第2話 嘘の名前で、格上げされました
「……明玉と、申します」
かすれた声で、明羅はどうにか偽りの名を吐き出した。舌がもう一枚あったなら、そちらに「本当は妹の明羅です」と正直に言わせたい気分だった。もちろんそんな器用な舌は持ち合わせていない。
玉座の皇帝陛下は、しばし値踏みするように明羅――否、"明玉"を眺めたのち、ふ、と喉の奥で笑った。
「明玉、か。毒味の手順にまで目が届くとは、なかなか肝が据わっている」
「い、いえ、その、偶然と申しますか、たまたま鼻が――」
「謙遜か。それもまた良い」
会話が一ミリも噛み合っていない。明羅の抗弁は、なぜか謙虚さの証として好意的に処理されていくらしい。この理不尽な変換装置は一体どういう仕組みで動いているのか、問い詰めたい相手はもちろん玉座になどいない。
「末席のままにしておくのは惜しい。本日付けで才人に上げる」
正殿がどよめいた。入宮初日での位階昇進など前代未聞だ。
「お、恐れながら、私のような未熟者には過分な――」
「その謙虚さも含めて、才人に相応しい」
もはや何を言っても墓穴らしい。明羅は諦めて額づいた。目立たない人生の計画は、開始からわずか半刻で早くも瓦解しつつあった。
「というわけで、今日からあなたの世話係になりました、桃李です。よろしくお願いします、才人様」
割り当てられた房――末席にしては明らかに立派すぎる、小さいながらも独立した院子つきの部屋だ――に転がり込むなり、快活な声の主が深々と一礼した。年の頃は明羅より少し下だろう、化粧っ気のない顔にやけに鋭い目をした侍女である。
「よろしくお願いします……」
力なく答えた明羅を、桃李は興味深そうにじろじろと眺め回した。
「才人様って、噂とだいぶ印象違いますね」
心臓が跳ねる。
「う、噂、とは」
「蘇家のお嬢様は病弱で儚げで、蝶々みたいな方だと聞いてましたけど。今日の才人様、毒物を嗅ぎ分けて陛下の御前で啖呵切ったそうじゃないですか。全然、儚くない」
「そ、それは、火事場の馬鹿力といいますか……人は追い詰められると別人のようになるもので」
しどろもどろの言い訳に、桃李は「へえ」と目を細めた。見抜かれているのか、それとも本気で信じているのか、判別がつかない笑い方だった。
「まあ、いいですけどね。あたしは才人様の味方ですから。誰が相手でも」
その一言だけは、妙に本気の色をしていた気がして、明羅はなんとなく背筋を正した。
味方が一人できた矢先、早くも敵らしき影が現れた。
「あら。噂の才人様とは、あなたのことかしら」
房の外から響いた声に、桃李が露骨に顔をしかめる。現れたのは、腰まで届く艶やかな黒髪を結い上げた、匂い立つような美貌の妃――麗貴妃だった。後宮の中でも指折りの高位、その扇の先が明羅の顎をくいと持ち上げる。
「入宮初日で才人とは、ずいぶんと大した働きをなさったこと。……もっとも、まぐれというのは、二度目はないものですけれど」
明羅を試すような、それでいて優雅な笑み。ここで反論すれば角が立つ。かといって媚びれば付け入られる。
「仰る通り、まぐれにございます。二度目がないよう、以後は目立たぬよう努めますので、何卒お見知りおきを」
深く考えず、本音のまま頭を下げた。目立ちたくない一心の、心からの本心である。
だが麗貴妃は、なぜか一瞬言葉に詰まった。
「……まぐれと認めた上で、なお驕らぬと。ふん、噂よりは可愛げがあるようね」
そう言い残し、扇を翻して去っていく背中を、明羅はぽかんと見送った。
「才人様、今の会話の裏を読まれましたね、麗貴妃様」
「え、裏なんて何も」
「そういうところですよ、絶対」
桃李が呆れ半分、感心半分の目でこちらを見ている。誤解の速度に、もはや訂正が追いつかない。
その夜。房でようやく人心地ついた明羅のもとに、思いがけない使者が訪れた。
「陛下より、才人様へ。今宵四つ刻、政務堂まで密やかにお越しいただきたいとのことです」
密やか、の一言に、明羅の血の気が引いた。
(密会って、それ、絶対に「才人としての功績」の話じゃない気がする……)
姉の名を騙り、姉の顔で、皇帝陛下と二人きり。万が一にも見抜かれたら、蘇家もろとも終わる。
目立たない人生を望んだはずの明羅は、入宮からわずか一日にして、皇帝陛下の私室に単身呼び出される羽目になったのだった。




