閑話 蒼き風と冬を歩む者たち
閑話 蒼き風と冬を歩む者たち
ババロア領の冒険者ギルドから、蒼き風が宿泊している柳の宿へ使いが訪れたのは、夕暮れが近づいた頃だった。
柳の宿は、街の中でも古くから営業している宿の一つだ。建物そのものは年季が入っているものの、隅々まで掃除が行き届き、磨かれた床や手入れされた家具からは、女将の心遣いが感じられる。
女将のアンナは、ギルドから預かった伝言を手に、古いながらも清潔に保たれた階段を上っていった。階段の一番上、廊下の突き当たりにある部屋が、蒼き風の泊まっている部屋だった。アンナは扉の前で足を止め、軽くノックをする。
「蒼き風の皆さん、いらっしゃいますか?」
「はい。どうぞ」
中からガルドの声が返ってきた。
アンナが扉を開けると、部屋の中にはガルドたち五人と、小さなノームのバルバロがいた。バルバロは部屋の隅に用意された椅子に座り、皆の様子を眺めている。
「お寛ぎのところ失礼しますね。ギルドから伝言を預かってきました」
「ギルドから?」
ガルドが顔を上げる。
「はい。明日の朝、ギルドへ来てほしいとのことです。詳しいお話は、ギルドでされるそうですよ」
「そうか。分かった。明日の朝だな」
「ええ。皆さんにお伝えしましたよ」
「わざわざありがとう」
ガルドが礼を言うと、アンナは柔らかく微笑んだ。
「それでは、失礼しますね」
「ちょっと待ってくれ」
ガルドは小さな袋を取り出し、アンナへ差し出した。
「いつも世話になっている。これは少しだが」
「まあ、ありがとうございます」
アンナは恐縮しながらも、丁寧に受け取った。
「それと、夕食を部屋まで運んでもらえるか? 今日は皆でここで食べたいんだ」
「もちろんですよ。準備ができましたらお持ちしますね」
「頼む」
アンナはもう一度頭を下げると、静かに扉を閉めた。
部屋の中では、皆が自然とガルドの方を向いていた。
「明日の朝、ギルドか」
ロックが腕を組む。
「何か決まったんだろうね」
ミーナが言った。
「黒き霧の件だろう。領主様から何か話があったのかもしれない」
ガルドはそう答え、テーブルの上に置いていた荷物を片付け始めた。
「明日になれば分かる。今日はゆっくり休もう」
トーマも頷いた。
バルバロは皆の話を聞きながら、小さく膝を抱えていた。父親のことが気になっているのだろう。明日の呼び出しが何につながるのか、まだ分からない。期待したい気持ちと、何も進展しなかったらという不安が、幼い表情に浮かんでいた。
「心配するな。明日になれば、きっと色々決まる」
ガルドがバルバロに声を掛ける。
「だから今日は、しっかり食べて力をつけて寝ろ!」
「……うん」
バルバロは小さく頷いた。
その後、アンナが夕食を運んできた。
テーブルに並べられた料理から、温かな湯気と食欲を誘う香りが広がる。
大きな器に盛られているのは、スタンプボアの角煮のシチューだった。
じっくりと煮込まれた肉は、表面に艶のある濃い色のソースをまとっている。匙を入れると、肉の繊維がほろりとほどけ、器の中に溶け込んだ旨味の香りがふわりと立ち上った。野菜にも肉の味がしっかり染み込み、柔らかく煮えた根菜をすくうと、シチューの濃厚な香りが一緒に広がる。
その横には、焼きたてのパンが籠いっぱいに盛られていた。
丸く膨らんだ表面はきれいな焼き色がつき、ところどころに香ばしい焦げ目がある。ちぎると中から白い湯気が立ち上り、ふんわりとした生地から小麦の甘い香りが漂った。
さらに、小さな器にはヨーグルトが用意されている。白いヨーグルトの上には、蜂蜜を絡めたナッツがたっぷりと乗せられていた。蜂蜜の透き通った黄金色がヨーグルトの表面にゆっくり広がり、香ばしいナッツの香りが甘く鼻をくすぐる。
「おお、これはうまそうだな」
ロックが思わず声を上げた。
「温かいうちに召し上がってくださいね」
アンナはそう言って、空いた皿を片付けてから部屋を出ていった。
「いただきます」
ガルドの声を合図に、皆が食事を始める。
まずはシチューを一口。
柔らかく煮込まれたスタンプボアの肉は、噛むほどに深い旨味が広がる。脂はしつこくなく、煮汁に溶け込んだ野菜の甘みと香辛料の香りが、肉の味を引き立てていた。熱々のシチューが身体の内側から温めてくれる。
「これはいいな。肉が本当に柔らかい」
トーマが満足そうに頷く。
「このシチュー、パンにも合うよ」
ミーナはパンをちぎり、器の中に残ったシチューをたっぷりと染み込ませた。ふわふわのパンが濃厚な煮汁を吸い、口に入れると小麦の甘みと肉の旨味が一緒に広がる。
「おかわりしたくなる味だな」
ニルも静かにパンを口へ運んだ。
バルバロも小さな手でパンを持ち、シチューを少しずつ食べていた。熱さに気を付けながら口に運ぶと、ほっとしたように頬が緩む。
食後には、蜂蜜がけのナッツが乗ったヨーグルトを口にする。
なめらかな酸味のあるヨーグルトに、蜂蜜の優しい甘さが混ざる。そこへナッツのカリッとした歯触りと香ばしさが加わり、シチューの後でも重たく感じない。
「これも美味しいね」
ミーナが微笑む。
「甘いのに、さっぱりしている」
バルバロも器を両手で持ち、ゆっくり味わっていた。
皆で食卓を囲み、温かい料理を食べているうちに、部屋の空気も少しずつ和らいでいく。
それでも、バルバロの表情から不安が完全に消えたわけではなかった。
ガルドはそれに気付いていたが、今は無理に問いかけることはしなかった。ただ、明日へ向けて少しでも安心できるよう、いつもと変わらない声で話しかける。
「明日は朝からギルドへ行く。きっと色々決まるからな。今夜はしっかり休んでおけ」
「……うん。分かった」
「腹もいっぱいになっただろう?」
「うん。おいしかった」
「それなら十分だ」
ガルドが笑うと、バルバロも少しだけ笑顔を見せた。
その夜、蒼き風は翌日の準備を整え、早めに休むことにした。
*
翌朝。
朝食を済ませた蒼き風は、バルバロを連れて冒険者ギルドへ向かった。
バルバロは人目を避けるため、大きな袋の中に入っている。袋の口は少し開けてあり、外の様子が見えるようになっていた。ガルドが袋を肩に掛け、歩くたびに中で揺れないよう気を付けている。
「苦しくないか?」
ガルドが小さく声を掛ける。
「大丈夫」
袋の中から、バルバロの声が返ってきた。
ギルドへ到着すると、受付のシエルが五人の姿に気付いて声を掛けた。
「おはようございます。お待ちしていました」
「おはよう。昨日、伝言をもらったんだが」
「はい。ギルド長がお待ちです。こちらへどうぞ」
シエルはカウンターから出て、奥の廊下へと案内した。
普段は冒険者たちの出入りで賑やかなギルドも、朝のこの時間はまだ人が少ない。奥へ進むにつれて、受付や談話スペースのざわめきも遠ざかっていく。
やがて、ギルド長室の前に到着した。
シエルが扉の前で足を止める。
「こちらです。皆さんがお見えになったことをお伝えしますね」
そう言って、扉をノックした。
返事を待つ間、ガルドはふと室内から漂う気配に気付いた。
強い。
ただ強いというだけではない。扉越しにも伝わってくる圧力に、身体が自然と緊張する。まるで、部屋の中にいる者たちが、こちらの存在を確かめているかのようだった。
隣にいたロックも、わずかに眉を寄せる。
「……何だ、この気配は」
ミーナも息を呑んでいた。
袋の中のバルバロも、外の様子をうかがうように静かになる。
シエルは普段通りの表情で、扉の向こうへ声を掛けた。
「蒼き風の皆さんがお見えになりました」
少しの沈黙の後、室内から低い声が返ってきた。
「入れ」
シエルが扉を開く。
ガルドは一度、深く息を吸った。
何が待っているのかは分からない。だが、ここまで来た以上、臆するわけにはいかない。
「行くぞ」
仲間たちに短く告げ、ガルドは部屋の中へ足を踏み入れた。
室内には、ソファに腰掛けたギルド長マインズの姿があった。そして、その向かいには見覚えのない二人の男が座っている。
一人は銀色の髪を持つ、整った顔立ちのエルフ。もう一人は大柄な身体つきで、冬だというのに軽装の男だった。
その二人を見た瞬間、ミーナの目が大きく見開かれた。
「……っ!」
次の瞬間、ミーナはその場に膝をついていた。
「ミーナ?」
突然の行動に、ガルドたちは驚いて彼女を振り返る。
「どうしたんだ?」
ミーナはすぐには答えられなかった。目の前のエルフから伝わってくる気配と、その姿に見覚えがあったからだ。
「一人は……氷結の貴公子よ。Sランクの……」
その言葉に、ガルドたちの表情が変わる。
氷結の貴公子。
その名は、冒険者の間でも知られている。氷の魔法を極めたエルフであり、数少ないSランク冒険者の一人だ。
アイズは膝をついたミーナを見つめた。
「ハーフエルフか」
その視線は、ミーナの耳へと向けられていた。純血のエルフより短く、人間の耳とも異なる特徴。アイズはそのわずかな違いから、彼女がハーフエルフであることを見抜いたのだ。
「今は冒険者としてここにいる。立て」
落ち着いた声だった。
威圧するような響きはなく、ただ同じ冒険者として接している。ミーナは一瞬戸惑ったものの、ゆっくりと立ち上がった。
「失礼しました」
「気にするな」
アイズはそれ以上何も言わなかった。
「ははっ、そんなに驚かなくてもいいぜ。俺はゴリアテだ。よろしくな」
大柄な男が豪快に笑いながら声を掛ける。
「俺はアイズだ。先ほど紹介された通り、冒険者をしている」
二人が名乗ると、ガルドたちも姿勢を正した。
「俺はガルドです。蒼き風のリーダーをしています」
「ミーナです」
「ロックだ」
「トーマです」
「ニルです」
それぞれが名乗り、簡単に挨拶を交わす。
その間に、ガルドは肩に掛けていた袋をそっと下ろした。
「バルバロ、もう出てきていいぞ」
袋の口が動き、小さなノームが顔を覗かせた。周囲の様子を確かめてから、バルバロはゆっくりと袋から出てくる。
「おはようございます」
小さな声で挨拶をすると、マインズが穏やかに頷いた。
「よく来たな、バルバロ」
バルバロはガルドの後ろに隠れるように立ち、室内にいる二人を見上げた。
知らない人間が何人もいる。しかも、先ほどから感じていた強い気配は、目の前の二人から伝わってくるものだった。
けれど、銀色の髪の男を見た時、バルバロの表情が少し変わった。
「……エルフだ」
小さく呟いた声に、アイズが視線を向ける。
「そうだよ。俺はエルフだ」
その言葉を聞いたバルバロの肩から、少しだけ力が抜けた。
ノームにとってエルフは、決して遠い存在ではない。森や自然の中で暮らす者同士、古くから隣人に近い関係にある。もちろん、すべてのノームとエルフが親しいわけではないが、互いの存在を知り、交流することもある種族だった。
初めて会う相手でも、エルフだと分かったことで、バルバロの中に安心感が生まれたのだろう。
「俺はアイズだ。よろしくな」
アイズが穏やかに声を掛ける。
「……バルバロです」
「バルバロか。よろしく」
アイズは小さく頷いた。
その様子を見ていたゴリアテが、にっと笑う。
「よし、みんな揃ったな。まずは話を聞かせてもらおうぜ」
「そうだな」
マインズが椅子を勧め、全員が席に着いた。
「では、始めよう。今回、アイズ殿とゴリアテ殿にここへ来てもらったのは、黒き霧についての調査を進めるためだ」
マインズが説明を始めた。
「二人は領主様から依頼を受け、黒き霧の調査と、必要であれば討伐への協力を引き受けてくれた。蒼き風は実際に黒き霧と遭遇している。そこで、現場で何があったのか、詳しく話を聞きたいというわけだ」
「そういうことだ。よろしく頼む」
アイズが静かに言った。
「実際に戦ったお前たちの話が聞きたくてな。気になったことは遠慮なく聞かせてもらうぜ」
ゴリアテは身を乗り出すようにして笑った。
ガルドは頷き、黒き霧に遭遇した時のことを話し始めた。
森の入口付近で見られた魔獣の異変。クロトゲノキの近くで黒き霧を見つけたこと。幹を引っ掻くような動き。そして、こちらに気付いた黒き霧が襲い掛かってきたこと。
ロックやトーマも、戦闘中に見た動きや攻撃の特徴を補足する。
「霧のような身体だったためよく分かりませんが、ミーナの矢と、ロックの盾が当たったので、攻撃がまったく通らないわけではありません」
「火と光、それから冬属性の攻撃に反応があったんだな?」
アイズが確認する。
「はい。俺たちが持っている手段では光でしたが決定的なダメージを与えられませんでしたが、他はどうかはまだ分かりません。」
「黒き霧は本来、真冬に現れる魔物だと聞いている。今回のように秋の終わりに出現したことも、森の異変と関係しているのかもしれないな」
アイズが考え込む。
「クロトゲノキの幹を引っ掻いていたという話も気になる。何かを探していたのか、それとも別の目的があったのか」
「俺たちにも分かりません。ただ、あの場所に何かがあった可能性はあると思います」
ガルドが答えた。
「その後、バルバロを見つけたんだったな」
マインズが話を続ける。
「はい。バルバロは父親を探して森へ戻り、黒き霧に襲われていました」
ガルドは、ノームたちが秋の収穫に出た時のことから説明した。
森で黒き霧に襲われた際、父親のババロが仲間を逃がすために最後まで残ったこと。村へ戻った後、バルバロが父親を探そうと誰にも告げずに村を抜け出したこと。そして、一人で森を進む途中、再び黒き霧に襲われたこと。
「バルバロはクロトゲノキの根元に隠れていました。俺たちが見つけた時、黒き霧は木の幹を引っ掻いていたんです。今考えれば、木を狙っていたのではなく、隠れていたバルバロを探していたのかもしれません」
「なるほどな」
ゴリアテは腕を組み、バルバロへと視線を向けた。
「怖かっただろうな。一人でよく逃げたもんだ」
バルバロはガルドの後ろから少しだけ顔を出した。
「父さんを探したかったんだ。でも、見つからなくって、」
「そうか」
ゴリアテは大きく頷いた。
「父親のことが心配だったんだな」
「うん……」
アイズもバルバロへ視線を向ける。
「森の中で、黒き霧はどのくらい近くにいた?」
バルバロは少し考えた。
「すぐ近くだった。木の根っこのところに隠れてたら、黒いのが木をガリガリしてた」
「音が聞こえたのか?」
「うん。怖くて、動けなかった」
「そうか。よく無事だったな」
アイズの声は静かで、バルバロを急かすような様子はない。
「その後、蒼き風が助けてくれたんだね?」
「うん。」
バルバロはガルドの服を小さな手で握った。
「それから、父さんはまだ見つかってないから……」
マインズが告げる。
「黒き霧の調査と並行して、ババロの行方についても情報を集めていくつもりだ」
「よろしくお願いします」
バルバロは小さく頭を下げた。
アイズはその姿を見つめていたが、やがてゴリアテへと視線を向けた。
「実際に現場を見たい。黒き霧が現れた場所と、クロトゲノキの位置を確認しておきたい」
「そうだな。話だけじゃ分からねぇこともある。現地で見た方が早い」
ゴリアテはマインズへ向き直った。
「ギルド長、蒼き風を道案内に頼めないか? あの場所を知っている連中が一緒なら、調査も進めやすい」
「俺たちも同じ考えだ。現場までの道を知る者が必要になる」
アイズも続ける。
マインズは蒼き風の五人へ視線を向けた。
「どうだ、ガルド。同行を頼めるか?」
「もちろんです。俺たちが知っている範囲であれば、案内します」
ガルドは迷わず答えた。
「ただし、黒き霧が再び現れる可能性があります。現場へ向かう際は、十分に注意が必要です」
「分かっている。無理をするつもりはない」
アイズが頷く。
「それにしても、お前たちはなかなか筋があるじゃねぇか」
ゴリアテは蒼き風の五人を見回し、豪快に笑った。
「黒き霧を相手に無理をせず、仲間を守って撤退する。それに、バルバロを助けるために動いたんだろ? いい判断だと思うぜ」
「ありがとうございます」
ガルドは少し照れたように頭を下げた。
「おう! これから色々話そうぜ。現場のことも、森のこともな!」
ゴリアテの笑い声がギルド長室に響いた。
こうして、蒼き風と二人のSランク冒険者は、黒き霧の現場へ向かうことになった。
それぞれが持つ情報を持ち寄り、森に起きている異変を確かめるために。
そしてバルバロもまた、父親の行方につながる何かが見つかることを願いながら、大人たちの話に耳を傾けていた。




