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第2夜 女神様と、空っぽの器が高くなった町

一、昼下がりの小さな食堂


昼下がりでした。


町の市場のすみに、

小さな食堂がありました。


旅人も、職人も、荷運びの若者も、

そこで昼の食事を買っていきます。


店で食べる人もいれば、

持ち帰り用の器に詰めてもらい、

仕事場へ持っていく人もいました。


食堂の中では、湯気が上がっていました。


ほかほか。


ほかほか。


釜の中では、白い穀物がふっくら。


鍋の中では、豆と肉の煮込みがことこと。


鉄板の上では、香草で焼いた魚が、

ぱちぱちと音を立てていました。


店の奥には、女主人がいました。


三十を少し過ぎたころの、

きびきびした人です。


黒い髪を後ろでひとつに結び、

白い仕事着のひもを、きゅっと締めています。


袖はまくり上げられ、

腕には小さな油はねの跡がありました。


「そこの皿、下げといて」


「魚、焦がさないで」


「持ち帰りは少し待っておくれ。今、詰めるからね」


声はよく通り、

手はよく動き、

目はよく届きます。


けれど今日は、少しだけ疲れて見えました。


女主人は、空っぽの器をひとつ手に取りました。


こん。


指で、軽く叩きます。


「……また上がるのかい」


空っぽの器は、何も答えません。


白い穀物も高い。


卵も高い。


油も高い。


香草も、少し高くなりました。


けれど今日は、

中身を入れる前の、空っぽの器まで高くなっていたのです。


「中身を減らすわけにはいかないしねえ」


その時です。


店のすみで、ぽうっとやさしい光がともりました。


湯気とは違う光。


火とは違う光。


あたたかくて、少しだけ偉そうな光です。


光の中から、女神様があらわれました。


桃色がかった金色の髪。


夕焼けみたいな瞳。


えらそうで、きれいで、

でも少しだけドジな女神様。


女神アリアです。


アリアは、すっと胸を張りました。


「働く者よ。今この時、私のおはなしを聞けること、ありがたく思いなさい」


女主人は、長い木べらを持ったまま、アリアを見ました。


そして、ひとこと。


「そこ、邪魔だよ」


アリアは、目をぱちぱちさせました。


「……邪魔?」


「鍋の前に立たれると、火が見えないんだよ」


「私は女神ですよ」


「女神様でも、煮込みを焦がされたら困るね」


女主人は、木べらで鍋をかき混ぜました。


ことこと。


ことこと。


アリアは、少しだけ頬をふくらませました。


「普通は、もっと驚くものです」


「忙しい時に驚いてる暇はないよ」


「信仰心が足りませんね」


「信仰心より、今は塩加減だね」


女主人は、味見用の小皿を手に取りました。


「で、アリア様。食べに来たのかい?」


「違います。おはなしをしに来たのです」


「じゃあ、話すなら手を洗いな」


「女神の手は清らかです」


「清らかでも、厨房に入るなら手は洗うんだよ」


アリアは、しばらく女主人を見つめました。


それから、小さく言いました。


「……水場はどこですか」


女主人は、少し笑いました。


「奥だよ」


アリアは手を洗いました。


さらさら。


さらさら。


それから、空っぽの器を見つめました。


「私も最初は、不思議に思いました」


「何を?」


「食べ物ではなく、空っぽの器が高くなることです」


「それで?」


アリアは、得意げに胸を張りました。


「気になったので、現場へ行きました」


女主人は、目を細めました。


「本当に行ったのかい?」


「当然です。噂だけで語るなど、三流の占い師のすること。私は女神ですから」


「で、迷ったんだろう?」


アリアは、ぴたりと止まりました。


「……少しだけ、道が私に遠慮したのです」


「迷ったんだね」


「細かい働く者ですね」


アリアは、こほんと咳払いをしました。


「では、見せてあげましょう。私が歩き、聞き、転び、見届けた町のおはなしです」



二、湯気の窓がひらく


アリアが指先をすっと動かすと、

釜からのぼる湯気が、ふわりと広がりました。


湯気は白く、やわらかく。


ゆらゆら。


ゆらゆら。


やがて店の空気に、

大きな窓のような景色が浮かびます。


はじめは、ぼんやり。


やがて、はっきり。


遠い町。


白い道。


石造りの市場。


荷車の音。


職人たちの声。


空っぽの器を並べる、かたん、という音。


小さな食堂の音が、少し遠くなりました。


ことこと。


ぱちぱち。


ほかほか。


その音が、白い湯気の向こうへ沈んでいきます。


アリアは言いました。


「ここから先は、湯気の向こう。私が実際に行ってきた町です」


女主人は、木べらを片手に、湯気の窓を見ました。


「へえ。湯気が景色になるのかい」


「私の記憶です。ありがたく見なさい」


「ありがたく見るから、そこの皿を一枚取っておくれ」


アリアは、固まりました。


「私は女神ですよ?」


「なら、皿の一枚くらい神々しく取れるだろう?」


アリアは、むっとしながら皿を取りました。


その皿を一枚、つるりと落としかけます。


「きゃっ」


女主人が、すばやく受け止めました。


「ほらね。神々しくはなかったね」


アリアは、顔を赤くしました。


「今のは、皿の反射神経を試したのです」


「皿に反射神経はないよ」


「細かい働く者ですね」


「厨房は細かくないと回らないんだよ」


女主人は皿を棚に置きました。


湯気の窓が、もう一段、白く濃くなりました。



三、器職人の工房


アリアが最初に向かったのは、

町のはずれにある器職人の工房でした。


そこには、大きな炉がありました。


ごう。


ごう。


赤い火が、炉の奥で息をしています。


天井は高く、

梁にはすすがつき、

床には白い粉と細かな破片が落ちていました。


透明な器。


白い皿。


薄いふた。


魚を包む膜。


菓子を守る袋。


どれも、食べ物ではありません。


けれど食べ物を守る、大切なものたちです。


アリアは、工房の入口で胸を張りました。


「私はアリア。おはなしを集める女神です」


年老いた職人が、すすだらけの顔で言いました。


「女神様が、こんな暑い工房に何の用で?」


「空っぽの器が高くなっていると聞きました。確かめに来たのです」


職人は、深く息を吐きました。


「高くなったよ。困ったくらいにな」


「なぜです?」


「黒い油のしずくが高い」


職人は、炉のそばにある黒い壺を指さしました。


中には、黒くて重たいしずくが入っていました。


それは、遠い砂の国から運ばれてくるものでした。


火を受け、手をかけ、形を与えられて、

透明な器や白いふたになるのです。


アリアは、壺をのぞきこみました。


「これが、器のもとですか」


「そうだ」


「ただの黒いしずくに見えます」


「見えるものだけで値段が決まるなら、商売は楽なんだがな」


その時です。


アリアの足元で、空の箱が少しずれました。


かたん。


「ん?」


アリアが振り向いた瞬間。


がたん。


積まれていた空箱が、ぱらぱらと崩れました。


「きゃっ」


ひとつ。


ふたつ。


みっつ。


箱が腕の中に落ちてきます。


最後のひとつが、アリアの頭にすぽんとかぶさりました。


工房が、しんとなりました。


箱をかぶったアリアが、ゆっくり言いました。


「……これは、器の内側から強度を調べているのです」


職人は、肩を震わせました。


「女神様、見えますかい?」


「見えません」


「外しますかい?」


「……外しなさい」


職人たちは笑いました。


からから。


からから。


炉の火の音にまじって、久しぶりの笑い声が響きました。


でも、職人の顔はすぐに曇りました。


「笑ってはいるがな、女神様。こっちは本当に困ってる」


「黒いしずくが高いから?」


「それだけじゃない。届く量が少ない。届く日も読めない。昨日来るはずの荷が、まだ来ない」


「どこから来るのです?」


職人は、遠くを指さしました。


「砂の国の港だ」


アリアは、すぐに顔を上げました。


「なら、行きます」


「今からですかい?」


「もちろんです。現場に行く女神ですから」


そう言って、アリアは工房を出ようとしました。


けれど出口の段差につまずきました。


「わっ」


職人が、すばやく支えました。


「現場に行く前に、足元も見た方がいい」


アリアは、顔を赤くしました。


「今のは、工房の段差検査です」


湯気のこちら側で、女主人がぼそりと言いました。


「検査が多いねえ」


アリアは、少しだけ目をそらしました。



四、砂の国の港


湯気の窓が、ふわりと揺れました。


工房の赤い火が遠ざかり、

かわりに、砂の色が広がります。


ここからは、アリアが飛んで向かった、

遠い砂の国です。


ざあ。


ざあ。


風が砂を巻き上げていました。


空は青く、広く、

けれど人々の顔は明るくありません。


黒い油を運ぶ道が、前より細くなっていました。


荷車は、なかなか進みません。


港では、船が長く待たされています。


商人たちは、難しい顔で紙を見つめていました。


アリアは砂の上に降り立ちました。


そして、すぐに足を取られました。


ずぼ。


片足が、砂に埋まりました。


近くの荷運びの男が、目を丸くしました。


「女神様?」


アリアは、すました顔で言いました。


「これは、砂の深さを測っているのです」


「抜けますか?」


「抜きなさい」


男は笑いながら、アリアを引っ張りました。


すぽん。


アリアの足が抜けました。


かわりに、靴が砂の中に残りました。


アリアは、片足で立ったまま固まりました。


「……靴が、信仰心を試しています」


「砂に取られただけでは?」


「細かい荷運びですね」


荷運びの男は、砂を掘って靴を出してくれました。


アリアは靴を履き直すと、港を歩きました。


大きな船が並んでいます。


でも、その多くは動いていません。


帆はたたまれ、

縄は結ばれ、

甲板には荷を待つ人々が座っていました。


アリアは、商人に尋ねました。


「なぜ、黒い油のしずくが町へ届かないのです?」


商人は、疲れた顔で答えました。


「道が混んでいる。船も足りない。遠くの争いで、通れない道もある。昨日の値段と今日の値段が違う」


「それでは、器職人が困ります」


「器職人だけじゃない」


商人は首を振りました。


「食堂も、菓子屋も、魚屋も、油屋も困る。けれど、俺たちも困っている。運べないものは、運べない」


黒い油のしずくは、

町へ届くまでに、いくつもの道を通ります。


砂の道。


海の道。


川の道。


倉庫。


工房。


市場。


そのどこかで荷車が止まると、

そのどこかで船が待たされると、

小さな町の空っぽの器まで、値段が変わってしまうのです。


アリアは、港の端に立ちました。


乾いた風が、髪を揺らします。


「誰かひとりが悪い、というおはなしではないのですね」


商人は言いました。


「そうだ。だから余計に困る」


湯気のこちら側で、女主人が眉をひそめました。


「遠い国のことが、うちの器にまで来るのかい」


「来ます」


アリアは答えました。


「世界は、見えない糸でつながっています」


「面倒な糸だねえ」


「けれど、その糸があるから、届くものもあります」


女主人は、現実の鍋をかき混ぜながら言いました。


「近くの人には、近くの値段しか見えないからね」


アリアは、静かにうなずきました。


「だから、怒りは近くに向かいやすいのです」


「でも、近くの人に当たっても、油の道は太くならない」


「その通りです」


女主人は、鍋の火を少し弱めました。


「冷めた食事は、うまくないからね」


「ええ」


「町も同じか」


砂の港の景色が、ゆっくり薄くなりました。


アリアは言いました。


「そのあと私は、もう一度、器の町へ戻りました」



五、市場で見た、困る人たち


湯気の窓に、石造りの市場が戻ってきました。


次の朝。


市場には、空っぽの器が並んでいました。


透明な器。


白いふた。


薄い袋。


銀色の包み。


何も入っていないのに、

それらは前より高くなっていました。


菓子屋の女主人が言いました。


「箱が高いなら、菓子も上げるしかないね」


魚屋の男が言いました。


「包みがなきゃ、魚が乾いちまう」


油屋の娘が言いました。


「瓶もふたも、高くなったよ」


町の人々は困りました。


食べ物が高くなるのは、まだ分かります。


穀物が少ない。


魚が少ない。


卵が少ない。


それなら、まだ分かります。


けれど、空っぽの器が高い。


まだ何も入っていないものが高い。


それは、どうにも不思議で、

どうにも悔しいことでした。


市場の真ん中で、ひとりの若い食堂主が立っていました。


短い髪を布でまとめ、

大きなかごを腕にかけています。


かごの中には、持ち帰り用の食事が並んでいました。


白い穀物。


焼いた肉。


赤い豆。


黄色い卵のふわ焼き。


どれも、いつも通りおいしそうでした。


けれど、値札だけが、いつもより少し高くなっていました。


アリアは、少し離れた屋台の陰から見ていました。


客の男が言いました。


「また上がったのか」


若い食堂主は、頭を下げました。


「すみません」


「中身は同じだろう?」


「はい」


「なら、なんでだ」


若い食堂主は、空っぽの器を見ました。


「器が、上がったんです」


男は、ため息をつきました。


「器なんて、食べられないだろう」


若い食堂主は、少しだけ目を伏せました。


「でも、器がないと、届けられないんです」


男は、何も言えませんでした。


アリアは、その場で胸が少し重くなりました。


怒る客も困っていました。


謝る店主も困っていました。


どちらも、目の前の暮らしに押されていました。


そこで、湯気の窓が少しだけ薄くなりました。


遠い市場の声が、すうっと遠ざかります。


かわりに戻ってきたのは、

小さな食堂の音でした。


ことこと。


ぱちぱち。


ほかほか。


女主人は、木べらを握ったまま、しばらく黙っていました。


それから、空っぽの器を見ました。


「……同じだね」


アリアは、静かにうなずきました。


「ええ。同じです」


「高くしたいわけじゃない。だけど、店もただじゃ続かない」


「ええ」


「でも、食べに来る人の財布も重くない」


「ええ」


女主人は、小さく息を吐きました。


「だから困る」


アリアは言いました。


「困る者同士が、向かい合ってしまうのです」


女主人は、湯気の窓の若い食堂主を見つめました。


「……それで、どうしたんだい?」


「私は、店主たちの話し合いに入りました」


「勝手に?」


「女神ですから」


「迷惑そうだねえ」


「少しだけ、歓迎されました」



六、返し器のはじまり


湯気の窓が、もう一度濃くなりました。


市場の小屋には、食べ物屋たちが集まっていました。


菓子屋。


魚屋。


油屋。


小さな食堂の店主たち。


包み職人。


木の机の上には、空っぽの器が置かれています。


こん。


誰かが指で叩きました。


「これが高い」


こん。


別の誰かが叩きました。


「これも高い」


空っぽの器の音だけが、

小屋に響きました。


菓子屋が言いました。


「値段を上げるしかない」


魚屋が言いました。


「客は怒るだろうな」


油屋の娘が言いました。


「でも、上げなきゃ店がもたない」


その時、アリアは小屋の入口に立ちました。


そして高らかに言いました。


「困っているようですね。私が来ました」


みんなが、いっせいにアリアを見ました。


しん。


魚屋の男が言いました。


「……どなたで?」


アリアは胸を張りました。


「女神アリア。おはなしを集める女神です」


菓子屋が聞きました。


「器の値段は下げられますか?」


アリアは、少し考えました。


「それは……今すぐには」


油屋の娘が聞きました。


「黒い油を増やせますか?」


「それも……今すぐには」


包み職人が聞きました。


「船を早くできますか?」


アリアは目をそらしました。


「船は、少し専門外です」


小屋の空気が、少しだけ冷えました。


アリアは慌てて言いました。


「ですが、私は見てきました。器職人の工房も、砂の港も、困っている食堂も」


若い食堂主が顔を上げました。


「見てきた?」


「ええ。だから、誰か一人を責めるだけでは、町は温まりません」


その言葉に、みんなは少し黙りました。


アリアは、得意げに一歩前へ出ました。


その足元には、空っぽの器が置かれていました。


かたん。


「ん?」


つるっ。


「きゃっ」


アリアは、器につまずきました。


空っぽの器が、ころころ転がります。


「待ちなさい、器」


魚屋が言いました。


「器は待たないと思います」


アリアは顔を赤くしました。


「……これは、器がどれほど転がりやすいかの確認です」


菓子屋が言いました。


「確認、多いですね」


湯気のこちら側で、女主人がぼそりと言いました。


「でしょうね」


その時でした。


市場のすみで、ひとりの老人が言いました。


「昔は、器を返していたな」


みんなが老人を見ました。


老人は、古い木の椀を持っていました。


丸くて、少し傷があり、

何度も洗われて、手になじむ椀でした。


「食べ終わったら、器を返す。返したら、少し安くなる。そういう店があった」


若い食堂主は、顔を上げました。


「返し器を作るのはどうでしょう」


「返し器?」


「持って帰った人が、次の日に返す器です。返した人には、小さなおかずをひとつ足すんです」


市場は、少しざわめきました。


「全部は変えられない」


「でも、少しなら」


「器を持ってくる客には、少し安くしてもいい」


「鍋を持ってくる人もいるかもしれない」


「布で包めるものは、布でもいい」


小さな声が、ひとつ。


またひとつ。


ぽつり。


ぽつり。


やがて、雨が降り始める前の雲のように、

市場の空気が少しだけ動きました。


若い食堂主は言いました。


「器が高くなっても、お腹をすかせた人の分まで減らしたくありません」


誰も、すぐには返事をしませんでした。


けれど、みんなの顔が、少しだけやわらかくなりました。


アリアは、小さくうなずきました。


「よい信仰心です」


魚屋が首をかしげました。


「信仰?」


アリアは、ふふんと笑いました。


「これから分かることです」


湯気のこちら側で、女主人が言いました。


「あんた、勝手に信者を増やそうとしてるね」


「女神ですから」


「便利な言葉だよ」



七、アリアが見届けた小さな工夫


もちろん。


すべてが、すぐに良くなったわけではありません。


空っぽの器は、急には安くなりません。


遠い砂の国の道も、すぐには太くなりません。


黒い油のしずくは、まだ高いままでした。


返し器を始めても、

返ってこない器もありました。


洗う水も、洗う手も、必要でした。


店の人たちは、前より少し忙しくなりました。


アリアは、それも現場で見ていました。


朝の市場。


昼の食堂。


夕方の洗い場。


器を洗う若い食堂主のそばで、

アリアも袖をまくりました。


「私も手伝いましょう」


若い食堂主は驚きました。


「女神様が?」


「ええ。女神の洗い物は、きっと神々しく輝きます」


アリアは、木の器を手に取りました。


ごしごし。


ざぶざぶ。


一枚目。


二枚目。


三枚目。


四枚目で、手がすべりました。


「きゃっ」


器が宙を舞います。


若い食堂主が、すばやく受け止めました。


「あぶない!」


アリアは、濡れた手を胸の前でそろえました。


「……今のは、返し器の飛行性能を確認したのです」


若い食堂主は笑いました。


「飛ばなくていいんです」


湯気のこちら側で、女主人が言いました。


「そりゃそうだよ」


アリアは少し顔を赤くしました。


それでも、町は少しずつ変わりました。


市場の入口には、小さな札が立ちました。


器を返してくれた人には、豆のおかずをひとつ。


鍋を持ってきた人には、少しだけ安く。


布で包めるものは、布で。


できるものから、少しずつ。


小さな工夫でした。


けれど、小さな工夫は、

何もしないより、少しだけ町を明るくしました。


ある昼。


若い食堂主の店に、ひとりの子どもが来ました。


手には、小さな鍋を持っています。


「これに入れて」


若い食堂主は笑いました。


「自分の器を持ってきたの?」


子どもはうなずきました。


「母ちゃんが、そうしなさいって」


鍋の中に、白い穀物を入れます。


卵のふわ焼きをのせます。


赤い豆をそえます。


最後に、小さな豆のおかずをひとつ足しました。


子どもは、うれしそうに鍋を抱えました。


「ありがとう」


その声は、広い市場の中では小さな声でした。


でも、たしかに届く声でした。


アリアは、店の屋根の上でそれを見ていました。


夕風が、桃色がかった金色の髪を揺らします。


「空っぽの器は、空っぽに見えます」


アリアは、静かに言いました。


「けれど本当は、まだ見えない誰かの昼ごはんを待っているのです」


湯気のこちら側で、女主人はゆっくりとうなずきました。


「空っぽだから、役に立ってないわけじゃない」


「ええ」


「空っぽだから、これから入れられる」


「ええ」


そこで、湯気の窓がゆっくり薄くなりました。


市場の夕暮れが、白くほどけます。


水の音も。


子どもの「ありがとう」も。


器を洗う手の音も。


少しずつ遠くなっていきました。


アリアは言いました。


「そして私は、あなたの食堂へ来たのです」



八、小さな食堂にもどる湯気


湯気の窓が、ふっと消えました。


遠い市場の匂いが消え、

小さな食堂の匂いが戻ってきました。


豆と肉の煮込み。


香草で焼いた魚。


白い穀物の湯気。


ことこと。


ぱちぱち。


ほかほか。


女主人は、しばらく黙っていました。


それから、目の前の空っぽの器を手に取りました。


こん。


指で叩きます。


「……中身だけじゃないんだね」


アリアは、静かにうなずきました。


「ええ」


「器も、食事の一部なんだ」


「そうです」


女主人は、少し考えました。


けれど考えながらも、手は止まりません。


皿を重ねます。


煮込みを混ぜます。


魚を返します。


香草を散らします。


「うちでも、できるかねえ」


「何をです?」


「返し器だよ」


女主人は、店の棚を見ました。


少し古い木の器。


欠けていない皿。


きれいに洗えば、まだ使える器。


「全部は無理だよ。忙しくなるし、返してくれない人もいるだろうし」


「ええ」


「でも、常連さんからなら、始められるかもしれない」


アリアは、少しだけうれしそうに笑いました。


「よい考えです」


「鍋を持ってきた人には、少し安くするとかね」


「よい信仰心です」


「信仰心じゃなくて商売だよ」


「よい商売は、信仰心に似ています」


「そうかい?」


「たぶん」


「たぶんなのかい」


女主人は、空っぽの器を棚に戻しました。


「でも、やってみるよ」


「ええ」


「全部は変えられない」


「ええ」


「遠い砂の国も、油の道も、私にはどうにもできない」


「ええ」


「でも、店先の札なら書ける」


アリアは、静かに微笑みました。


「それでよいのです」


「小さいねえ」


「小さいことは、弱いことではありません」


アリアは言いました。


「小さい火でも、鍋は温まります」


女主人は、鍋を見ました。


ことこと。


ことこと。


「いいこと言うね、アリア様」


アリアは、また頬を赤くしました。


「当然です。女神ですから」



九、また来ます


アリアは、店の入口へ歩きました。


昼の光が、布の垂れ幕のすきまから差しこんでいます。


ここはもう、湯気の向こうではありません。


女主人のいる、いつもの市場です。


アリアは、空っぽの器をそっと撫でました。


「空っぽの器は、空っぽだから軽く見られます」


女主人は静かに聞いていました。


「でも、そこに食べ物を入れるためには、誰かが器を作らねばなりません」


「そうだね」


「器を運ぶ人がいます」


「いるね」


「売る人がいます」


「いるね」


「そして、あなたのように、そこへ食事を詰める人がいます」


女主人は、少し照れたように仕事着のひもを直しました。


アリアは、やわらかく言いました。


「暮らしは、中身だけでできているのではありません」


湯気が、ふわりと上がりました。


「中身を守るもの。運ぶもの。支えるもの。見えにくいもの。空っぽに見えるもの」


アリアは、女主人を見つめました。


「それらもまた、人の一日を支えているのです」


女主人は、静かにうなずきました。


「明日、店先に札を出してみるよ」


「どんな札です?」


女主人は、少し考えました。


そして言いました。


「器を返してくれた人には、小さなおかずをひとつ」


アリアは、満足そうに笑いました。


「よろしい」


「鍋を持ってきた人には、少し安く」


「とてもよろしい」


「ただし、卵のふわ焼きのつまみ食いはなし」


アリアは、目をそらしました。


「……それは別のおはなしです」


「同じおはなしだよ」


女主人は、声を出して笑いました。


その笑い声は、湯気の中でやわらかく広がりました。


アリアの体が、やさしい光に包まれはじめました。


「もう帰るのかい?」


「ええ。私は忙しい女神ですから」


「迷わず帰れるのかい?」


アリアは、ぴたりと止まりました。


「……当然です」


「今、間があったよ」


「神秘的な間です」


女主人は、空っぽの器をひとつ持ち上げました。


「アリア様」


そう呼ばれると、アリアは一瞬だけ目を泳がせました。


頬が、ほんのり赤くなります。


「……なんですか」


「おはなし、ありがとね」


アリアは、口元を指で隠しました。


「そ、そうですか」


「照れてるのかい?」


「違います。信仰心が高すぎて、神体が少し反応しただけです」


「便利な体だねえ」


「女神ですから」


アリアは、すました顔でそう言いました。


けれど、耳まで少し赤くなっていました。


やさしい光が、ふわりと広がります。


「では、働く者よ」


アリアは言いました。


「空っぽの器を、ただの空っぽと思わないことです」


女主人は、静かにうなずきました。


「覚えておくよ」


「よろしい」


そして、アリアは消える直前、

小さな声で言いました。


「……卵のふわ焼き、ひと切れだけなら」


「だめ」


「まだ何も言っていません」


「言ったよ」


「細かいですね」


「厨房は細かくないと回らないんだよ」


光が、ふわりと消えました。


小さな食堂には、また昼の音が戻ってきました。


釜の音。


鍋の音。


店先を歩く人の声。


女主人は、しばらく空っぽの器を見ていました。


そして、棚の奥から、小さな板を取り出しました。


炭筆を手に取ります。


さらさら。


さらさら。


板に、文字を書きました。


器を返してくれた人には、

小さなおかずをひとつ。


鍋を持ってきた人には、

少しだけ安く。


女主人は、その札を店先に置きました。


風が、布の垂れ幕をゆらします。


ふわり。


ふわり。


空っぽの器が、棚の上で静かに並んでいました。


それは、ただの空っぽではありませんでした。


誰かの昼ごはんを待つ、

小さな約束のようでした。


おはなしは、おしまいです。

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