第1話 身代わりのはずが、初日で詰んだ
目立たない。騒がない。空気になる。
物心ついたときから、蘇明羅が己に課してきた処世術は、この三箇条に尽きる。地味な顔立ちも、器用なばかりで華のない手先も、幸い今日まですべてこの信条の味方をしてくれた。
――のに、どうして今、後宮の正殿で、玉座を見上げる格好で額づいているのだろう。
事の起こりは三日前に遡る。
「明羅、頼む。お前が明玉の代わりに後宮へ上がってくれ」
父の一言に、明羅は持っていた帳簿を取り落としそうになった。双子の姉・明玉は、この春の妃嬪選抜でめでたく末席ながら後宮入りが決まったばかりだ。蘇家にとっては起死回生の慶事のはずだった。父は閑職に飛ばされて久しく、家門を保つには後宮に一人でも縁者を送り込むしかない――そういう切実な事情も、明羅は帳簿番として日々目にしてきたから、痛いほど分かっている。
分かっているが。
「姉様は? まさか」
「後宮入りの重圧に耐えかねて、昨夜から高熱で臥せっている。医者は、当分床上げは無理だろうと」
そういうことか、と明羅は天を仰いだ。生まれつき体の弱い明玉は、昔からここぞという時に限って熱を出す。可憐で儚げな美貌は妃候補として申し分ないが、その分、精神の強靭さにおいては明羅の足元にも及ばない。
「入宮の儀は明日です。今さら辞退すれば、蘇家は不敬の誹りを免れません」
家令の言葉に、父はますます顔面蒼白になった。ここで蘇家が皇帝陛下の不興を買えば、閑職どころか爵位の返上すら囁かれかねない。
「頼む、明羅。お前と明玉は瓜二つだ。声も背格好も、化粧をして黙っていれば誰にも分からない。……向こうで大人しくしていてくれるだけでいい。妃嬪の位など望まん。末席で息を潜めて、明玉の体が治り次第、こっそり入れ替わって戻ってくればいいだけの話だ」
正直、気は進まない。だが、断れば蘇家は詰む。そして何より――
「大人しく、息を潜めて、でいいんですね?」
「もちろんだ」
父は食い気味に頷いた。明羅は帳簿を閉じ、静かに息を吐いた。
(なるほど。つまり、いつも通りにしていればいいだけだ)
目立たない。騒がない。空気になる。
明玉のふりをして後宮の隅に潜み、誰の記憶にも残らぬまま任期を終える。今までの人生でずっとやってきたことの延長線上でしかない。むしろ得意分野だ。
そう、このときの明羅は、心底そう信じていた。
そして迎えた入宮拝謁の儀。
正殿には今期の新入り妃嬪候補が居並び、玉座の皇帝陛下へ献茶の礼を執り行う運びとなっていた。作法は昨夜のうちに死に物狂いで叩き込んだ。列の最後尾、末席も末席というこの位置取りは、明羅にとって望外の僥倖だった。誰も最後列の妃嬪候補になど目を留めない。
(あとは献茶を終えて、頭を下げていればいい。空気に、空気に……)
自分にそう言い聞かせていた矢先、隣に控える毒味役の女官の手が、わずかに震えているのに気付いた。
――おかしい。
蘇家の生業は薬種問屋だ。物心つく前から茶と薬の匂いを嗅ぎ分けて育った明羅の鼻は、他人よりいくらか敏感だった。皇帝陛下の御前に運ばれた三番目の茶碗、その湯気の色が、隣に並ぶものよりわずかに濁っている。それに、本来この時季に使うはずのない、少し青臭い匂いが混じっている気がした。
(……あれ、変な匂いがする)
深く考えたわけではない。ただ、実家の店で「その薬包、匂いがおかしいから使うな」と番頭に言うのと同じ調子で、明羅は隣の女官の袖をそっと引いた。
「あの、三番目の御茶碗だけ、少し様子が違うようです。念のため、毒味の順番を変えられては」
囁くような小声だったのに、女官はまるで雷に打たれたように硬直し、次の瞬間には血相を変えて上役に駆け寄っていった。
その後の展開は、明羅の想定をはるかに超える速さで転がっていった。
急遽持ち込まれた銀の針が茶碗に沈められ、みるみる黒く変色する。悲鳴、怒号、抜刀の音。皇帝陛下の御前で毒殺未遂が発覚した瞬間、正殿は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
(えー、本当に毒だったの)
明羅は青ざめた。自分でもまさか本当に当たるとは思っていなかった。ただの、鼻がむずむずしただけの話だったのに。
しかし騒ぎが収まる頃には、事態はさらにとんでもない方向へ転がっていた。
「末席の妃嬪候補が、毒物の混入をいち早く見抜いたそうだ」 「湯気の変色と匂いだけで、三番目の茶碗だけを的確に指摘したと」 「これはただ者ではないぞ」
ひそひそと囁かれる噂は、明羅の耳にも容赦なく届く。
(違います。ただの職業病なんです。)
そう訂正しようにも、周囲はすっかり「妃嬪の中に隠れた才媛あり」という空気に染まり上がっていて、今さら「実家が薬屋なだけです」などと言い出せる雰囲気ではなかった。
そして――
「面白い」
低く、しかし正殿の隅々まで届く声が、玉座から降ってきた。
顔を上げるなと言われている。分かっている。分かっているのに、明羅はその声の圧に引き寄せられるように、わずかに視線だけを上げてしまった。
玉座の主と、目が合う。
皇帝陛下は、値踏みするような、それでいてどこか愉快そうな笑みを浮かべ、こちらをまっすぐに見つめていた。
「そこな末席の妃。名は」
しまった。
明羅は今更ながらに悟った。
――目立った。盛大に、目立ってしまった。
これでは、空気になるどころの話ではない。
(この状況で、姉様の名を騙るのか、私は……)
答えを絞り出すべく開いた口の中が、からからに乾いていくのを感じながら、蘇明羅の後宮生活、一日目にして早くも詰みの気配が濃厚になっていくのだった。




