第九帳
やっと、全てが終わります・・・。
玄関の戸がゆっくりと閉じられる音がする。
二人の会話の内容までは分からなかったが、漏れ聞こえてきた声から鈴音と知らない男の人だと分かった。
それが、地下に閉じ込められたというナツという男かどうかは判別しかねた。
どちらにしろ、自分には関係のないことだと割り切って、百花は寝返りを打つ。
枕元に置いてある目覚まし時計の音が耳について寝られない。普段はそんなことないのに、今日はいつになっても眠気がやってくる気がしなかった。
誰もいない屋敷で、自分だけがベッドの中にいる。言葉は矛盾するだろうが、すなわちそれは『蚊帳の外』ということに他ならない。
「はあ、寝よ・・・」
というか、寝るしかない。こうやって、ベッドの中で悶々としていても無意味だし、かといって屋敷から出て伏見山神社に向かっても無駄なことだ。
私にできることは何もない。
百花は早く睡魔がやってくるのを祈りながら、必死に目を閉じる。途端に、さっきよりも秒針の音がうるさくなった気がした。これは、逆効果だろうかと思っていると、時を刻む音とは別の音が聞こえることに気がついた。
「何かしら・・・」
すっと布団をどけて、自室を出る。
それは、電子音のようなものだった。
ピリリンピリリンピリリン――――
階段を下りる頃には、携帯電話の着信音だと分かるくらいに音が大きくなっていた。
音は、縁側から聞こえる。
ピリリンピリリッ。
一旦途切れたかと思えば、
ピリリンピリリンピリリン――――
再び再開される着信音。
「流兄様のものだわ」
縁側の廊下に無造作に置かれていたスマートフォンは、間違いなく流のものだった。
そして、液晶画面には、発信者の名前が写し出されている。
―――――兄貴
百花は、その二文字に妙にほっこりしながら、スマホを手に取る。
だが、
「これは、流兄様にかかってきたものだから」
自分が出たところでどうにもならないことは、痛いほど承知していた。
いったいいつからかかっているのだろう。
兄は何度ダイヤルを回しているのだろう。
そんな、考えても意味のないことが百花の脳裏を過ぎる。
スマホをそっと床に置くと、自分が認知しているだけでも五回目の着信が鳴り終わった。どれほど切迫した状況かなど、押して測れる。
六回目はやって来ない。
諦めたのだろうか。
「お前は、それで良いのか?」
「誰!?」
百花が振り返ると、庭に一匹の猫がいた。
厳密には猫ではない。
猫耳を生やした少女だ。
「貴女は・・・可憐さんの」
伏見山の鎮魂祭に出席した際、司会を務めていた式神だ。
「小夏さん、ですよね?」
うろ覚えの名を呼んでみると、かっかと笑い「そうしておこう」と、意味深な言葉を呟いた。何だか喋り方も違うし、もしかしたらまた別の式神なのかもしれない。
「それで?なぜ出なかった?」
「え?」
すぐには電話のことだと分からず、百花は素っ頓狂な声を出す。
「重要なことだったのではないか?」
しばらく、足元のスマホを見つめ、息を吐いた。
「だとしたら、私のところにかかってくるはずですから」
チラッと、手にしていたもう一つのスマートフォンを小夏に見せる。部屋を出る時に、自分のスマホも持ってきておいたのだ。
もしかすると、という期待と共に。
「しょうのない子らじゃな・・・」
少女の声には不釣り合いな話し振りを不審に思いながらも、無視することに決める。
そして、これ以上何かを期待するのは無意味だと、踵を返した。
「それでは、ごきげんよう。夜も更けてまいりましたので」
「仕方ないから、儂から頼むとしよう」
「はい?」
まさか、そんな展開になるとは思わず、足を止めてまじまじと小夏のまあるい目を覗く。
「兄の名代として、お前が行くのだ」
「それは・・・流兄様にスマホを届けろということでしょうか」
経験上、お使い以外の役立ち方を知らない百花は咄嗟にそう言った。
「ははははは。なかなかに面白いことを言うではないか。そんなことをして何の役に立つというのだ。あやつは、心配で電話を掛けているに過ぎん。神器に霊力を注ぎすぎて動けんとはまこと情けないのぉ」
小夏は「そこでじゃ」と、身を乗り出した。
「兄に代わり皆の元へ馳せ参じよ」
「な、っ!」
簡単に言ってくれるが、陰陽術の使えない自分にどうしろというのか。近くで祈れとでも?
祈ったところで、百花の祈りには何の力もない。
「お、お断りします!私が行っても足手まといにしかなりません」
「なぜ、そう思う?」
「なぜって・・・私には陰陽術が使えないんです。戦えない、防御もできないとなれば、そうなるのは必然でしょう!?」
百花は真実をぶつけたつもりだったが、小夏はなおも食い下がる。
「必然となぜ決めつける」
「だからっ」
「お前が生まれてきた意味が、神咲の妻になることだけだと、それ以外に意味はないと、なぜ決めつける」
小夏の言いたいことは分からなかった。何も分からないが、無性に百花の胸を苦しめた。
「分かった。ならば、言い方を変えよう。誰が勝つか負けるか分からん戦況の中で、いつ死ぬとも知れん前線に神咲流は立っている。今、あの子の隣にいるのが自分ではなく他の誰かだという状況を、お前は良しとするのか、否か!」
ずるい言い方をする。
流の妻になること以外の意義を説いておいて、流の妻になる者としての矜持を問い質す。
不覚にも、嫌だと思ってしまった。
小夏は百花の目を見て、答えを受け取ったらしい。
「急げ。時はない」
遠くからやたらとサイレンの音が聞こえてくる。
流とは関係のないものかもしれないが、危機意識が急に頭も擡げ、百花の足を動かした。
「流れを変えよ」
小夏が最後に言った一言が、耳に残った。まるで、いつも兄が語って聞かせてくれる祖父のようだと思って。
陰陽の流れを変えるのは、陰陽師の役目。
自分にそんな大それたことはできないだろうが、流の横に立つ者が他の女であるのは、絶対に嫌だった。
* * *
硝煙が立ち昇り、土や材木の焼ける匂いにむせ返る。
皮膚まで焼けているのではないかと錯覚するほどに肌が熱い。
炎は天高く燃え滾っていた。
もう、社どころか伏見山の屋敷も燃えている有様に、呼吸を止めてしまいたい衝動に駆られる。
実際、煙と熱気で息をするのも辛かった。
「シロオニ、矢はあと何本ある?」
小夏が用意した矢は二十本近くあった。
しかし、そのほとんどは熱風で消しとばされていた。
まともに当たったのは、雅に向けて放った最初の一本だけだ。
「残りの本数?それに意味があるように思えないけどね」
「おい、あんたがそれを言うか?」
冗談は大概にしてほしい。
まあ、今の状況を鑑みれば、冗談ではなかったのかも知れないが。
「次!」
意を決して、流は玉零に右手を差し出した。
手のひらに矢が一本落とされ、握りしめる。
「澱みなき清流の神、青龍に奉る。我が真名は――――」
その時、炎の玉が降り注ぎ、玉零と引き離されてしまった。
詠唱を唱えるだけでも霊力を削る。
流はそのまま言葉を続けた。
無駄打ちのおかげか矢のコントロールは玉零の手助けなしでもいけるはずだ。
「神咲流。水霊をもって炎霊を鎮める者なり。邪気を払いて邪鬼を黄泉へと帰せよ」
先程から笑みを絶やさない妖狐の鼻っ面目掛けて放つ。
「急急如律令!」
何度目か分からない詠唱を終え、矢の行方を見守る。
「学習しない人間ですね」
矢は妖狐の右手に捕らえられ、へし折られた。
途中で失速したのは、矢が凍ったからだ。
「くそっ!」
「陰陽師、引きなさい!」
気づけば地表から炎が吹き出し、流の元へと迫っていた。
玉零は玉零で火の玉を避けるので精一杯な様子だ。
「ちっ」
耳元で舌打ちが聞こえた。
主人に代わり流の腕を引いて安全な場所へと飛んだ隼が、鬼の形相で睨んでくる。
「ありがとう」
助けられた礼を欠くほど恩知らずではない流だったが、隼は「ここでお前が死ねば、玉零様の寿命が縮む」と、徹底した忠義っぷりを見せつけた。
はいはい、そうですかと、心の中で流すも、実際ここで死者が出ようものなら、恐らく隼が言ったことは現実となるのだろう。
それは、狐に取り憑かれた可憐であってもだ。
人を愛す白の鬼は、己を責めてその命を削ることになる。
「大丈夫か、流!」
駆けつけた扇は、腕から血を流していた。
この場で、傷を負っていない者はいない。
可憐を傷つけられない以上、扇、鈴音、楓、優衣は流の援護に回っている。
「本当に、すみません」
頭を下げると、背中を思いっきり叩かれた。
「謝りな。簡単にいくなんて誰も思ってへん」
しかし、これほどに苦戦するとも思っていなかっただろう。
そもそも、分が悪いのは分かりきったことだった。
鎮魂祭の儀式から日も経たず霊力が完全に回復していない状況と、本来ならば槍として完成している神器を成り行きとはいえ、矢として砕いて使っていること。それに加え、矢が凍るのを避けるために、流は常に玉零と共に動かなければならない。
一方妖狐は、死にかけの身体を捨て、新たな器を手に入れた。可憐は鎮魂祭で詠唱を行なっていないので、体力も霊力も有り余っている。
可憐を無傷で妖狐を退治するのは初めから無謀だと言わざるを得ない。
それでも、進むしかなかった。皆を救うためには、十年前からの因果を断ち切るためには、この選択を選ぶしかなかったのだ。
そして、それが最善だと、皆が判断した。
全てを託された流の肩には、耐えきれないほどの重みがのし掛かっている。
気を抜けば、押し潰されそうだ・・・。
「流君、無事?」
楓と優衣が退避してきた。
二人も身体中血だらけだ。火傷も酷い。
ちらりと隼を見やると、溜息を吐いて傷薬を取り出す。
「なんやそれ」
扇の問いに、楓が意気揚々と喋り出した。
「あ、これすごいねん!ナツって人の傷、一瞬で治したんやで!」
「はっ。妖怪の施しなんかいらんわ。俺はいいからお前ら二人で使え」
どう見ても、重傷なのは扇の方だった。
楓と優衣は口ごもり、傷薬を受け取ろうとしない。
「別に恵んでやるとも言ってないしな」
隼が立ち去ろうとするのを、目で追った扇の行動は速かった。
「よっしゃ、妖怪から回復アイテムを奪ってやったで~。いいから、お前ら使え!」
ばしゃっと楓と優衣の傷口にかけ、残りを隼に返す。
「限りがあるんやろ。大将のために残しといてくれよ」
この場合、大将とは流のことだ。
「兄貴・・・」
楓は鼻をすすりながら扇を呼んだ。
本当に、今にも押し潰されて死にそうだ。
「強引というか何というか・・・不躾な兄に代わってお礼を言わせてもらいます」
扇の「余計なことをっ」という言葉を遮るかのように、優衣は隼に頭を下げた。
人と妖は対等に非ず――――
流のようにそれを否と断言するほどの気持ちは持っていないのかもしれないが、この協力関係に妙な心地良さを覚えた。玉零が見ていれば涙を流して感動したかもしれない。
二人の傷は見事に治った。
隼はふんっと鼻を鳴らして、主人の元へと飛ぶ。
ちょうど、鈴音がまともに炎を食らったところだった。
妖狐が留めとばかりに刀を抜く。
「鈴音!」
扇も飛び出すが、間に合わない。
刀身は玉零が持つものよりも長く、心なしか炎を纏っているような気がした。
いや、確実に刀身が燃えている。
誰もが息を飲んだその時、鈴音の前に白の鬼が現れた。
隼が素早く鈴音の腕を掴み飛び去る。
「刀なら、私が相手になってあげるわよ」
「神咲の後ろに隠れるばかりで、いつまで経っても使う気配がなかったものですから、飾りかと思っていましたよ」
「戯言を。貴方こそそんな刀どこに隠し持っていたの?腰に挿していたっけ?」
「これは、屋敷から取ってきたのですよ。全て焼き尽くして正解でしたね。見つけるのに苦労すると思っていたので」
力では玉零が押し負けている。
「これは、代々伏見山家当主が継ぐ家宝で、名を『狂い菊』と言います。それが本来の名かはさておき、わたくしが昔、伏見山に嫁いだ女を斬った刀でしてね。その女の名から、付けられたようです」
隼に助け出された鈴音が、流の横に降りた。
火傷で爛れた腕は見るも無残だった。隼はすぐに玉零の加勢に行ってしまったので、流には傷に手を触れ、冷却することしかできない。
「『菊』は、初代狂い狐の名前や」
鈴音がぼそりと呟く。
「言い伝えでは狐に憑りつかれた菊を神器の槍で斬ったっていう話やったけど・・・全くの出鱈目やったんやな。菊は憑かれたんやなくて、狂わされただけ。憑かれてたんは旦那の方で、それに殺されるとか・・・反吐が出るぐらいの悲劇やわ」
鈴音が唾棄する、彼らに起こった真実は、本当にそれだけの話なのだろうか。
ずっと気になっていた。
妖狐の行動理由が。
妖怪は狂った者ばかりではないと、隼が言ったことは真であると思う。
先の修学旅行で遭遇した雪男達にも彼らなりの正当な理由があった。
妖狐は――――
なぜ人を狂わす?
なぜ何度も現世へと還ってくる?
今、妖狐は何と戦っている?
玉零が力を上手く流し、相手の刀を払い除けた。続けて隼が針を投げつけ、その隙に玉零は妖狐から距離を取る。
そして、僅かにこちらへと視線を向けたかと思えば、一気に反撃に出た。
地を蹴り上げ、優雅に回転して切り込む。
刃と刃がぶつかる音が、豪快に響いた。
「何で、あいつ・・・」
扇の問いに優衣が答える。
「休めってことなんやないの?」
「もしくは、この間に策を考えろいうことかもな」
すかさず突っ込みを入れたのは鈴音だ。
「策いうたかて・・・もしかして、逃げる時間を与えてくれてるとか!?」
縁起でもないことを言う楓が、顔を青くして玉零を見つめた。
「逃げきれるわけないやろ。あの妖怪らが永遠に妖狐の相手でもせえへん限、り・・・」
言ってて扇の表情が固まったのは、気づいてしまったからだろう。
永遠に戦えるわけはないが、もしも玉零たちが妖狐を倒せば逃げ切ることも可能だということに。
この場でそれを一番良しとしない人物の顔を扇はちらりと見やった。
流も同じように覗き込めば、案の定鈴音は怒気を孕んだ目を玉零に向けていた。
「鈴音、待ちや」
扇の制止を聞かず、おもむろに鈴音の足が一歩前に出た。
「殺せませんよ、シロオニには」
冷やすために掴んでいた腕に力を込め、流は鈴音を強制的に踏みとどまらせた。
「そういう種族なんです。人を守るために、人を愛するために生まれた。人が目の前で死ねば、それだけで胸を痛め、寿命を縮める。あの鬼に人は殺せない」
流の説明を鈴音は釈然としない様子で聞いていた。
「ま、俺も流の話は半信半疑やけどな。仮にそれが嘘やとしても可憐に何かあればお前に殺されるしな!殺せば自分も死ぬと分かってて、それを実行する愚かな奴はおらんやろ」
それは、扇なりの説得の仕方だったのだろうか。
鈴音が引っかかっているのはそこではないと、流には分かっていた。
「流君の話、嘘であることを祈るわ」
鈴音は大人しく留まったが、そう独りごちた。
それは、あまりにか細い声で、流以外には聞こえなかっただろう。
一つの仮説。
人を愛おしむ天命を背負った鬼が、もしも本気で流達を助けたいと願ったら――――
彼女は、自分の命を投げ打ってでも、人を殺すのではないだろうか。
より大勢を救うために。
剣戟が激しくなる。
目で追えないほどにその太刀筋は速く華麗だった。
二人の息遣いがここまで伝わってきそうだ。
「で、どうするん?兄貴」
「妖狐を拘束する方法を考えやなしゃあないやろ」
「かと言って、私らが出せるカードは限られてる。風術は拘束には向かんし、木術は試したけど燃やされてしもた・・・鈴音お姉ちゃんが外国で習った術で有効なんないの?」
「そんなん、同じく試し済みやわ。効力が認められたんは、聖水振り撒いた時ぐらい?心なしか火力が弱まった気がした・・・大体、私らの家系は木属性やで?火には分が悪すぎる」
「結界の中に閉じ込めるんは?扇お兄ちゃんやってたやん。あれもう一回張れへんの?」
「大人しく張らしてくれると思うか?」
議論は困難を極めた。
出口の見えないトンネルの中を歩いているような錯覚に陥る。
「流、矢はあと何本あるんや?」
「二本」
答えた瞬間、場の空気が一気に重たくなった。
だが次の瞬間には、目の前の光景に目が釘付けになっていた。
カランと刀が落ちる音と、焼け焦げる肉の匂いが五感を支配する。
玉零は膝をつき、腹を突き刺す刃を手で受け止めていた。
「動くな!」
珍しく大声を出す玉零の言葉は、誰に向けてのものだったのか。
恐らくは従者に発したのだろうが、その声は反射的に動こうとした流の足も止めた。
「流君」
鈴音が首を横に振る。
今、出ていったとしても何ができるわけでもない。
だが、ここでじっとしていて事態は何か好転するのだろうか。
流れは変わるのだろうか?
「離して下さい、鈴音さん。俺は!」
しかし鈴音は流の腕を掴んで離さない。
「鈴音さん!」
「今は!今は・・・行かんといたってほしい」
鈴音の懇願に流は面食らった。
「ああ、まだ死んでなかったのですね」
鈴音が、そして妖狐が見据える先を凝視する。
「風夏・・・」
「何言ってるん?兄貴しっかりしいや!あの人はバイトで来てたナツって人やんか」
結局、ナツの正体を知らなかったのは楓だけだということか。
でも、楓も直に知ることになるだろう。
ナツが、玉無風夏であることに。
そして、
「地獄から還ってきたったで、可憐。それじゃぁ、俺と生き地獄を見るとしよか」
覚悟を決めた男の強さを。
* * *
血が溢れて止まらない。
視界がぼやける。
身体中を裂かれた痛みはもはや感じはしないが、喉奥に詰まった血の塊が風夏に苦痛を与え続ける。
「息ができないのかい?可哀想に・・・でもこれは自己防衛だよ。警告したのに、それでも僕に危害を加えようとした君が悪い。馬鹿とは言わないけど、君の純粋さは罪だな」
十年前にも同じ言葉を聞いた気がする。
これは、罪だと。
「逃げぇ!」
あとから来た鈴音が叫びながら、風夏を庇うようにして前に立った。
何やら外国の言葉で詠唱をして、異国の術を発動させようとしているようだ。
数年ぶりに会った一つ上の姉は、想像以上に強くなっていた。
手術のために渡米していた折、エクソシストになるとメールが来た時には正気を疑ったが。
鈴音は鈴音なりに、十年前の出来事と向き合って生きてきたのだろう。
それに比べて、俺は・・・
「久しぶりに二人で実家帰ろうや」
数年振りに聞く鈴音の声にいろんな意味で呆気に取られたのは、今から二ヶ月前のことだ。
初めこそ反対していたものの、「何や大人になって腑抜け卒業したと思てたのに、あの時のまんまか。そんなんやったら、また守れへんで?男になったんとちゃうんか?」などと意味深なことを言われて挑発されては戻らざるを得なかった。
奇しくも、今年は伏見山の鎮魂祭の年。
鈴音が招集したからには何かあるのだろうと思っていたが、まさかこんなことになるとは・・・。
鈴音はどこまで知っていたのだろうと、霞かける頭の片隅で風夏は思う。
十年前も言い出したのは鈴音だった。あの時の結末ほど、陰惨なものはないだろう。決して望まぬ最後だった。何も知らなかったで許されるとは到底思えなかった。誰かに言われなくても、罪だと理解できた。
しかし、予想と実際との差は、鈴音の場合、風夏ほどではないのかもしれない。でなければ、何か考えがあるのだとしても、可憐を再び狂い狐にするなどという凶行には及ばないだろう。
鈴音の考えが分からない。
可憐のために行動しているという信用はあるものの、その方法が間違っていないという保証はどこにもないのだ。
十年前の過ちが脳裏を過ぎり、風夏はこれ以上鈴音に協力する気力が失せた。
地下牢に入れられて、何もできなかったのは・・・このまま可憐の後を追って死ぬのも有りだなどと思考を掠めたのは、そういう理由。
生きたいと訴える可憐に鈴音は狂えと促した。
それをただ黙って見ていた自分も同罪だ。
狂い狐というのは自分のことかもしれない・・・。
そこまで考えて、風夏の思考は奥深くへと沈んでいった。
十年前――――――
老人が哀れむように風夏達を見ている。
どうして、大人に頼らなかったのだと責め立てながら、自身の未熟さにも腹を立てて、嘆いている。
「無知では許されん。これは、罪じゃよ」
『罪』という言葉が重くのし掛かり潰されそうだった。
警察に突き出される覚悟は初めからあったので「100番を」と自ら口に出した。
「はっ、何の罪や言うねん。殺人罪?私らは妖怪を殺そうとしただけや!」
風夏の肩を掴み、前に進み出た姉が老人に噛み付く。
でも、その手は確実に震えていた。
「間違った方法でな。玉無に神器は使えん。誰でも使えるなら、とっくに儂かお前達の母親が使っておるわ。子供だけで一体何が出来ると思うた?あと十年待てば・・・いや、時期を見ていたというのは、言い訳じゃ。儂にも非はある」
全て自分達がしでかしたことだというのに、老人が後悔しているような顔をするのが理解できなかった。
突き出せばいい。警察でも、陰陽京総会でも。
これが老人の言う通り罪だと言うならば、未成年ということで法に守られることになろうとも、母は―――総代は適切な処罰を下すだろう。こういう場で私情を挟むような世間一般的な母親でないことは分かっている。
一生幽閉の身になることも十分考えられるのだ。
「なあ、鈴音。全部俺が一人でやったことにしてくれへんか?」
「は?何言って」
「お願いやから!」
肩に置かれた鈴音の手を無理やり払いのける。
幾ばかりか、心が軽くなった気がした。
「じいさん、頼む!罪は俺が背負うから!」
老人の顔に刻まれた深い皺は微塵も動かない。
「一人で背負えるような代物ではないことぐらい分かれ」
老人はふと風夏達の後ろに蹲る二つの塊に目を向けた。
思わずその目の動きを追いかけてしまい、風夏の視界にも入る。
血の海に浮かぶ肉塊と、その肉塊を切り刻み続ける少女の姿が。すぐに視線を外すも、ざん、ざん、と、一定の感覚で聞こえる音が、どっと血を沸騰させる。
嘔吐の衝動を己の腕を噛むことで何とか紛らわし、平静を保つ。
「狂い狐・・・その正体は妖狐の狂気に当てられた哀れな人間のことじゃったということよ。その娘のようにな」
声に哀れみを含ませてはいても、地獄のような光景を表情も変えず凝視できる老人の神経を疑った。
神器による最初の攻撃を与えた張本人でさえ、その結果を一切見ようとしていない。見れば気が触れると、理屈ではなく本能で分かっているからだろう。
その張本人たる鈴音が、ゆっくりと口を開いたのは、風夏の腕から血が滲み出て床に染みを作り始めたときだった。
「せや。狂わされた可憐は被害者や。何も悪ない。可憐はな、両親を殺されたと思てる。毎晩実の兄に犯されてたと思てる。そんな悪夢を見させた怪物を殺して、何が悪い」
「鈴っ・・・」
それは違うという言葉は飲み込んだ。
可憐を庇うためなら風夏も同じことを言うだろう。初めから真実を知っていたなら話は別だが、知らなかったという罪を傘にきて、可憐を擁護することはできる。
だけど。
もしも、雅が(・)最期に(・)言った(・・・)ことが事実だとしたら?
本当は。
その可能性を捨てきれなかったからこそ、口を噤んだのだった。
「そうか・・・いや、何も言わんよ。どちらの方が罪深いかを説く気はない。全ては、伏見山の真実も現状も知っていた上で、機が熟すのを待つという言い訳を重ね、今まで放置してきた儂の責任じゃ」
老人は悲嘆な声を漏らし、着物の袖から数枚の札を取り出し宙へ投げた。
「式」
たったそれだけの言葉で、札は忽ち人の姿を形どる。
「片付けよ」
人の形ではあるものの、それらに顔はなかった。初めて見る『式神』というものに、呆気に取られているうちに、あるものは可憐をその場から引き剥がし、あるものは雅の死体を担ぎ上げ、あるものは血で穢れた土をかき集めていた。
「どういうつもりや」
その問いを口にしたのは鈴音だった。
「兄の方はこちらで弔っておく。今日から妹が伏見山の当主じゃ。鎮魂祭の最後の儀式で他の陰陽家に宣言させる。兄を模した式神でな」
「は?そんなん、」
何で貴方がそこまでする必要があるのかと。
多分、鈴音はそう聞きたかったのだと思う。
「多くを欺く覚悟を持て。儂とてこれが正しいなどと思ってはおらんよ。子供だからと容赦したのでも、擁護するわけでもない。これは、過ちだと、自覚を持ってこれから生きよ」
虚ろな目をした可憐の傍に寄り、老人はその手に握りしめられていた包丁を手に取った。
「お前もじゃ。いつか真実を知るときが来ても、堪え忍べ。呪いを断ち切りたければ、孤独に耐えよ。それでも、隣に誰かが居ったなら・・・それだけで、幸せなのだと思え。多くは望むな。自分が生まれた意味を、少ない幸の中から見出すのじゃ」
そして老人は可憐の目を覆い、何かの呪文を唱えた。
「眠った。着替えさせてやれ」
可憐の体を鈴音に預ける。
風夏に頼まないあたり、もう分かっているのかもしれない。
風夏の心は男だということに。
「記憶を混濁させる術を施した。殺した記憶までは消えはしないじゃろうが、この戦闘で揺らいだ心は封じれたはずじゃ。この子の中では、いつまでも兄が絶対的な悪であろう。が、お前達が接触すれば、それも解けるかもしれん」
つまり、風夏達は、これから可憐の傍に居られない、ということか。
「風夏といったか・・・いや、夏と呼ぶべきじゃな。この子の傍にいたければ、相応の代償を覚悟することじゃ」
鋭い視線は真っ直ぐに風夏―――否、夏の目を見ていた。
夏の中に流れる何かを読み取ろうとするかのように。
雨が降り出した。
身体についた泥も、血も、流れていく。
伏見山の屋敷の中へと可憐を運んでいく姉の小さな背中を眺めながら、夏はその細い腕を掴んで、助けてやれない自分を情けなく思った。
鈴音は可憐に雨がかからないようにしているつもりなのだろうが、可憐の頬には雨水が滴っていた。
それを見て、胸に穿たれた穴が広がっていく心地がした。
これでいいわけがないということが、理論や理屈や道徳ではなく、
己の感情として押し寄せてくる。
この間違いを糺さなければならないという脅迫にも似た考えが脳を支配する。
でも、そんなことはできない。
起きたことは元には戻せないのだから。
ならば、せめて――――
罪を認め、悔いる努力をするべきだと思うのだ。
その機会を取り上げられた自分達は、懸命にその機会を作る必要があるのではないか。
つまりは、事実を公にする必要があるのではないかと。
老人があの時、夏から何を読み取り、侘しそうな顔をして去っていったのかは分からない。
しかし、夏はあの瞬間、全てに誓って決意した。
相応の代償を払う覚悟ができた時、過去を明かすと。
どんなに傷つき、その痛みで死にたくなったとしても、愛する人に、罪を認め懺悔する機会を与えようと。
それが、―――俺の悲願。
* * *
焦げた土を踏み歩き、玉無風夏こと、玉無夏が妖狐の前に現れた。
「生温い悪夢はもうええ。死ぬより辛いと分かってても、俺らは生きていく」
その、覚悟を決めた目つきにこちらまで息を飲んだ。
隼の薬で傷口は塞がっているとはいえ、立っているのもやっとだろう。それでも、夏は続ける。
「隠し事はいつかはバレるもんや。十年前、可憐も俺達も未熟で幼かった。真実を知ったところでそれを可憐は受け止めきれんかったし、俺達も可憐を支えるだけの力はなかった。でも、こいつはこの十年、誰も味方がいいひん中、よう耐えた」
「隅田が掛けた術を解くと?」
妖狐が嘲笑う。
「隅田?」
その単語に反応したのは流だけではなかった。それに鈴音が説明を加える。
「可憐が当主を継ぐことになって見張りの式神を置かなあかんいうことで、隅田隆凱が京都に来ることになったってのは、嘘や。鎮魂祭で当主交代を宣言した雅は隆凱が用意した式神。鎮魂祭が始まる前日には京都に来てたんよ。そう、私らが雅を殺した・・・と思ってた時もそこにいた。その時に、心が壊れてしまった可憐を落ち着かせるために記憶を書き換えたんよ。そのことには感謝してる。私も、あんなことは知りたくなかった。でも・・・もう、潮時か」
夏を見つめながら鈴音は諦めたような、安堵したような声を漏らした。
「しかし、隅田の術を解こうにも、この子の意識はもはやありませんよ?どんなに叫ぼうと貴方の声は届かないでしょう」
「誰が、術解くためや言うた」
「・・・何を言いたいのですか?」
妖狐が首を傾げた瞬間、玉零が刺さっていた刃をさらに食い込ませ、妖狐の腕を掴んだ。
「はは。そういう、こと・・・」
不敵に笑う玉零に妖狐が初めて表情を崩した。
刀を引き抜き、玉零から距離を取る。
「玉零様!」
素早く隼が駆け寄り、その身体を支える。
「貴女という方は、無理をなさる」
「ごめんなさい。今を逃せば、触れられなかっだろうから」
口から零れた血を拭いながら、玉零は立ち上がった。
この一瞬で白の鬼は何を読み取ったのだろうか。
「随分と無粋なことをしてくれますね。鬼一匹に何ができるともないでしょうに」
傷口を抑えつつ「そうね」と呟く。
そして、
「私はこの件に関して、傍観を決めるわ」
キッパリと、そう宣言した。
「おい、ちょっと待てよ!」
慌てて声を上げたが、扇に止められる。
「結局は、あいつも妖怪ってことや。血も涙もない鬼に何を期待しても無駄やろ」
違う。
玉零はそんな奴じゃない。
赤く染まった玉零の腹部を見ながら、何かを言わねばと気だけが焦る。
だが、反論の言葉は出てこない。
高らかな妖狐の笑い声だけがその場に響き、耳が痛くなった。
「だそうですよ?さて、どうしますか。陰陽師の方々」
ニンマリと口角を上げる妖狐に、一歩踏み出たのはやはり夏だった。
対人距離は五メートルもない。それ以上近づけば、妖狐が攻撃を放った際、避けるのは難しいだろう。
「可憐。もう思い出してるんやろ?」
夏は可憐に語りかける。
「結界を自分から破ったんは、あの時のこと思い出したからなんやろ?」
「馬鹿馬鹿しい。もう、この子の意識はないと言ったでしょう」
苛立ち気味の妖狐は右指の爪を左指の爪で研ぎながら目を細める。
「黙れや。それともビビってんのか?」
負けじと挑発する夏に牽制の炎が飛んだ。
寸でのところで直撃は防いだが、左肩の服が焼け焦げている。
「次はないですよ。ここでわたくしを見逃すというなら―――」
そこで夏は一気に距離を詰めた。
「お前に俺は殺せない」
妖狐―――否、可憐の肩を掴み、夏は至近距離で囁く。
「お前の罪は、俺が半分背負たる」
「ほ、ざけっ!」
間髪入れず夏の首に妖狐の爪が食い込み、鮮血が流れた。
「風夏!」
堪らず飛び出しかけた扇を鈴音が引き止める。
「ここまで来たら、どうすることもできん。あの子の好きにさせたって」
「退け!見殺しにできるか!」
鈴音の腕を振り払い、駆け出す扇の前に大槌が立ち塞がった。
「ここは扇お兄ちゃんの出る幕やない。夏お兄ちゃんに任すべきや」
行く手を阻む優衣の言葉に、扇の動きは完全に止まった。
「風夏が、俺と同じやって気づいてたんか・・・」
その一言に戸惑いを隠せない様子で楓が手を挙げる。
「はいはーい!・・・え、と・・・・どういうこと?」
相当動揺しているようだが、誰かが答えずともすぐに理解は追いついたようだった。
じっと夏を見つめ、自嘲気味に笑う。目の淵には涙が浮かんでいた。
「何で、うちだけ気づかんかったんやろ・・・優衣、ごめん」
夏を地下牢から逃した件を咎めたことを言っているのだろうか。それとも、この二人の間だけにあった何かを指しているのか。その判断は流には付かなかったが、ようやく玉無の兄妹が一つになったような気がして嬉しく思った。
と、同時に――――
「打開策を思いつきました」
一本の道が見えた。
「何やって!?」
「それは本真か!?」
夏と妖狐に目を向け、断言する。
「はい。今なら」
妖狐の爪は夏の首を貫いてはいなかった。
首を絞める手を強めようとしても、なかなか上手くかないのだ。
内にいる可憐の意志が、夏を殺すことを拒否している。
「二人が妖狐を食い止めてくれている今なら、確実に俺の矢が当てられます」
「でも、そのためにはあの妖怪の力を借りやなあかんのとちゃうんか?」
扇の意見に流は首を振った。
「シロオニの力を借りなくても、俺達でできます。いや、俺達でやらなきゃいけないんです。可憐さんを救うのに陰陽師としての矜恃は関係ない。これは人の領分だ。人を裁くのも許すのも人にしかできない役目だから・・・これは俺達が力を合わせてやるべきことなんです」
隼の方をちらりと見やる。
玉零と隼は全体を見守るかのように距離を置いて、佇んでいた。
軽く二十メートル以上は離れているだろうに、ひそひそと話す流の声も二人なら聞き取れていることだろう。
「分かった」
扇のその一言に口を挟む者は誰もいなかった。
各々思うところはあるだろう。
小夏が言ったようにそれぞれの終着点は違っていたはずだ。でも今は――――
流は作戦を口早に説明した。
これが上手くいけば、誰も傷つかずに終わらせることができる。
「よし、行くで!」
扇の合図で皆が一斉に動いた。
「ありがとう。もっと早く助けを求めれば良かった・・・」
持ち場に向かう際、鈴音は流に頭を下げた。
もっと早く・・・どの段階のことを鈴音が思ったのかは分からない。でも、今だからなんだと思う。
神咲が京都の地に帰ってきた意味は、流がここにいる意味は―――
今、この時のために。
「澱みなき清流の神、青龍に奉る。我が真名は神咲流。水霊をもって炎霊を鎮める者なり。邪気を払いて邪鬼を黄泉へと帰せよ」
詠唱を唱える。込める力は最大限。放つ前から矢の先が凍っていく。しかし、その重みは関係ない。
「風霊、風気、風精。加速!」
隣に立つ扇が扇子を開き前方目掛けて閉じた。と同時に、矢を放つ。
人間技には思えない速度で飛んだ矢はしかし、案の定目標物を捉えきれてはいない。
「そっちじゃない!もっと右!」
離れたところから楓が風向きをコントロールして軌道を修正する。
「離せ!ここで、やられるわけには・・・」
妖狐は夏を力任せに振り払おうと藻搔いた。
このままでは妖狐に当たらない。
「木霊、木気、木精。悪鬼を捕らえよ。急急如律令!」
優衣の出番だ。
「玉無の専売特許は本来こっちだっての!」
地面から現れた木の芽はみるみるうちに蔦となり、妖狐を夏ごと締め上げた。
「こんなもの・・・わたくしの炎で」
妖狐の周囲に火の玉が浮かび蔦は一瞬のうちに焼き払われる。
「はっ。他愛もないですね」
だが、
「それを待ってたんだよ」
燃え盛る炎を突き抜けて矢の氷が溶けた。
「急急如律令!」
流は最後の詠唱を終えた。
矢じりから力が最大限に溢れ出す。
四方に飛び散るのは大量の水。
それは妖狐を飲み込んだ。
必死に抵抗する妖狐は逆効果だというのに炎を出し続ける。
「氷であんたは倒せない。だから、水にする必要があった。でも、今俺の氷を溶かしているのは・・・可憐さんなんだろ?あんたにその人を乗っ取ることはできないよ。あんたは、ここに還ってくるべきじゃなかった」
「お、のれ・・・・・」
水の中で妖狐が顔を歪めている。もう、分離は始まっていた。
「・・・・・ありがとう」
ふと、可憐が穏やかな笑みを零したか思えば、完全に妖狐が抜けた。
水が弾ける。
「可憐!」
倒れた可憐の傍に夏と鈴音が駆け寄る。
「ごめん。私のために・・・随分手を汚させてしまった」
「そんなん、私かて・・・十年前のこと、思い出したんやろ?」
可憐は静かに頷いた。
そして、雅の元にすり寄り、愛おしそうに頰を撫でた。
「全部思い出した。十年前、兄さまに留めを刺したのは私。鈴音となっちゃんは神器を使いこなすことができなくて、結局砕けて壊れただけやった。そこで兄さんは話してくれたのよね」
ポツポツと話し出す可憐に皆は耳を傾けた。
少し後ろに玉零達もいる。
雅が十歳になった時、東京から隅田隆凱を呼び寄せ、妖狐に憑かれる要素があるかどうかを診てもらったという。これは元々、伏見山のしきたりとして行ってきたものらしい。その際、神咲家の者も同席することになっており、行方を眩ます前の龍子もいたそうだ。
結果は、否だった。しかし、ほどなくして伏見山夫妻に子供ができ、その祝いに隆凱が訪ねた時、ある事実に気づいてしまった。伏見山美香のお腹の中にいる新たな命に纏う陰の気を。
それは、即ち陰陽の流れ――――
十年後、妖狐の器となってしまう未来を隆凱は読んでしまったのだ。
そのやり取りを雅は覗き見ていた。隆凱は行方知れずとなった龍子を探すと約束し帰ったが、その約束が果たされることはなかった。 雅が十八になった時、隆凱が泣いて詫びに来たのだ。神咲龍子は、可憐が十を超える歳になるまで生きられない、と。
伏見山夫妻の嘆き様は想像を絶するものだっただろう。龍子がその事実を知りながら愛した男の子供を産むことを決意したのか、龍子の思いを汲み取った隆凱が何も伝えずにそっとしておいたのかは分からない。
どちらにせよ、結果として悲劇は起こった。
父親の春輝が可憐に手をかけたのだ。
無理心中だった。
妖狐に娘をやるくらいならと、包丁を向けたのだ。
それを雅が止め、揉み合いになるうちに誤って父親を刺殺。
その光景に幼い可憐の心は爆発した。力を制御できず、全てを炎で飲み込んだ。その際に母親を焼き殺してしまったのだ。
そして、可憐を守るために雅が取った行動は――――
「苦渋の末、兄さまは神降ろしを決意した」
「神降ろし?」
流の質問に答えたのは優衣だった。
「イタコみたいなもんかな?霊を自身に取り憑かせて、交信するっていうあれ」
聞いたことがある。確か、隆世の母親もイタコで有名な橘家の出身だったはず。
「兄さまは勉強熱心で賢い人だったから、知識として既にその方法を知っていた。というか・・・どっちみちやるつもりだったんでしょうね。人の霊とは違って妖怪を呼び寄せるためには身を落とす必要がある。もしかしたら、成功率を上げるために、父さまを殺したのはわざとかもしれない。そうして――――血だまりの中で私を抱きしめて、兄さまは狐憑きになった。それもこれも、全部私のせい。私のため。それから八年間、兄さまは制御できないながらも自我を保って過ごしていた。私は両親の死後、妖狐が見せる悪夢で精神を病んでいった。私の心を弱らせて乗り移る算段だったんだろうけど、どうにか兄さまが食い止めてくれていたの。私は現実と夢の区別がつかなくなって兄さまから離れていったけど、兄さまにしたらその方が良いと思ってたんだと思う。私は、兄さまに生かされていた。兄さまが死ねば、次は私が狐憑きになることも、その時に聞かされたの。あの時の兄さまの言葉は、嘘じゃなかった。それは鈴音も、なっちゃんも同じように感じたと思う」
可憐は、夏の腕を掴んで「そうやろ?」と聞いた。
夏は、俯いて唇を噛んだ。
「でも、遅かった」
可憐が涙を零す。まだ消えずに燻り続ける篝火が、ゆらゆらとその一筋の雫を照らし出した。
「それは、私に刺された兄さまが死に際に言ってくれたことだったんだから」
鈴音が膝をつく。膝に乗せた握り拳はわなわなと震えている。
「ごめん。私が突っ走ったせいや」
「兄さまを殺してくれって頼んだのは私よ。これは、私の罪。あの後、事実を受け止めきれなくて正気をなくしたのも私の心が弱かったから」
全て、自分のせいだと言う可憐に流は居た堪れない気持ちになった。
もとはといえば、自分が生まれたから、こんなことになったのだ。
自分さえいなければ、龍子が狐払いの儀を執り行えた。いや、そうでなくとも十年前のあの時に、隆凱が流を京都に連れていってくれていれば・・・。
「すみませんでした」
流の謝罪が静かに響く。
しかし、可憐は破顔して、首を横に振った。
「十年前って、貴方何歳よ。子供にできることじゃない。私達はだから失敗したのよ。判断を誤った。大人に頼るべきだったのに、自分達に盲信してしまっていた。隆凱さんはこの十年、どうやったかは分からないけど、兄さまを生かして私に妖狐の危害が及ばないようにしてくれていたようね。そして、約束を果たしてくれた。貴方をここに連れてきてくれたんだもの」
そう言って笑う可憐には申し訳ないが、隆凱はこの事態を予測してはいなかっただろう。流の存在が陰陽京総会の知るところとなり、この地に来たのはただの偶然だ。
「でも祖父は俺の存在を隠して――――」
「貴方がここにいることが、全てよ。それ以外の事実なんてないの」
言いかけて止められた。
嫌味ったらしかった可憐は一体どこに行ったのだろう。これが、伏見山可憐の本来の姿だというなら、どれほど長い間、彼女は自分を押し殺して、狂い狐を演じてきたのかと。
胸を押し潰される思いがした。
「ありがとう、ございました」
可憐は周囲をぐるっと見渡して、頭を下げた。
扇は何も言わなかった。ただ、じっと、動かない雅を見ている。
どんな事情があるにせよ、雅を死に追いやった張本人を許せないのだろう。
しかし、
「離れた方が良い」
扇が口にしたのは、思いもよらぬ言葉だった。
「まだ終わってへん・・・・離れろ!」
「随分な言い様だね。扇・・・とでも言っておきましょうか」
その時、絶対に聞こえるはずのない声が届いた。
どうして気づくのが遅れたのだろう。
頭上の空の渦はまだ消えていなかった。
「可憐!」
可憐を引き寄せようとした夏が吹き飛ばされる。
一番雅に近かった可憐は、喉を締め上げられ、身動きができなくなっていた。
「近づけば、殺しますよ?」
一度神器で祓われた妖狐は同じ器には入れないはずではなかったのか。
「どうしてと、お思いのようですね。ははは。完全に黄泉へと帰せてないからですよ。伏見山の結界は何のためにあると思っていたのですか?十年に一度張り替えるというのは形として残っているにすぎません。わたくしを器から追い出した後、器に戻らぬように器の周囲を結界で囲い、守るためでしょうに」
前に狐憑きが現れたのは百年前のことだという。
この百年の時の流れが鎮魂祭を形骸化させたことは想像に難くない。陰陽京総会の構成員の最年長者は玉無家現当主の扇で、その年齢は五十に届いていないのだ。
しかも、実際京都に住む陰陽師達はここに集まっている十代、二十代のメンバーのみだ。その経験や知識は浅く、それ故に妖怪に足を掬われる。
「お前に可憐が殺せるんか?」
夏が聞く。
可憐に妖狐が取り憑いた時と同じ要領で。
だが、
「できる」
その返答ははったりではないように思えた。
「女は強かですが、男は脆い。守ると口でほざいたところで、寂しさには勝てないのです」
「どういう、意味や」
「もし、可憐ではなく貴方が狐憑きだったとして、可憐を手にかけなかった自信はありますか?」
夏の問いに妖狐は問いで返した。
「それは・・・」
言い淀む夏に可憐の瞳が揺れる。
優衣と流に連れ出されるまでの地下牢での夏を思い出す。
可憐の処刑執行とされていた明朝に自害する腹だったことは優衣の推論だが、遠からず当たっていたのだと思う。
「なっちゃんは、できなかったよ・・・私を殺すことは」
可憐の口から漏れ出た声は、か細くはあったがしっかりと響いた。
「可憐・・・」
なっちゃんと呼ぶ可憐が、夏と同等のそして同類の感情を抱いているかは分からないが、二人の絆は妖狐如きの口車で揺らぐようなものではなかったようだ。
「まあ、女は嘘を吐くのが世の常ですが」
人を拐かす妖狐であることを棚に上げ、減らず口を叩く。その顔はどこか悲哀に満ちていた。
「貴女もあの人と同じ、ということですか。ならば、気兼ねなく殺せますね。あの時と同じように・・・」
右手を翳せば、どこからともなく『狂い菊』が飛んで来た。
抜き身の刀は、可憐の首に張り付き、薄っすらと血を滲ませた。
「待って!貴方の行動理由が分からない。可憐さんを殺せば、器がなくなるんよ?その身体はもう持たない。だから、新しい器が・・・本来器となるべき人間が必要やったんやないの!?」
果敢にも妖狐との交渉に臨もうと、優衣が叫ぶ。
「わたくしの行動理由?そんなもの、分からなくて結構ですよ。わたくしが幾度もこの世へ還る理由など・・・」
妖狐は自嘲気味に笑った。
「わたくし自身も忘れました」
刃が、喉を切り裂く――――寸前だった。
駆け出す夏よりも、扇、優衣、楓の術が発動するよりも速く、その白の鬼は『狂い菊』を弾き飛ばした。
そして、その隙に従者が可憐を妖狐から素早く引き離した。
「そういえば、貴方の名前を聞いてなかったわね」
カランと音を立て転がった刀を拾い上げながら、玉零は唐突に聞いた。
「名は?」
「そのようなもの、忘れました」
はぐらかす妖狐に玉零は容赦なく攻め立てる。
「それは、彼女に与えられた名だから?なのに貴方は彼女の名前を忘れないように刀につけてるんだから、おかしな話よね。貴方の行動理由ははっきりしている。菊にもう一度会いたい、それだけよ」
最後に「テン」と妖狐の名らしき言葉を口にして、玉零は話を終えた。
沈黙が降りる。
それぞれ聞きたいことはあっただろう。だが、自ら沈黙を破る者はいなかった。
「テン・・・ですか」
ようやく静寂を切り裂いたのは、妖狐だった。
「どう言えば満足なのでしょう。貴女が何を言おうとしているのかは正直分かり兼ねます。わたくしは、」
「全て忘れたって?憎しみも悲しみも、情も・・・でもね、この刀に染み付いたものは隠せないわよ」
玉零が『狂い菊』を翳す。鎮静化して炎は出ていないが、鈍色に光る刃には雅―――ではなく、恐らくは妖狐自身の顔が写り込んでいた。
蒼白で覇気のない、寂しそうな男の顔だった。それが、あまりにも『人間』としか言い表せられなくて、流は戸惑った。
「貴女・・・何者ですか?」
己の過去を覗き見られたからだろうか。妖狐は余裕を失くしていた。
相手に触れて心を読む能力は父親譲りのものだと聞いたが、物に宿る記憶も読み解くことができるらしい。数多くの特殊な能力を持つ白の鬼は、純粋な白鬼ではない。その事情を妖狐に伝えるのが億劫なのか意味を見出さなかったのかは分からないが、玉零はただ自分の名を名乗った。
「玉零。私が私であることを証明するのは、この名だけよ。貴方は何をもって己を己とするの?」
白鬼である母と、妖怪である父親。二人の間にできた子として、『玉零』と名付けられ生まれ育ったことが、彼女の全てということか。自分の出生を肯定する考えは、正直流にはピンとは来なかった。自分の誕生を全面的に肯定できるほど、自分自身を認めることができないし、そして何より・・・実の母親にその名を呼ばれた記憶がないから。
『テン』と呼ばれた妖狐は、玉零の問いに一体、何を思っただろう。
「小難しい話をして、気を逸らす算段ですか?わたくしを殺すなら、それでもいいですよ。ですが、可憐も道連れです。さあ、早く終わりにしましょう。これでわたくしの堂々巡りも最後です。伏見山の血は絶える。もはやこれこそが、わたくしの悲願だったのかもしれませんね」
今、殺さずとも何れは死ぬというのに、妖狐は急く。
男は寂しさには勝てない――――
妖狐の言葉が頭の中で回る。
「さあ!」と、両手を広げた妖狐の周りに、いくつもの火柱が立った。熱がここまで届き、皮膚にチリチリとした痛みが走る。
その火の中に何の前触れもなく、玉零が刀を投げ込んだ。
『狂い菊』だ。
「おいぃぃぃ!何やってくれてんねん!」
あまりのことに扇が叫ぶ。その気持ちは流も同じだったが、混乱してもはや声も出ない。
「やっぱり流君は騙されてたんや・・・」
同情する楓に、
「味方面した敵ほど怖いものはないからな」
あくまで冷静に事を分析する優衣。
だが、
「妖狐の感情に飲まれたんやろか・・・」
鈴音のその言葉は確信をもって否定できた。
「違う」
白鬼は、人より妖怪に重きを置くことはない。
「俺達に決めろって言ってるんだ」
『狂い菊』から過去を見た玉零の口振りからは、同情の余地があるかのように聞こえたが、実際のところ、妖狐の過去に何があって、何を思い、伏見山を呪うのかは分からない。もしかすると、玉零自身も断片的な記憶しか辿れず、はっきりしたことは言えないのかもしれない。
そんな状況で、彼女は選べと言っている。
「何を?」
隼に無理矢理傷薬を首筋に掛けられていた可憐が聞く。
「あの男の殺し方をだろう」
辛辣に、きっぱりと隼が答えた。
周囲の動揺は隠しきれない。そのことが、何よりの証明だった。
皆、目の前の男を妖狐ではなく、伏見山雅として見ている。
「お前達は今一度考え直すべきだろう。自分達が何者であるか、何者であるべきかをな」
隼はそう言い置いて、主人の元へと戻った。
玉零は妖狐と相対時している。もしもの時は、自分が最後の一手を打つつもりなのだろう。
「流、まだ矢はあるか?」
最後の一本はまだある。しかし、扇の問いに素直には頷けない。
「ある。でも、俺の霊力が足りない。正直、詠唱を最後まで唱えられたとしても、妖狐を引き離すほどの力を発揮できるかは分かりません。それは・・・扇さん達も同じでしょう?」
扇、鈴音、夏、楓、優衣・・・層々たる玉無家の兄妹達を見回す。顔を見れば分かる。誰もが限界を超えている。
「もし」
言いたくないことを、あえて言い出したのは優衣だった。
「神器を使わず、体当たり式に攻撃を仕掛ければ、妖狐を倒すことは可能やろか」
一番高い確率で妖狐を倒す方法・・・鈴音の提案は陰陽師として正しい判断だった。しかしそれは、雅の体を滅ぼすことで、妖狐を退散させるという選択肢。
「それは!」
可憐が悲愴な声を上げた。
残酷だ。
守ってくれた相手を恨み、手にかけた。その真実を知った時の可憐の心境は、いかほどのものだったろうか。十年前の過ちを繰り返すことは、もはや可憐には不可能だ。
「私がやる」
可憐の悲鳴に被せるようにして名乗りを上げたのはやはり鈴音だった。
キッと可憐が鈴音を睨みつける。
鈴音は目を逸らし、トーンを落として言葉を続けた。
「そうなった場合の話や。留めは私が刺す」
鈴音にしてみれば、当初の計画に戻っただけだろうが、そうなれば扇だけでなく可憐との溝も決定的なものとなるだろう。それでいいはずはないのに、友のために鈴音は躊躇なく過酷な道を選ぶ。
十年前の罪を塗り重ねてでも守りたい――――その決心は痛々しい自己犠牲に他ならない。
「まだ、選択肢はあります」
最後の切り札。
それを話すべきかどうかは躊躇われたが、鈴音の決意を前にして流は結局、口を開いた。
「シロオニに斬ってもらえば・・・」
「おい流、今に来て他人任せかよ!?」
「しかもよりによって妖怪にやなんて、うちは反対や」
「流君。それは、見殺しと一緒やと思うで」
騒めきと、中々に厳しい意見を述べる優衣を制し、続ける。
「シロオニの刀は伏見山の神器と同じ性質を持つ物です。だから、人は斬れない。妖狐だけを確実に黄泉へと送ることができます」
どの道、妖狐の力を得ることができなくなった雅を待つのは『死』だ。
だから、どちらの選択をしたとしても結果は変わらない。
それでも、今、決めなければならない。
「どうしますか?」
皆に聞いて、自身にも問う。
何が正解かを。
「兄さんは殺せない・・・」
可憐。
「自分の命が狙われてるってこと、分かって言ってんの?」
鈴音。
「じゃあ、また罪を犯すんか?言っとくけど、鈴音に可憐の兄貴は殺させへんで」
夏。
「かと言って、妖怪に頼るのは反対や」
楓。
「そうやな、妖怪がしゃしゃり出ることやない・・・流君が言った通り、これは人の領分や」
優衣。
流の名前が出て、皆の視線が一斉に集まる。
「・・・シロオニに託すというのは、陰陽師としてだけじゃない、人としても本意でないのは確かです。だから、あいつはもう一つの可能性を作り出した」
流の言葉に即座に反応したのは扇だった。
「自害、か」
刀を妖狐に寄越したということは、即ち、そういうことだろう。
事実、妖狐は可憐を道ずれに死ぬと言っている。
誰も手を下さずに済む方法。
可憐さえ守れれば、妖狐は勝手に死んでくれる。
だが、その場合、罪過はどこへ行くのだろう。何もできなかったという罪悪感は、何かをしてしまった時と同様に刻まれるのではないだろうか。いや、その中途半端な罪の意識は半端さゆえに償うこともできず、重く影を落とすのではないか。
それは、正しい流れではない――――
ならば、
「自殺は阻止しましょう」
何時であっても、流れを正すのは陰陽師だ。
流の意見に、反論する者はいなかった。この一件、私情に流されていた者もいたが、皆生粋の陰陽師ということか。
目を瞑り、腕を組んでいた扇が顔を上げる。
「何をもって己を己とする、か。俺達は陰陽家に生まれた陰陽師やけど、感情を殺せという鉄則を意識しつつも無視して生きてきた。誰もがそうやと思う。それは、陰陽師である前に人間やからや。もう、それを否定する気も責める気もない。でも、こうやって最善を話す機会は持つべきやったな・・・今からでも遅ない。一か八かやったろやないか。これが最後の狐送りや!」
扇の演説に皆が頷き、賛同した。
それは、今までのことを全て水に流すということと、神器で妖狐を倒す方法を皆が選択したということを表していた。
例えば、鈴音はより確実な方法として神器を使わずに一斉攻撃をしたいのかもしれない。楓も内心は自分達で手を下すのは怖いと思っているのかもしれない。扇だって、もう少し時間をかけて雅を生かすための道を模索したいのかもしれない。
しかし、陰陽京総会総代代理の一声で、皆の意思は固まった。
これが最善だと、自身を含めた皆に納得させて、扇は指揮を取ったのだ。
『全ては扇に一任するわ』
玉無現当主の言葉が蘇る。奇しくも、その命令通りとなったことに多少の違和感を感じながらも、流は弓を構えた。
「澱みなき清流の神、青龍に奉る」
重い。
「我が真名は神咲流。水霊をもって・・・」
言霊を紡ぐ度に身体に負荷がかかっていくのが分かる。
骨が軋む。
肉が裂ける。
「途中で詠唱を止めるな!」
それは、流に向けて言ったことなのか、それとも他の者達に言ったことなのか。扇が叱咤した。
優衣の術で生えた蔦が妖狐の足に絡みついた。だがそれはすぐさま切り裂かれ無残に枯れていく。再生が追いつかないのだ。鈴音が西洋の術で加勢するが、それさえも突破して妖狐は跳躍した。
「首を頂きましょうか」
一瞬の隙を付いて逃げた可憐へと妖狐は真っ直ぐに突進する。
「させるか!」
「テン、貴方の相手は私よ!」
術で加速した夏のナイフと、玉零の刀がそれをどうにか食い止める。
「追い風!」
楓が間髪入れず札を投げつけた。
玉零が妖狐の刀を押す。
「鬼は退いてろ!一の扇、乱舞!」
扇が一の扇を開き、竜巻を起こした。玉零は飛び退き、妖狐が風圧に負けて地面に叩きつけられる。強か腰を打つ付け、妖狐は動かなくなった。
「兄さま!」
「可憐、待て!」
可憐が妖狐―――否、雅の元へと駆けつける。
「ごめん。今まで、本当にごめん!」
涙をポロポロと流して、謝り続ける可憐。許しを請いたい気持ちも分からなくはないが、あまりにも危険だ。
「可憐、離れろ!」
すぐに追いかけた夏だったが、あと一歩というところで足が止まった。
「何だ、これ」
それ以上、近づけないのだ。
夏と可憐を隔てるようにして、薄い膜ができていた。
可憐の膝の上に頭を乗せたまま、微塵も動かない妖狐を見つめる。
だが、その口元は僅かに動いていた。
「結界の呪文、やな」
「妖怪にそんな真似できへんやろ!?」
「雅さんの記憶と身体を持つ奴なら不可能やない。大体、今まで出してた炎も陰陽術やろ。あれは、妖狐の炎やない」
扇と楓の会話を近くで聞きながらも、流は神経を研ぎ澄ませていった。集中力を極限まで高める。
身体の内部で変な音がしても、指先から血が滲んでも、狙いを定め続ける。
「陰陽師!」
玉零が流の元へと駆けてきた。
結界を破壊して、妖狐にその矢を届かせるとなると、もう、当初のように玉零の力を借りるしかない。
その妥協案を飲み込みかけた時、それは起こった。
「地面から・・・」
優衣がその異変を口にするよりも早く扇が叫んだ。
「撤退!夏、引け!」
「でも可憐が!」
「結界内は無事やからっ」
可憐と妖狐―――雅。二人を中心にして小さな結界が出来ている。確かに、異変は結界周辺に限られているようだった。だが、妖狐の傍にいる時点で可憐の安全は何も保証できないだろう。
それでも大人しく引くしかない。
それほどの惨状だった。
夏は泣く泣く鈴音に腕を引かれて、駆け出す。
地中から吹き出したマグマが夏の足を溶かす寸前だった。
伏見山の頂上はその上空まで赤く染め上げているに違いない。敷地のあちらこちらから火柱が立ち、山全体を燃やす勢いだ。
皆、火が燃え移っていない木の上へと避難する。
「陰陽師!」
玉零はというと、動こうとしない流の腕を掴み損ね、従者に担がれて一番高い木の上に着地させられていた。
ちょうど、玉零がいた場所は新たな火柱が噴き出し、近くの木に飛び火して大惨事となっている。
「流、何してるんや!はよ!」
目の前まで、火の手が迫っていた。後ずされば、焼け付くような感覚が左足を襲う。
退路は断たれている。
ならば、
「氷雨!」
己で道を作るだけだ。
「氷雨、力を貸してくれ!」
顔から順番に身体の芯まで冷えていく。冷気が辺りを包み込む。足元に意識を集中させ、地盤を氷で固める。
ゆっくりと息を付いて、力を貯める。配分を考えなければ、詠唱した後、弓を引く体力が残らない。
それに、地面を凍らすために詠唱が途切れたので最初から呪文を唱えなければならない。が、そんな余裕はないだろう。無理やり途中から詠唱を再開する。
「我が真名は神咲流。水霊をもって炎霊を鎮める者なり。邪気を払いて邪鬼を黄泉へと帰せよ」
ダメだ・・・
指先が震える。
狙いが定まらない。
可憐が雅の体を起こし、その細い体を抱きしめた。矢が当たりやすくなったとはいえ、こちらに背中を向けているのは可憐の方だ。もはや可憐自身が心中を望んでいるのではないかと思いたくなる。
可憐を貫き、雅まで到達するためにはどう考えても霊力が足りない。場所を変えるかとも考えたが、新たに足場を作るのは同じ理由で不可能だ。木の上に登る?これ以上可憐達から離れれば、狙いが外れる確率が高くなる。この位置が最適なのだ。だから、流は玉零の伸ばした手を取らなかった。
今、全力を出し切るしかない。
でも、そんな力は――――
「流兄様!」
冷えて感覚のなくなっていた腕に、柔らかく温かみのある何かが触れた。
「姿勢が崩れています」
ここには絶対にいないはずの人物の手が流の肘と腰に当てられていた。
「っ―――」
その名を呼びかけて寸でのところで押し留める。
「これで、よし」
百花の小さな独り言で自信が湧いた。
姿勢が正されたからか、気持ちが暖かくなったからか。はたまたその両方か。
その時、矢の道筋が見えた。
「今です!」
そっと添えられた百花の手の温もりを背中に感じながら、最後の呪文を唱える。
「急急如律令!」
氷が弾け、矢が真っ直ぐに飛んだ。
辺りの火柱が一瞬で消える。
今まで放ったどの矢よりも強い威力だ。
そんな力、自分の中のどこに隠れていたのだろう。
大量の水が竜巻のように渦を巻き、天高く伸びていく。それはやがて完全に空へと吸い込まれたかと思うと、一気に地上へと落ちてきた。
凄まじい雨音が山に―――いや、京都の街全体に響いていた。
竜巻が全てを空へと吹き飛ばしたからか、妖狐の火で焼き尽くされたからか、伏見山の頂上には何も残ってはいなかった。
ただの広い空き地の真ん中で、蹲る兄妹の姿があるだけだった。
次々と玉無の面々が降りてきたが、誰も二人には声をかけなかった。
「百花・・・」
傍らにいる少女の手をしっかりと握って、この時間を耐える。百花は何も言わず握り返してくれた。
地面を叩きつける雨の音に紛れて、可憐の嗚咽が聞こえてくる。
妖狐の妖力で生きながらえていた雅の体は、骨だけになっていた。
その人骨は大事そうに『狂い菊』を胸に抱き、横たわっている。
「テンは菊が拾った小狐だった・・・」
玉零が、ポツリと話し出した。
「伏見山に嫁ぐ時、菊はテンを連れてきたけど、旦那に殺されたの。テンはただの霊となっても菊の元に居続けた。それがどうして――――そしてどうやって菊の旦那に取り付き菊を殺すことになったのかは分からない。でも、テンはただ―――」
ただ――――
菊の傍にいたかったとでも言うのだろうか。
ならば、なぜ何度もこの世に戻って来るのだ。拾ってくれた主人のいない世にいて何の意味があるというのか。
「菊の生まれ変わりでも探してたんやろか」
優衣が可憐をじっと見つめたままそう言った。
まさか。
はっとして可憐を凝視したが、流の知りたい答えはきっと出ないだろう。
自分を殺した伏見山家への復讐・・・それが妥当な結論だ。
事実、この数百年、伏見山家に狐の呪いという恐怖を与え続けた。簡単に根絶やすことなく、じわじわと、その血筋を痛めつけたのだ。
「そろそろ行ったって」
鈴音が、徐に夏に傘を渡した。
どこにあったというのか。それは、多少焼け焦げてはいるもののしっかりと傘の形を保っていた。
傘を受け取った夏はうんと頷くと、可憐の元へと歩み寄った。
可憐の頭上だけ、雨が止む。
「帰ろう、可憐」
可憐が生まれ育った伏見山の家はもうどこにもない。
でも、帰る場所はある。
帰ろうと言ってくれる人の元こそが、可憐の帰る場所なんだろう。
「なっちゃん・・・」
傘を差してもまだ濡れ続ける可憐の頬を夏は優しく拭った。
例え、家族はいなくても――――
「可憐、家族になろう」
夏の声はしっかりとここまで届いた。
「え?」
「俺と夫婦になってくれ」
やはりそういう意味なんだとはっきりしてしまった時、扇が声にならない声を出して悶え始めた。
「何で、私なんか・・・」
「可憐が良いんや!ずっと、ずっと前から好きやった。もう、体も海外で手術して男になってる!」
とうとう扇が頭を抱えてもんどり打ち出した。その顔からは悲しみと悔しさしか感じられない。どう考えても快く思っていないのは明らかだ。
「風夏姉さん・・・いや、夏兄さん・・・やるな」
楓の呟きは感心しているのかいないのか。これまた微妙だ。
そして、肝心の可憐の返答は――――
「一生、一緒にいて。私の傍からもう二度と離れないって約束してくれるのなら・・・私は!」
その言葉は家族を失くした悲しみから出たものだろう。
誰でもいいから、傍にいてほしい。
それは、本当の愛ではない。
だけど、
「ああ、一生、一緒にいてやる」
夏はあまりにも細く脆い、体を抱きしめて可憐の思いに応えた。
言わなくても分かりきっている。
むしろ、その心細さにつけ込んで、強引に迫っているのは夏の方なのだ。
「・・・はい」
可憐の承諾に夏は心から喜んでいるわけではないだろう。
仄暗い後ろめたさと一生付き合っていかなかなければならない。それも贖罪だというかのように、傘からはみ出た夏の体は強い雨に打たれ続けている。
「こんなの許せるかっ・・・」
ついに扇が鬼の形相で立ち上がった。
「待って!」
それを鈴音が止めた。
「扇お兄ちゃん、見てみぃよ」
優衣に促され、扇は二人に目をやる。
可憐は夏にも雨がかからないように、傘の柄を押して傾けた。
でも結局は二人が充分に入れることはなく、お互い片側の体が濡れている。
「夏お兄ちゃんだけが割食ってるわけやない。半分ずつや。悲しみも、痛みも、無念も、罪も・・・二人は半分ずつ背負って生きていくんよ」
「それが・・・雅さんへの償いやって?」
まだ納得できない扇が涙を堪えて拳を握り締める。
そんなことが雅への償いになるわけがないと詰っているのではない。罪を背負い続けて生きねばならない二人が不幸せだと嘆いているのだ。
「俺も、雅さんも、そんなことっ」
「いや、手向けでしょう」
肩を震わせる扇に手を置いて、流はいなした。
二人がこれから共にあることを祝わなければ、誰も報われない。伏見山の思いも、玉無の思いも、隅田の思いも・・・神咲の思いも。ここで、この仕合わせを幸せだと言い張らねば、全ての思いが無に帰する。
第三者に言い訳だと罵られようと、それだけは避けなければならなかった。
「そうね」
そして、この場にいる唯一の第三者は、優しい笑みでそれを肯定してくれる。
白鬼の情けに縋るわけではないが、今、玉零の存在は有り難かった。
「そう、か」
扇の体から力が抜け、ようやく震えが止まった。
十年間の重しがやっと消えたかのように、ほっとした表情をしている。
「俺達も帰ろう」
扇が言ったその言葉を皮切りに、皆、帰路に着いた。
それぞれが、それぞれの場所へと――――。
狐の呪いは、複雑に絡んだ事情があるのですが、何だかややこしくてすみません・・・。




