005 ジャック
俺はジャック。
この街ハインドスクエアの南スラムの古株だ。
かれこれ二十年はスラムにいるからな。俺もだいぶスラムの思考に染まってきた。
今日はなげえ付き合いのバーグと一緒に朝まで酒を飲んで、その帰りに少女がいたから娼館にでも連れて行こうかと思ったんだが……。
まさか、この少女が俺の古傷まで治しちまうほどの凄腕の治癒魔法使いだとは思わなかった。
この治癒魔法があれば、壁の中で一生安泰な気もするんだが、少女は服とも呼べねえような簡素な恰好でスラムにいやがる。
まあ、この少女にも何か訳があるんだろう。
少なくとも、せっかく壁の中に入れるだけの選択肢があるってのに、それをやんわりと拒否したのは事実だ。
スラムにいるのは、ここのスラムで生まれたか、訳ありの人間ばっかりだ。
だからってわけじゃねえが、スラムでは過去を詮索するのはマナー違反だったりする。
この俺も、過去にはいろいろやらかしてるからなあ。人には知られたくない秘密の一つや二つあるもんだ。
右足の怪我もその時もんだしよ。
そんな右足の怪我を少女が治してくれたからだろう。俺は少し感傷的な気分になって、恩人である少女にジゼルの名前を付けていた。
ジゼル。
生まれるはずだった俺の娘に付けるための名前だった。それを、恩人とはいえ他人の少女に付けるなんてなあ。
人生ってのはわからねえ。
そんな恩人である少女ジゼルは、どうやらその強力な治癒魔法を使って商売のようなものを始めたいらしい。
まあ、このスラムには、ロクに治療を受けられねえ奴らがごまんといる。
わりい商売じゃねえとは思うが……。
「ジャック、耳を貸してくれないかな?」
「あん? なんだよ?」
俺は口ではそう言ったが、バーグの懸念もわかっているつもりだ。
俺たちは少しジゼルから離れて、ジゼルに背中を向けて話し出す。
「ジャックはどう思う? ジゼルの提案だけど……」
「そりゃあ、まあおめえ、自殺行為だなあ」
「だよね……」
このスラムにルールがあるとしたら、そいつは弱肉強食に他ならない。
ジゼルはたしかに治癒魔法の腕は確かだが、どう見たって強そうには見えねえ。
ジゼルの言うような店なんて成立しねえんだなあ。
暴力でお代を踏み倒すなんてかわいい方で、中には、というか大半の奴はジゼルを攫って奴隷として売っぱらっちまうだろう。
こいつは、このままジゼルを放置したら、いつか絶対に訪れる悲劇だ。
俺はジゼルに恩を感じている。俺の足を治してくれたこともそうだが、彼女はそれに対して恩に着せようとしたり、高額な金品を要求することもない。
そのことが、長いスラムの生活ですっかり錆びついちまった心に沁み込んできた。
あぁ、人間ってこんなにあったけえんだなと、本気で泣いちまいそうだった。
だから、ずっと胸に残っていた娘の名前を与えたんだ。娘も今のジゼルみたいな人間になってほしいと願っていた頃の自分を思い出したからな。
そんな恩人であるジゼルをこのまま放置することは俺にはできそうにない。
それじゃあ、何のために娘の名前を与えたのかわかんなくなっちまう。
ジゼルには、幸せになってもらいてえ。
「ジャック?」
俺がずっと黙りこくってるから、心配になったのかバーグが俺の名を呼ぶ。
それがなんだか、俺に覚悟があるのかと問いかけているように感じた。
だから、俺は敢えて笑顔を浮かべて答える。
「バーグ、俺は決めたぞ。ジゼルを腐蝕銀鎖に連れて行く」
腐蝕銀鎖。
このハインドスクエアの南門スラムの牛耳るマフィアの一つだ。
ジゼルの力は誰だって欲しがるはず。
ピンハネはされるだろうが、腐蝕銀鎖の権力をジゼルの後ろ盾に付けてやるつもりだ。
これなら、そこいらのチンピラはジゼルに手を出せねえ。
「ええっ!?」
さすがに予想外だったのか、バーグが目を白黒させていた。
「もちろん、俺も腐蝕銀鎖に入るつもりだ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! たしかにおいらもマフィアは考えたけど、腐蝕銀鎖はちょっと……」
バーグが渋るのもわかるつもりだ。
ここ南スラムには、四つのマフィアがある。今、その中でも一番勢力が弱いのが腐蝕銀鎖だ。
というのも、もともと腐蝕銀鎖は南スラム全体を牛耳るほどの権勢を誇っていたが、数年前に他の三つのマフィア連合によって当主家族が暗殺され、今の当主は生き残ったまだ十七の少女だと聞く。
多くの構成員が腐蝕銀鎖には未来がないと腐蝕銀鎖を見限って他のマフィアに吸収された。
それでも、腐蝕銀鎖はまだ残り続けている。
前当主に恩義のある者、腐蝕銀鎖に忠誠を誓った者など、筋金入りの構成員が支えているのだ。
「バーグ、おめえの言いてえこともわかっけどよお。今は腐蝕銀鎖じゃなきゃいけねえんだ」
「それはどうして? 他の大きなマフィアに恩を売った方がいいんじゃない? その方が絶対見返りが大きいよ」
「俺が心配しているのは、恩を売り終わった後のことなんだよ」
「それは……?」
バーグには心当たりがないのか、不思議そうな顔で俺を見ていた。
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