ギロチンの次は……ハーブ園ですの!?
「——これより、囚人マリー・アントワネットの処刑を執り行う!」
冷酷な宣告が、曇天のパリ・革命広場に響き渡る。
固い木製の台に突っ伏せられ、首筋に触れる冷たい鉄の感覚。群衆の狂気的な怒号と「国賊に死を!」「ギロチンへ送れ!」という罵声が、耳の奥を激しく打っていた。
(ああ……私の一生は、なんという惨めなものだったのかしら)
かつてヴェルサイユの宮殿で、世界中の贅沢を一身に集めていたフランス王妃。
だが、待っていたのは赤字の元凶という濡れ衣、我が子との引き裂かれ、そしてこの断頭台であった。
重く鋭い刃が、上空でシャキンと音を立てて固定される。
(さようなら、私の愛した子どもたち。さようなら、ルイ……。もう、恐ろしい政治も、ドロドロした陰謀も、重苦しいドレスも……たくさんですわ……)
ドスン——!!
首筋に走る凄まじい衝撃。視界が真っ赤に染まり、私の意識は深い深い闇へと落ちていった。
「……はっ!?」
跳ね起きると同時に、私は激しく息を吐き出した。
両手で自分の首を確かめる。……繋がっている。皮一枚どころか、血も出ていないし、傷跡すら存在しない。
「生きて……いる? 私、ギロチンで首を刎ねられたはずでは……?」
混乱しながら周囲を見回した私は、言葉を失った。
そこはヴェルサイユの豪華な寝室でも、コンシェルジュリー牢獄の湿っぽくて暗い牢牢でもなかった。
屋根にぽっかりと穴が開いた、崩れかけの木造の廃屋。隙間風が吹き抜け、古びた藁のベッドの上に私は横たわっていたのだ。
ふと自分の手を見る。
かつて絹のように白く繊細だった指先は、少し小さく、あかぎれと泥で汚れていた。ボロボロの粗末な麻のワンピースを身に纏っている。
頭の中に、濁流のように記憶が流れ込んできた。
ここは『ルテティア王国』の辺境にある貧しい「カルミア村」。
そして今の私の身体は、身寄りを無くし、極貧の中で倒れて命を落とした十五歳の孤児の少女「マリー」のものだった。
「私……本当に、死んで……異世界に転生してしまったの……?」
しばし呆然と佇んでいた私だったが、窓から差し込む暖かい陽光と、鳥のさえずりを耳にした瞬間、胸の底からフツフツと湧き上がるものがあった。
「あ……あはは……あははははっ!」
私はボロボロの服のまま、思わず立ち上がって歓喜の声を上げた!
「奇跡ですわ! 神様、ありがとうございます! もうギロチンの恐怖に怯える必要も、恐ろしい暴動に震える必要もありませんのね!?」
前世の波乱万丈すぎる記憶があるからこそ、この粗末な廃屋すら天国のように思えた。
私は廃屋の重いギシギシ鳴る扉を押し開け、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
目の前に広がっていたのは、緑豊かな、しかしすっかり荒れ果てた広大な庭だった。
雑草が伸び放題になり、枯れ木が転がっているが、陽当たりは抜群で、敷地の奥には小さな小川まで流れている。
その風景を目にした瞬間、私の胸がキュンと甘く締め付けられた。
(まあ……! なんて素敵な場所でしょう!)
私の頭に浮かんだのは、かつてヴェルサイユの離宮に作らせた『プチ・トリアノン(王妃の村落)』の風景だった。
過剰なマナーと陰謀に満ちた宮廷生活に疲れ果てた私にとって、あの村落で素朴なドレスを着て、牛の乳を搾り、ハーブや花を育てる時間だけが唯一の救いだったのだ。
「前世では『王妃の田舎ごっこ』と陰口を叩かれましたけれど……今の私はただの村娘マリー! 誰に気兼ねすることなく、本物の田舎暮らしを楽しめますわ!」
私は拳を固く握り締め、心に固く誓った。
「もう政治も、国家の赤字も知ったことではありませんわ! 私はこの庭で、大好きなハーブを育てて、静かに、誰にも邪魔されずにスローライフを送りますの!」
決意を固めた私は、さっそく行動を開始した。
まずは庭の開墾だ。錆びついたスコップを廃屋の隅から見つけ出すと、ドレスの裾を少しだけ持ち上げて(前世で宮廷人に見られたら気絶されそうな格好だ)、雑草を抜き始めた。
「ふぅ……ふぅ……結構な重労働ですわね。ですが、体を動かすのは悪くありませんわ」
庭の土を掘り返していると、私の鼻孔をふっと甘やかでスパイシーな香りがくすぐった。
「あら……? これは……」
雑草の陰に隠れるように生えていたのは、独特のギザギザした葉を持つ野生のハーブだった。
「カモミール……それに、これはタイムとペパーミントに似た野生種かしら?」
触ってみると、葉から強い芳香が立ち上る。
前世の私は、サロンで愛用する調香師やハーブ医から、植物の知識をこれでもかと叩き込まれていた。どのハーブが身体を温め、どのハーブが気分を鎮めるか、身体で覚えているのだ。
さらに、この異世界の土と空気には、かすかな『魔力』のようなものが含まれているらしく、ハーブたちの生命力が前世のフランスのものとは比べ物にならないほど力強い。
「素晴らしいわ! 自生しているハーブだけで、極上のブレンドが作れてしまいますわね!」
私が目を輝かせてハーブの株を丁寧に分け、移植作業をしていると——。
ザッ、ザッ、と重い足音が近づいてきた。
「……おい。そこで何をしている」
低い、地響きのような声。
驚いて振り返ると、そこには背の高い一人の男が立っていた。
ボロボロの革の鎧を纏い、腰には大剣。黒髪の間から覗く瞳は鋭く、全身から「近づくな」という険しいオーラを放っている。だが、その右腕には痛々しい生傷があり、疲労困憊といった様子だった。
「あら……ごめんなさいませ。この廃屋の庭をお借りして、ハーブ園を作ろうとしておりましたの」
私が挨拶をすると、男は不機嫌そうに眉をひそめた。
「ハーブ……? ただの雑草だろ。……俺はルークだ。村の用心棒兼、木こりだ。ここは村の共有地だったが……好きにすればいい。ただし、怪しい真似をしたら即座に追い出す」
そう吐き捨てると、ルークという男は背を向けようとした。
だが、その足取りは怪しく、膝がカクンと折れかける。
「待ち受けてくださいませ!」
私は思わず駆け寄り、彼の着物の裾を掴んだ。
「な、なんだ……!?」
「あなた、右腕の傷が炎症を起こして発熱しておりますわね? それに、何日もまともに眠れていらっしゃらないでしょう?」
「……っ、お前に関係ない。冒険者の崩れみたいなものだ、これくらい——」
「いいえ、関係ありますわ! 私の目の前で人が倒れるのを見るのは、精神衛生上よろしくありませんの!」
前世で死と病に包まれた牢獄を経験した私にとって、目の前の命が失われかけているのを見過ごすことなどできなかった。
私はルークを半ば強引に廃屋のテラスの木箱に座らせると、さっき摘んだばかりのタイムとカモミールを手早く流水で洗った。
「少し痛みますわよ」
タイムの葉をすり潰して傷口に塗りつける。タイムには強力な殺菌作用があるのだ。
「ぐっ……!?」
「我慢なさってくださいな。そして……これを召し上がれ」
私は小さな鍋で沸かしたお湯に、干しておいたカモミールとペパーミントを放り込み、抽出した黄金色の液体を割れた陶器のカップに注いで手渡した。
「ハーブティー……? こんな草の煮出し汁で何が——」
「能書きはいいから、お飲みなさいな!」
私が王妃時代の威厳(※無意識)を込めて一張りすると、ルークは圧倒されたように杯を口に運んだ。
ゴク……と喉が鳴る。
その瞬間、ルークの黒い瞳が衝撃で見開かれた。
「な……なんだ、これは……!?」
口いっぱいに広がる、甘く爽やかな香り。
身体の芯からじわじわと温かい熱が広がり、右腕の激痛が嘘のように引いていく。それどころか、長年の戦いで精神にこびりついていた重苦しい疲労感が、まるで朝靄が晴れるように消え去っていくのだ。
「美味い……いや、それだけじゃない。身体が……軽い……!?」
「ふふ、当たり前ですわ。カモミールの鎮静作用と、ペパーミントの清涼感、そしてタイムの薬効を完璧な比率で抽出いたしましたもの。ヴェルサイユ……いいえ、私の特製ブレンドですわ!」
私は胸を張り、フッフンと鼻を鳴らした。
ルークは信じられないといった様子で自分の右腕を見つめ、それからカップを見つめ、最後に私を凝視した。
「お前……一体何者だ? ただの村娘が、こんな奇跡みたいな薬を作れるわけがない……!」
「ただのマリーですわ。……まあ、前世では少しばかりお茶とハーブにうるさい生活をしておりましたけれど」
私が微笑むと、ルークはゴクリと唾を飲み込んだ。
彼の眼差しから、先ほどまでの警戒心が消え、代わりに強い敬意と……どこか困惑混じりの光が宿っていた。
「……傷を治してもらった恩だ。この庭の開墾、俺も手伝う。力仕事なら任せろ」
「あら! 本当ですの!? 助かりますわ!」
こうして、元・フランス王妃マリー・アントワネットの異世界ハーブ園『プチ・ルテティア』の開墾が、頼もしい(?)用心棒ルークと共にスタートしたのだった。
数日後。
ルークの圧倒的な腕力のおかげで、荒れ地だった庭は見違えるような美しいハーブ園へと生まれ変わっていた。
フカフカの土に整然と植えられたカモミール、ラベンダー、ローズマリー、そして異世界固有の魔力を持った薬草たち。風が吹くたびに、甘く清らかな香りが庭中に満ちあふれる。
「ふう……完璧ですわ!」
私はお手製の麦わら帽子を被り、ハーブ園の中央で満足そうに頷いた。
「これでおいしいお茶を飲んで、お花に囲まれて、静かに読書をして暮らす……。あは体験ですわ! 私の夢見たスローライフが、ついに完成いたしましたのね!」
私が一人で感動に浸っていた、その時だった。
「た、大変だー!! ルーク! マリーちゃん!!」
村の広場のほうから、息を切らした村長が走ってきた。その顔は真っ青で、ガタガタと震えている。
「どうした、村長」
薪を割っていたルークが斧を止め、不穏な気配を察して立ち上がった。
「隣の領地の悪徳商人・ガルニエ商会が、大勢の用心棒を連れて村に押し寄せてきたんだ!『今月の年貢が払えないなら、村の土地と若い娘を全員連れて行く』って……!」
「なんですって!?」
私は思わず叫んだ。
「年貢が払えないだと……? カルミア村は今年、日照りで作物が全滅したはずだぞ。それを承知で取り立てに来たのか!?」
ルークが怒りに拳を握りしめる。
「ああ……! このままじゃ村が潰されちまう! どうすればいいんだ……!」
村長が頭を抱えて泣き叫ぶ。
その光景を見た瞬間、私の前世の記憶が激しく疼いた。
(不当な搾取……民の悲鳴……そして、暴力による支配……!)
前世の私は、政治の仕組みをよく理解しないまま、悪徳貴族や商人の口車に乗せられ、結果として民衆を塗炭の苦しみに陥せてしまった。その結末が、あの恐ろしいギロチンだったのだ。
二度と……二度と同じ過ちは繰り返させない!
私の大好きな、静かなスローライフの庭を、そんな野蛮な奴らに踏みにじられてたまるものですか!
私の中で、かつてヴェルサイユの頂点に君臨していた「フランス王妃」のプライドと気性が、カッと激しく燃え上がった。
「ルーク、村長さん。参りますわよ」
「え……? マリー、お前どこへ——」
「決まっているでしょう?」
私はバサリと作業用のエプロンを脱ぎ捨て、泥を払うと、凛とした背筋で村の広場へと歩き出した。
「我がハーブ園の平和を脅かす不礼者どもに……ヴェルサイユ仕込みの『教育』を施して差し上げますわ!」
こうして、静かに暮らしたい元王妃マリアージュの願いとは裏腹に、彼女の波乱に満ちた「異世界ハーブ無双」の幕が、静かに落とされたのであった。




