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断頭台の露と消えた元王妃、異世界ではハーブ園で静かに暮らしたい ~パンがないなら薬草を育てればいいじゃない~  作者: ローナ


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8/10

魔物を追い払う『香りの結界』

「マリー様、大変です……! 北の山から、ものすごい数の魔物がこの村に向かって下りてきているって、冒険者ギルドから急ぎの報せが……!」


ある日の午前中、ハーブ園『プチ・ルテティア』で優雅にハーブティーを嗜んでいた私の元へ、見習いのクロエが血の気のない顔で飛び込んできた。

周囲の空気が一瞬で凍りつく。テラスで紅茶を淹れていたルークも、ただならぬ気配を察知して即座に大剣の柄に手をかけた。


「魔物の群れ、ですか?」

「はい……! 今年は日照りが続いたせいで山の生態系が狂っていて、普段は人里に降りてこない狂暴な『ブラッド・ファング(牙狼)』の群れが、飢えと魔力の暴走でこちらに向かっているそうです。村長も、もう村を捨てて逃げるべきかパニックになっています……!」


クロエの言葉に、ハーブ園の門の外で噂を聞きつけていた客や村人たちから、悲鳴と怒号が入り混じった混乱の声が上がった。

「もうおしまいだ……!」「家も畑も全部壊されるぞ!」「戦う力なんてない!」と、人々は我先にと荷物をまとめ始め、村全体が阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わっていく。


私はゆっくりとティーカップをソーサーに戻し、フッと冷ややかに息を吐いた。

パニックに陥った群衆ほど愚かなものはない。騒いだところで魔物が勝手に引き返すわけではないのだから。


「静かになさらない、クロエ。そして、そこにいる臆病な皆さまもですわ」


私の凛とした声が、混乱する村中に響き渡った。

誰もが驚いて振り返る中、私は優雅に立ち上がり、一歩も引かない気高さで胸を張った。


「たかが数匹の狼の群れごときで、何をそんなに取り乱しているのかしら。私たちが大切に育ててきたこの楽園を、あんな下品な獣どもに踏みにじられるなど……プライドが許しませんことよ」


「おい、マリー……! 相手は普通の獣じゃねぇ、魔力を纏った凶暴な魔物の大群だぞ! 物理的な武器や剣くらいじゃ、奴らの硬い毛皮と魔力障壁は容易に貫けねぇ。生半可な覚悟じゃ、この村は一巻の終わりだ」


ルークがこれまでにないほど険しい表情で私を制止しようとした。

だが、私の瞳に迷いは微塵もなかった。


「誰が剣や物理的な暴力で戦うと言いました? ルーク、私たちは『知性と美意識』で戦うのですわよ」


「……は?」


「準備をしなさい。我が『プチ・ルテティア』の総力を挙げて、あの獣どもを一滴の血も流さずに完璧に追い払って見せますわ!」


数分後。

村の北側、魔物たちが必ず通過する渓谷の入り口と、カルミア村を取り囲む外周に、私たちは大急ぎで防衛陣地を構築した。


「ルーク、その木樽に入っているのは?」

「ああ、『ウルフバネ』と『ワームウッド』の原液を、極限まで濃縮した特製の蒸留オイルだ。周囲の空気を吸うだけで頭が狂いそうなほどの強烈な臭いを発する、文字通りの劇薬だぜ」


ルークが巨体をフルに使って運んできたのは、私が昨夜から不眠不休で調合させ、巨大な蒸留器で抽出した『最強の魔気忌避オイル(アンチ・ビースト・エッセンス)』の入った木樽の数々だった。


野生の魔物は、人間の何倍もの鋭い嗅覚と魔力感知能力を持っている。

だからこそ、通常の動物が本能的に嫌う毒草の成分に、魔物の神経系を一時的に麻痺させる高純度の魔力ハーブのエキスを限界までブレンドすれば、彼らの感覚器官を完全に破壊する「嗅覚の地獄」を作り出すことができるのだ。


「ただの野草だと思われていたハーブも、比率と使い方を誤らなければ、最強の防壁になるのですわ」


私は特製の散布用ポンプを手に取り、りりしく微笑んだ。

「さあ、お迎えの準備は万端ですわ。我がハーブ園の気高き香りを、あの下品な獣どもにたっぷりと味あわせて差し上げましょう!」


地響きが聞こえたのは、その直後だった。

ドスッ、ドスッ、と大地を揺るがしながら、赤黒い毛皮に覆われた巨体の牙狼——『ブラッド・ファング』の群れが、数え切れないほどの紅い目をぎらつかせて姿を現した。

先頭を走るのは、通常の二回りも大きな個体。その口からは禍々しい魔力の牙が剥き出しになり、周囲の草木を一瞬で枯らしながら突進してくる。


「き、来たぞ……っ! 化け物だ……!!」

「もうおしまいだぁ……っ!」


村人たちが絶望に満ちた悲鳴を上げ、恐怖のあまりその場にへたり込んだ。

ルークがぐっと大剣を構え、私をかばうように一歩前に出る。


「マリー、下がりなさい……! ここからは俺がやる!」


「下がってなどいられませんわ、特等席で見届けるのですから!」


私はルークの制止を振り切り、散布用ポンプのレバーを力強く押し下げた。

シュシュッ! と、風に乗って黄金色の微粒子が、魔物の群れが突進してくる風上に一斉に噴霧された。


それは、人間の鼻でも思わず顔をしかめるほどの、強烈で、鼻腔を突き刺すような野性と猛毒のハーブが混ざり合った圧倒的な香気——『ウルフバネ・ショック』の嵐だった。


――瞬間。


「グル……ギャッ……!?!」


先頭を走っていた巨大なボス狼が、突如として空中でピタリと動きを止めた。

その紅い目が驚愕と恐怖で見開き、信じられないものを見るように体を痙攣させる。


魔物たちの優れた嗅覚にとって、その香気はただの臭いではなかった。

脳の奥底に直接突き刺さるような激しいめまい、本能が「今すぐここから逃げ出さなければ死ぬ」と警報を鳴らすほどの強烈な拒絶反応。物理的な攻撃や剣の痛みなど比にならないほどの、圧倒的な精神的苦痛が奴らの全身を駆け巡ったのだ。


「ガウッ……! ギャオオオッ……!!」


先頭の狼が狂ったように頭を振り乱し、方向転換して逃げ出し始めた。

それに釣られ、後ろから続いていた数百頭のブラッド・ファングの群れも、次々とパニックに陥った。


「なっ……なんだこれ……!?」

「魔物たちが、自分から勝手に引き返していくぞ……!?」


ルークが目を見開き、信じられないものを見るように口をぽかんと開けた。

村人たちが怯えながら見守る中、狂暴な魔物の群れは、まるで目に見えない怪物に追いかけられるかのように、一頭残らず尻尾を巻いて北の山へと一目散に逃げ帰っていった。


数分後。

あんなにも絶望的だったカルミア村の北側には、静寂と、どこか爽やかなハーブの残り香だけが取り残されていた。


「……嘘だろ……。あんな厄介な魔物の大群が、一匹たりとも傷つけずに……ただの匂いで追い払ちまったのか……?」


ルークは信じられないというように何度も自分の目をこすり、それから呆れたような、しかし底抜けに尊敬の入り混じった目で私を振り返った。

村人たちも、少し前までパニックを起こしていたのが嘘のように、呆然と立ち尽くし、やがて地鳴りのような歓声を上げ始めた。


「やったぞ……! 魔物が逃げたぞ……!!」

「マリー様だ……! マリー様が村を救ってくださったんだ……!!」


村中から湧き上がる歓喜の涙と拍手。

人々は私を取り囲み、次々と感謝の言葉を述べながら頭を下げた。クロエは嬉しさのあまり私に抱きつき、ポロポロと涙を流していた。


「よく頑張りましたわね、みんな」

私はふっと優しく微笑み、風になびくドレスの裾を上品に整えた。


前世のフランスで、私はたくさんのものを失い、最後にはすべてを敵に回して断頭台に消えた。

私の美意識や贅沢は、誰の心も満たさず、ただ破滅へと向かうための虚飾にすぎなかったのだと、長い間思い込んでいた。


けれど、いまはこの異世界で、私の知識と美意識が、大切な人々を守り、村を救う奇跡の力となっている。


「暴力や武力だけが世界を救うわけではありませんの。知性と、美しさと、そして誰かを守りたいという気高い誇りこそが——いつだって世界を真の意味で救うのですわ」


私のその言葉に、ルークはフッと静かに笑い、自分の大剣を肩に担ぎ直した。

「……まったく、恐れ入ったよ。お前は本当に、俺の想像を遥かに超えた『最強の王妃様』だな」


夕日に染まるカルミア村の空はどこまでも高く、澄み渡っていた。

魔物を退けたハーブ園『プチ・ルテティア』は、今日も最高の香りに包まれながら、さらなる平穏と優雅な明日へと歩み続けていくのだった。

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