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プロローグ 市民、安定は義務です

その日は、生体壁内部の魔力の流路を調べる実習だった。二人一組で割り当てられた部屋には、俺たちのほかに誰もいない。


 壁の表面が薄く透け、枝分かれした管の中を淡い光がゆっくり移動しているのが見える。俺たちは壁の前に並び、同じ流れを目で追って、見失うたびに声をかけ合った。


 彼女が指した壁面を覗くと、隣から彼女も顔を寄せた。一本の管を見るために二人で頭を近づけているのがおかしくて、俺が笑うと彼女も笑った。


 流れを確かめ、壁から顔を離して彼女へ向き直った。彼女もちょうどこちらを向いたところで、目が合った。


 それまでと同じ調子で何か言うつもりだった。俺が口を開くと、彼女も同時に何かを言いかけた。どちらも声にならず、笑いが途切れたあとも、俺たちは顔を近づけたままだった。


 近い。


 いつも見ている顔なのに、目を合わせたままでいるのが妙に気恥ずかしい。室内のに漂う青い匂いに、彼女の髪の匂いが混じっている。視線が少し下へずれた。彼女の唇がほんの少し開いていた。


 そこへ、自分の唇を重ねるところを想像した。


 ……これ、キスできるんじゃないか。


 唇が少し動いた。ついその動きを目で追ってしまう。柔らかいんだろうな、と思っていると、彼女の目も俺の口元へ落ちた。


 今、見た。


 俺と同じことを考えていたんじゃないだろうか。彼女はすぐに目を逸らし、何でもないようにしているつもりなのか、口元をきゅっと結んだ。髪の間からのぞく長い耳が、先の方まで赤くなっている。


 ああ、可愛い。


 いつもただでさえ可愛いのに、そんな反応をされてしまったら、もうどうしていいか分からない。どうにも都合の良いように考えてしまう。でも、これはやっぱり良い雰囲気って奴だよな。うん、いける。たぶん、いける。


 キスしたい。このまま唇と唇で触れて、あわよくばその先まで進みたい。そう考えたところで、両手の行き場がないことに気づいた。


 こういうときって、手はどこに置けばいいんだ。


 頬か、肩か。腰は、いきなり触ったら驚くだろうか。100年以上生きてきて、キスするときの手の置き場所も俺は知らないのか。知っている奴はどこで覚えたんだ。


 喉が渇いて、唾を飲み込んだ。やけに大きな音がした気がする。彼女の手は、自分の服の端を握っていた。指先に力が入り、細かな皺が寄っている。


 彼女も落ち着かないらしい。それが分かると、少し勇気が出た。


 俺は彼女の顔にかかった髪へ手を伸ばした。彼女の目が指先を追う。俺は一瞬、手を止めた。本当に触っていいのか。触れてしまったら、きっともう後戻りはできない。


 彼女が少し顔を上げたので、俺は意を決してその髪をよけた。指が頬に触れたところで、彼女と目が合う。そっと手を添えると、その頬は温かかった。


「マリレッタ」


 名前を呼んで、その続きが出てこなかった。頬に添えた手も動かせずにいると、マリレッタは自分の服から手を離し、俺の袖をつまんだ。袖の布が少し引かれる感触があった。


 彼女は俺をじっと見つめていた。それから少し間を置いて、小さく頷く。


 それだけで、もう何もかもが大丈夫な気がした。


 俺が軽く身を屈めると、マリレッタはゆっくりと目を閉じた。袖をつまむ指に少し力が入る。顔を寄せると、彼女の吐息が唇にかかった。すぐ目の前に、柔らかそうな唇がある。


 右か左か、どっちへ傾けるんだ。


 今さらそんなことに迷いながら、もう少しだけ顔を寄せた。あと少し。俺も目を閉じかけた、そのときだった。


 二人のすぐ横で、壁が大きく軋んだ。


 視界の端を縦の裂け目が走り、通路の明かりが薄暗かった部屋へ差し込んだ。壁の繊維が幾重にも縮み、厚い層ごと左右へ引かれていく。断面を走る細い管が開口の縁へ折り畳まれ、開ききる前の隙間から太い脚が踏み込んできた。


 床がどん、と鳴った。マリレッタの目が開く。俺は反射的に身を引き、彼女の頬から指が滑り落ちた。


 木質の巨体が、すぐ横まで迫っていた。重なった外殻の隙間を光が走り、顔の中央にある細い発光部がこちらを向く。


 ちくしょう、監視ゴーレムだ。


 太い腕が二人の間へ差し込まれた。もう一歩後ろへ身を引くと、俺の袖をつまんでいたマリレッタの指がほどけた。彼女も一歩後ろへ下がる。俺たちが充分に離れたことを確認して、その腕は止まった。


 さっきまで近くにあったマリレッタの顔が、木質の腕の向こうに見えた。


「市民エリオ・セレイン。市民マリレッタ・ヴァルネ。第一齢市民間の親密行為への移行を確認。関係固定化の予防措置として、両名の行動を制止します」


 巨体に似合わない穏やかな声で、ゴーレムが告げた。


「齢級管理則第12条。第一齢市民による、恋愛関係の形成を目的とする接吻その他の親密行為を禁じます。両名は、ただちに行為を中止してください」


 マリレッタは二人の間にある腕を一度見て、俯いた。俺の袖を離した指が、また自分の服の端をつまむ。ゴーレムは俺たちが離れたのを確かめても、腕を引かなかった。


 知ってる。その条文は、知ってるから。


「市民安定規程第24条に基づき、禁止行為の成立前においても、必要な制止および分離措置を実施します。本措置は、両名の将来の選択可能性を保全することを目的とします」


 ゴーレムは俺とマリレッタを順に見た。


「市民、安定は義務です」


⸻


 かつて、数千年を生きる俺たちの先祖は、その長い生を律するため、高度な植物魔法とゴーレム技術の粋を集め、自ら考える樹を生み出した。


 樹は自分自身を改良しながら育ち続け、やがて都市とその統治機構を、樹体の中につくりあげた。


 樹齢およそ6万年。


 国土そのものとなった巨大な樹、 叡樹——今なお自律思考と自己改善を続けるその内側に、俺は転生した。


 ここはリュゼリア。


 暮らす者の一生を樹木が管理する、エルフの国である。

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