがシガルだね」
マグリートはワイングラスから手を離し、両手を叩いて喜んだが、シガルは頭を抱えてしまう。
「あのエファン様の私物を盗むなんて、不可能に近いです」
「そう?持ち歩いているってことはないと思うけどね」
「彼の自宅か、城の執務室。もしかしたら、隠し部屋があるかもしれない。可能性が無限すぎて絞れませんよ」
「隠し部屋はないよ。多分城の執務室」
「マグリート様。すでにそこまで調べていますか」
「うん。日記の内容も大体わかるんだけど、方法だけがね」
そこまでわかっているのであれば、自分の助けなど必要がないのではとシガルは顔をしかめた。
「マグリート様の手腕であれば、日記なんて簡単に手に入るのではありませんか」
「うーん。どうかな。まあ、それくらいシガルにも協力しないとね」
「それくらい、」
言い方に少しだが、シガルは頭にきてしまう。
だが本人に悪気はまったくないようで、そのまま軽快に言葉を続けた。
「君、ずっとコダマちゃんにべったりじゃないか。本当は彼女を返そうと思ってないだろう?」
「何を!」
それはシガルを完全に怒らせるには十分で、彼は立ち上がった。
「あ、図星?ごめんね。僕正直者だからね。まあ。座って。続きがあるから」
口調は軽いが視線は鋭く、シガルの怒りの炎はすぐに鎮火された。しぶしぶと再びソファに腰を下ろす。
「……これは君のためでもあるんだ。日記を入手したらコダマちゃんに渡してあげて」
「は?」
思ってもいないことを言われ、シガルの顔が歪み、それを楽しげにマグリートは眺めた。
「彼女が読んだほうがいいと思うんだ。そしたら面白いことになると思うし」
「面白いこと?」
李花が、サイラルの母親の日記を読むことに、まったく意味を感じないシガルは、不服そうな表情をしたままだ。
「まあ、僕としてはキリアンが一番、なんだけど。君も捨てがたい」
「マグリート様。おっしゃっている意味がまったくわかりません」
「ネタばらしはまだだよ。いいから君は僕の言うとおり頑張ってサイラルの部屋に忍びこんで、日記を入手してね」
結局シガルはマグリートの真意を教えてもらえないまま、来客があるからと屋敷から追い出された。
★
翌朝、李花はいつもの様に慌しく起こされることはなかった。
気持ちよく目覚めると入ってきたメイドに、キリアンとの朝食は大臣との会議があるため、中止になったと伝えられる。
それだけでなく、通常なら現れるはずのシガルの姿も見えなかった。
運ばれてきた朝食を食べ終わり、扉を開けると別の近衛兵に頭を下げられた。
「あの、ボットさんは?」
「シガルは午前中、別の用事をしており、私が代わりを務めます。何かございましたらお呼びください」
そう言われて、仕方なく李花は部屋に戻る。
問題はトイレだけだが、最近はかなり神経も図太くなってきているので、トイレに案内してもらうことくらいは羞恥を覚えなくなっていた。
「でも暇」
いつもは朝食の後、シガルと勉強をしていた。
時間が空いてしまい、李花はすることがないので、暇つぶしでもないかと窓の外に目を向ける。
「え?」
とんとんと軽快に壁の出っ張りを利用して歩く者がいた。
「かか、違う。ボットさんだ!」
李花は窓際まで近づき、それがシガルであることを確認する。シガルは「彼女」の姿に気がつくと、速度を上げ窓から侵入した。
「ボットさん?!」
少し息の上がった彼は、いつもより身軽な格好をしていた。制服ではなく、城壁と同色の茶色のシャツとズボンを身につけ、腰には巻かれた縄が括り付けられていた。
「どうかしましたか?」
物音に気づき、扉の外から近衛兵が声をかける。
「なんでもありません」
シガルに静かにするように手振りで伝えられ、李花は扉に向かってそう答えた。
「何か異変があったらすぐに知らせてください」
「はい」
(すでに異変といえば異変だけどね)
そんなこと思いながらも素直に返事をして、シガルに向き直る。
「どうしたんですか?」
彼らしくない行動、というかシガルであれば正々堂々と正面から入ってきてもいいのに、李花は首を傾げる。
「ちょっと用事をしていまして。これを」
腰の紐にかけてあった巾着袋からシガルは一冊の古ぼけた本を取り出した。
「なんですか?」
「エファン様の母上の日記です」
「え?ってことはもしかして宰相様の部屋から盗んできたんですか?」
声が大きくなった李花の口をシガルは慌てて手で押さえた。
(いや、ちょっと。ドキドキするんだけど)
彼の傍に引き寄せられる形になり、「彼女」は場違いな胸のときめきを覚える。しかしシガルはそんな彼女の様子に気づくことなく、扉のほうへ視線を向けている。反応がないことに安堵して、彼は李花を解放した。
「どうしましたか?」
「なんでもないです」
(いやいや。何意識してるのよ。私。しかも今は私は男なのに!ああ、なんて不毛なときめき)
李花は首を横に振ってから必死に平静を装う。
シガルは「彼女」の挙動不審な動きに慣れているので、何も疑問を持たず、そのまま言葉を続けた。
「それならいいですけど。その日記ですが、マグリート様から言われてしまって。あなたがそれを読めば何か面白いことがあるようで」
「面白いこと?」
「はい」
(意味わからない。やっぱりあの外務大臣はちょっと変だ)
しかし、今回の首謀者のサイラルの母親の日記なので、無関係とは言えない。だから素直に読むことにした。
「……ボットさん」
日記を開き、李花はそのままの姿勢で固まった。
(えっと、日時はわかる。でも、)
「……ごめんなさい。書いている内容がわかりません」
そう言われ、シガルは本に目を落とす。
「そうですね」
シガルになら読むことはできる。
だがシガルはアヤーテ人でその言葉は母国語である。文字習いたての李花にちょっと字体が崩れた文字を読むのは至難の業だった。
「マグリート様……」
彼はこのことを予測していたに違いない。
シガルは天井を眺めてから、息を吐く。
「ボットさん」
「読めないのは当然です。私と一緒に読みましょう。どうせ、私も読む必要があったと思うので」
「はい……」
(うう、なんか結局迷惑をかけてしまうのか)
ちょっとした引け目を感じてしまい、李花は俯いてしまう。
「そんな気にしないでください。ちょうど勉強だと思えば。でも、こうなると正面から普通に入ったほうがいいか。リカ。私は一旦兵団の宿舎に戻り服を着替えた後、戻ってきます。それまでこの日記を預かっていてください」
「彼女」の返事を待たぬまま、シガルは本を渡すと窓に近づく。
そしてひょいと体を浮かし、窓の外に出た。
「それではまた後ほど」
シガルは手を振ると、身軽に壁の出っ張りを伝って降りていく。地面に到達し、窓から様子を窺う李花に笑いかけた。
(え、うわ。なんかめちゃくちゃ幼い顔だ)
笑顔を見たのは初めてではない。
だか、李花はその笑顔に妙にどきどきしてしまった。
(あー。もう私、頭がおかしい。今は、男なのに!)
動悸を落ち着かそうと「彼女」は窓から視線を逸らすと深呼吸を繰り返した。
そうしていると、扉が叩かれた。
(ボットさん?早すぎる。ありえない。誰だろう)
「どなたですか?」
「俺だ。俺」
「係長?」
(こんな時間に?なんで?)
いつもであれば「彼」が勉強している時間帯だった。しかし別に断る理由もなかったので、中に招いた。
後ろで困ったような顔をしている近衛兵にはとりあえず笑いかけておく。すると彼は安堵した表情を浮かべ、泰貴が中に入るのを確認すると扉を閉めた。
「……悪いニュースだ」
二人きりになり、「彼」は低い声で言った。
「何ですか?」
(何だろう。係長、めちゃくちゃ顔色が悪い)
「婚儀発表の日程が決まった。一週間後だ」
「一週間後?なんで急に!」
「さあな。今朝の大臣会議で決まったそうだ」
「彼」は額を押さえ、片方の手を椅子に背もたれを掴む。
(一週間後。まだ帰るヒントさえ掴んでないのに!え、ヒント。そういえば)
李花は先ほどシガルに手渡された日記を開く。
「何だ?それは?」
「これですか?宰相様のお母さんの日記です」
「宰相の母親?なんでそんなものが」
「なんか、外務大臣様に言われてボットさんが宰相様の部屋から持ってきちゃったみたいです」
盗んだとは言いがたく、そんな風に伝えてみる。
すると泰貴が顔を上げた。
「貸してみろ」
「え?でもこんなぐちゃぐちゃな文字わかりますか?」
「ああ、俺。アヤーテ語完全にマスターしたからな」
「ええ?」
「ふん。お前とは出来が違うからな」
「し、失礼ですね!」
李花が口を尖らせ怒ると泰貴が笑った。
「本当。お前。癒し系。なんか気が軽くなった。その日記読んでみるぞ」
「え?でもボットさんが後から」
「はあ?別に今でもいいだろう。俺が読めれば奴の助けもいらないし」
「そ、そうですけど」
「ほら。座れ。読むぞ」
戸惑う李花に椅子を勧め、向かいにあった椅子を「彼女」の隣に寄せると泰貴は腰を下ろした。