収容所の男
雪道を歩き、シェザード様と共にヴィクターの投獄されている収容所へと向かった。
収容所のある地区は悪所なのだろう。近づくにつれて人の姿が減ってくる。
橋にさしかかった。川の半分はすっかり凍ってしまっている。まだ凍っていない中央に、清廉な水が流れていた。
雪の中で見る川は、いつも以上に綺麗に見える。
踏み固められているとはいえ、雪道は滑る。
おぼつかない足取りで歩く私を、シェザード様がしっかり手を握って支えてくれている。
この時期の移動は徒で行う。余程の長距離であれば、車輪をソリに変えた馬車を使う場合もあるけれど、雪が深くなってくると立ち往生してしまってかえって危険なので、滅多なことでは遠出はしない。
雪道に慣れた毛足の長い、足の太い馬もいる。
馬に騎乗できる方はそちらが主に使うけれど、馬は高い。こちらも、余程のことがない限りは使わないので、出番は少ない。
何にせよ、長い冬の間は家にこもる。
それが一番賢い冬の過ごし方だと、カダールでは言われている。
春と夏の間に、保存食を蓄える。
お金がある方たちは良いけれど――
「ルシル、足は痛くないか? 疲れたのなら、休憩をしよう」
ヴィクターは貧民街で生きていたのだという。
それについて考えていた私は、シェザード様の声に意識を現実へと戻した。
「大丈夫です。シェザード様、ありがとうございます。シェザード様が一緒にいてくださったから、歩けるようにまでなりました。もう、体もなんともありません」
「礼は要らない。……ルシルが歩けなくなっても、声が出なくなっても、夢の中から戻ってこなくても、俺はずっとルシルの傍にいる。それは俺の望みだ。……上手く言えないが、……だから、気に病まなくても良い」
「シェザード様……、……その、……大好き、です。私、……こうしてまた、シェザード様と一緒に歩くことができて、嬉しい。王都のお祭り、楽しかったです。それから、一緒に演劇を見ることができて、楽しかった。シェザード様と、もっと、沢山、色々なことをしたい。だから、元気になることができて、良かったです」
「ルシル……」
剥き出しの皮膚にじわりと寒さが染みこんでくるようだ。
雪に覆われた真っ白な世界で見るシェザード様は、白銀の狼のように美しい。
シェザード様には冬が似合う。
つないだ手だけが、熱を持っている。
その手を引き寄せられて、きつく抱きしめられる。
唇が触れあう。
何度も啄むように口づけられて、私は頬に熱が集まるのを感じた。
収容所のある地区に近づくひとは少ないのだろう。
通りには誰も居ない。
誰も居ないとはいえ外でこのようなことをされるのはいつも以上に恥ずかしく、けれど、嬉しかった。
「……話を聞いて、すぐに帰ろう。ルシルを呼んでいる時点で、ろくでもない話なのだろうとは、予想がつく。あれは嘘つきで、良く舌がまわる男だ」
「ええ、それは……、私も、そう思います。あのひとは、怒りに満ちている。酷い世界を見てきたのでしょう。……けれど、酷い世界を見てきても、美しいままのひとも居ます。シェザード様のように」
「俺は……、俺には、ルシルが居た。ルシルがいなければ、……怒りのまま、他者を酷く傷つけるような人間に、成り果てていたのかもしれない」
「シェザード様には、私が居ます。私だけではなくて、お父様や、フラストリア家の家族や、アルタイル様も、皆」
「そうだな。今までずっと、差し伸べられた手を、振り払っていた。入学式の日、図書館でルシルが俺に手を伸ばしてくれなければ、それに気づくことができなかっただろう」
「覚えていてくださっているのですね」
「忘れるわけがない。ルシルは俺の光だ。……今までも、これからも」
シェザード様は私から体をそっと離して、微笑んだ。
それは、どこか切なげで、苦しそうな笑みだった。
シェザード様は最近、そんな表情をすることが時々ある。
私の体が心配だからなのかと思っていた。
けれど今は。
――ヴィクターに会うことが、不安なのかしら。
私も、不安がないと言えば嘘になる。
人を惑わすような言葉や声音、触れられた時の不快感を思い出し、背筋にぞわりとした悪寒が這い上がってくるような気がした。
収容所は灰色の砦のような建物だった。
雪の中に立っているその大きな建物は、白い景色と相まって余計に寒々しい印象がある。
閉ざされた分厚い扉を、私たちが訪れると、兵士の方が開いてくれた。
お手紙をフランセスにお願いしてエアリー公爵に渡して貰っていたので、エアリー公爵が先に到着して待っていてくれた。
「ルシルさんには辛い役割をお願いして、申し訳ないと思っています」
収容所にある応接間に通されて、体を温めるためにまろやかな味のする根菜のスープが振る舞われた。
カップに入った透き通るような琥珀色のスープに、ソファセットに座って口をつける。
暖炉には赤々と火がともされていて、部屋を暖めていた。
深々と頭をさげるエアリー公爵に、私は首を振った。
「いえ、良いのです。私なら、大丈夫です」
「気丈なお嬢さんですね。その強さは、フォードに似たのでしょうか。あれは昔から豪放磊落というような性格をしていましたが。……ところで、ルシルさん。あなたが言っていた教会についての調査ですが」
「どうなりましたか?」
「ええ。酷い物でした。この国は、神官の権力が強い。彼らは、神の塔で啓示を受ける役割があるからです。各地の教会の管理は神官たちに一任していて、私たちは孤児院や教会の運営のための資金だけを渡している。そんな状況でした」
「王都にある神官長家の居る大教会でさえ、神託の内容を聞くために王が自ら足を運ぶぐらいだ。向こうから出向いてくることは、滅多にない」
シェザード様が静かな声音で言った。
エアリー公爵は眉間に指をあてると、軽く首を振った。
「その在り方に、疑問を抱いたことは今まで一度もありませんでした。私も、フォードも、そうでしょう。神に祈りを捧げる神官たちは常に正しい。そのように、信じていた。子供の頃からそれは、当たり前のことでしたから」
「所詮は同じ人間だ。神官と、肩書きがついただけの。……神官長とは何度か会ったが、挨拶を交わされたことさえないな。俺は、居ないものとして扱われていた」
「……酷い話です。殿下はずっと、そのような状況を耐えていらっしゃったのですね。フォードはいち早くそれに気づいたのでしょう。私は、そこまで目を向けることができなかった。申し訳ありません」
「いや。……それは、良い。謝罪が欲しくてした話ではない。それで、どのような状況だ?」
「ええ。ルシルさんの言っていた通り、私たちが民の税から支払っていた教会の資金の殆どを、神官たちが着服して、私服を肥やしていました。孤児院は、酷い有様でした。……もちろん、正しい形で運営されている場所もありましたが。……そうではない場所は、口に出すのもはばかられるほど、おぞましいことが起こっていました」
「……ある程度は、……理解できる。どうにかなりそうなのか」
「時間はかかりそうですが、なんとかします。神官家の力が強く、根本的な解決を行うことは難しいですが。……カストル国王はまるで頼りになりません。アルタイル様が即位し、治世が変われば、多くが変化するでしょう。アルタイル様と、シェザード殿下。お二人が、この国を良い方向に導いてくださると期待しています」
「できる限りのことはしたいと思っている」
シェザード様は、アルタイル様の名前が出ても、もう表情を変えたりしなかった。
良かった。
もうきっと、酷いことは起こらない。
シェザード様がアルタイル様を傷つけることは、もうないのだろう。
一度目の私は失敗してしまったけれど、今の私は――少しは、役に立てたのだろうか。
そうだと、良い。