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第1夜 女神様と、まどろみの花を隠した若き獅子

一、よるのはじまり


よるでした。


町は、しずかに眠っていました。


家々の屋根には、

月の光がうすく積もっています。


遠くの水路では、

ちいさく水が流れていました。


さらさら。


さらさら。


風が、木の葉をなでていきます。


けれど、ひとりだけ、まだ眠れない者がいました。


町はずれに住む、大工の男です。


木を削り、柱を立て、家を作る男でした。


その部屋には、削りかけの木材が置かれていました。


壁には、のこぎり。


床には、工具箱。


部屋のすみには、昨日使ったかんなの匂いが、

まだ少しだけ残っています。


大工の手は、ごつごつしていました。


小さな傷がいくつもありました。


けれど、それは家を作ってきた手でした。


誰かの暮らしを、支えてきた手でした。


大工は布団の中で、ぽつりと言いました。


「……明日も、仕事か」


そのときです。


枕元に、ぽうっとやさしい光がともりました。


ろうそくの火ではありません。


月の光でもありません。


あたたかくて、やわらかい光です。


光の中から、女神様があらわれました。


桃色がかった金色の髪。


夕焼けみたいな瞳。


えらそうで、きれいで、

でも少しだけドジな女神様です。


女神様は、すっと胸を張りました。


「夜の子よ。今宵、私のおはなしを聞けること、ありがたく思いなさい」


大工は、目をぱちぱちさせました。


「……だれだ?」


女神様は、むっとしました。


「だれ、ではありません。女神です」


「女神様が、なんでうちの枕元に?」


「おはなしをしに来たのです」


「頼んでないが」


女神様は、少しだけ頬をふくらませました。


「頼まれなくても来ます。私は女神ですから」


そう言って、一歩前に出ました。


こつん。


足が、工具箱にひっかかりました。


「きゃっ」


女神様は、あわてて姿勢を直します。


大工は、じっと見ました。


「……工具箱、見えなかったのか?」


女神様は、顔を赤くしました。


「見えていました。あえて触れたのです。大工の仕事道具に敬意を払うために」


「踏むのが敬意なのか」


「細かい夜の子ですね」


女神様は、こほんと咳払いをしました。


「今夜のおはなしは、私がこの目で見てきたものです」


大工は、まだ半分だけ信じていない顔で、

布団の上に座り直しました。


「……見てきた?」


「ええ」


女神様は、少し得意げに笑いました。


「噂を聞いたら、現場に行く。それが女神というものです」



二、記憶の窓


女神様は、白い指先で空をすっとなぞりました。


すると、大工の部屋の壁に、

月明かりのような景色が浮かびました。


はじめは、ぼんやり。


やがて、はっきり。


夜の都。


高い屋根。


細い路地。


遠くに見える、大きな宿。


まるで壁に、別の夜へつながる窓が開いたようでした。


大工は、思わず身を乗り出しました。


「……なんだ、これは」


「私の記憶です」


女神様は、胸を張りました。


「ありがたく見なさい」


「便利だな」


「当然です。女神ですから」


女神様は、少しだけ声を静かにしました。


「ここからは、私が見てきた夜のおはなしです」


壁に映る月明かりが、ゆっくり広がっていきます。


大工の部屋はそのままなのに、

空気だけが少し冷たくなりました。


遠くから、都の鐘の音が聞こえた気がしました。


からん。


からん。


女神様は言いました。


「都の北に、若き獅子たちの宿がありました」



三、若き獅子たちの宿


都の北に、大きな宿がありました。


高い塀に囲まれた、立派な宿です。


門には、国の紋章。


庭には、朝露に濡れた草。


その奥に、広い練習場がありました。


そこには、若き獅子たちが集まっていました。


彼らは、国を代表する選手たちです。


白い球を打ち上げます。


高く跳びます。


仲間へつなぎます。


ぽん。


ぽん。


ぽん。


球は、朝の光の中を飛びました。


床を蹴る音。


息を吸う音。


仲間を呼ぶ声。


そのすべてが、練習場に響いていました。


人々は言いました。


「すごいぞ」


「強いぞ」


「あの若き獅子たちなら、きっと勝てる」


壁に映る若者たちは、まぶしく見えました。


汗は光り、

白い球は空を切り、

誰もが前だけを見ているようでした。


大工は、壁に映る景色を見ながら言いました。


「若き獅子か。強そうだな」


女神様は、静かに首を振りました。


「強そうに見えることと、強いことは、少し違います」


「どういうことだ?」


「最後まで聞きなさい。せっかちな信者ですね」


「信者になった覚えはない」


「今なりました」


「勝手だな」


「女神ですから」


女神様は、つんと澄ました顔をしました。


けれど、その声は少しだけやさしくなりました。


「強い人の心が、いつも強いとはかぎらないのです」



四、まどろみの花のうわさ


ある日、女神様は噂を聞きました。


若き獅子のひとりが、

まどろみの花を持っているらしい。


まどろみの花。


それは、夜だけに香る花でした。


昼の光の下では、ただの小さな花に見えます。


けれど夜になると、

花びらの奥から、甘い香りをこぼすのです。


ふわり。


ゆらり。


眠りに似た香り。


やさしいようで、危うい香り。


その花は、心を治す花ではありません。


つらい気持ちを、少しだけ見えなくする。


苦しい夜を、少しだけぼんやりさせる。


そんな、禁じられた花でした。


大工は眉をひそめました。


「そんな花があるのか」


「あります。だから、困るのです」


女神様も眉をひそめました。


「これは、確かめなくてはなりません」


大工は言いました。


「それで、行ったのか」


「もちろんです」


女神様は、当然のように言いました。


「噂だけで語るなど、三流の占い師のすること。私は女神ですから、現場に行きます」


壁の中で、記憶の女神様が夜の都へ飛びました。


屋根から屋根へ。


月の下を、すいっと。


……行くはずでした。


でも、飛び出した瞬間。


ごん。


屋根の出っ張りに足をぶつけました。


「いたっ」


大工が、ぼそりと言いました。


「飛ぶの、下手なのか?」


女神様は、顔を赤くしました。


「今のは、出発の儀式です」


「痛そうな儀式だな」


「うるさい夜の子ですね」



五、夜の都の裏通り


夜の都は、にぎやかでした。


表通りには、あかりが並んでいます。


灯りが、きらきら。


鐘が、からんからん。


人の声が、ざわざわ。


屋台からは、白い湯気がのぼっていました。


焼いた木の実の匂い。


甘い蜜の匂い。


濡れた石畳に、灯りがにじんでいます。


けれど、表通りを一本はずれると、

空気はふっと変わりました。


灯りは細くなり、

壁の影は長くのび、

風の音だけが、ひゅう、と通りすぎます。


その裏通りに、若き獅子が立っていました。


背は高く、体は鍛えられ、

誰よりも高く跳べそうな人でした。


けれど、肩は少し落ちていました。


顔は、夜の影に沈んでいました。


黒い外套の男が、小さな包みを差し出します。


「眠れるさ」


若き獅子は、包みを見つめました。


「……少しだけなら」


女神様は、柱のかげから見ていました。


ふわり。


甘い香りがしました。


まるで、眠りの入口に咲く花のような香りでした。


女神様は、小さくつぶやきます。


「まどろみの花……」


大工は、息をのみました。


「そこで止めなかったのか?」


女神様は、少しだけ目を伏せました。


「止めたかったです」


「なら」


「けれど、これは私が見たおはなしです」


女神様の声が、静かになりました。


「人の選んだ一歩を、なかったことにはできません」


若き獅子は、包みを胸にしまいました。


そして、ひとりで宿へ帰っていきました。


月の光が、彼の背中を細く照らしていました。


その背中は大きいのに、

どこか、とても小さく見えました。


女神様は、そっと後を追いました。



六、だれも気づけなかった夜


宿に戻ると、灯りはまだ少し残っていました。


廊下には、練習着の匂い。


湯気の消えた食堂。


壁にかかった国の旗。


遠くの部屋からは、仲間たちの笑い声が聞こえます。


若き獅子が戻ると、仲間たちが声をかけました。


「遅かったな」


「明日も早いぞ」


若き獅子は笑いました。


「わかってる」


でも、その笑顔は、少しだけ薄い笑顔でした。


まるで、紙に描いた笑顔のようでした。


女神様は、柱のかげで思いました。


誰か、気づいてあげて。


けれど、その夜は静かに過ぎていきました。


窓の外では、月がゆっくり雲に隠れました。


廊下の灯りが、ひとつ消えます。


また、ひとつ消えます。


誰も、若き獅子の胸の中までは見えませんでした。


そこで、壁に映る景色が少しだけ薄くなりました。


大工の部屋に、木の匂いが戻ってきます。


大工は、布団の上で腕を組みました。


「……薄い笑顔か」


「ええ」


「職人にもいる。平気な顔をして、手が震えてるやつが」


女神様は、大工を見ました。


「気づくのですか?」


「毎日、同じ現場にいるとな」


大工は、少しだけ目を伏せました。


「でも、気づいても、声をかけるのは難しい」


女神様は、静かにうなずきました。


「だから、人は時々、間に合わないのです」


そして女神様は、もう一度、記憶の窓へ視線を向けました。


「夜が明けます」



七、あさの知らせ


次の朝。


空は、うすい青でした。


宿の屋根には、朝の光がすべっています。


練習場の床には、まだ誰の足跡もありません。


その静けさの中で、宿の門に見回り人たちがやってきました。


黒い衣。


固い足音。


門の前に立つ影。


とん。


とん。


とん。


門を叩く音がしました。


扉が開きました。


若き獅子が、外へ連れていかれます。


仲間たちは、言葉をなくしました。


「うそだろ……」


「どうして」


「あいつが……?」


若き獅子は、何も言いません。


ただ、うつむいていました。


朝の光が、彼の横顔に当たっています。


けれど、その顔は明るく見えませんでした。


まだ、すべてが決まったわけではありません。


けれど、疑われることは、

それだけで、とても重いことでした。


女神様は、門のそばで静かに見ていました。


怒ることもできました。


責めることもできました。


でも、女神様は、ただ悲しそうに目を伏せました。


「強い人ほど、助けてと言えないのですね」


大工は、ぽつりと言いました。


「弱いと言ったら、崩れると思うんだろうな」


女神様は、静かに答えました。


「本当は、言えないままの方が、ずっと崩れやすいのに」



八、しずかな練習場


練習場は、しんとしていました。


高い窓から、朝の光が斜めに差しこんでいます。


白い球が、床にころがっていました。


昨日まで響いていた声も。


床を蹴る足音も。


仲間を呼ぶ声も。


今は、どこにもありません。


誰も拾いません。


誰も声を出しません。


風が窓をゆらしました。


かたり。


小さな音が、広い練習場に響きました。


そのとき、いちばん若い獅子が、球を拾いました。


「……練習、しませんか」


仲間が言いました。


「こんな時に?」


若い獅子は、球をぎゅっと持ちました。


「こんな時だからです」


みんなが、若い獅子を見ました。


若い獅子は言いました。


「もし、あいつが苦しかったなら」


少しだけ、声がふるえました。


「もし、誰にも言えなかったなら」


若い獅子は、顔を上げました。


「次は、見逃したくないんです」


しばらく、誰も何も言いませんでした。


朝の光の中で、白い球だけが静かに光っていました。


やがて、ひとりが前に出ました。


「……一本だけだ」


もうひとりが言いました。


「いや、最後までやる」


大工は、小さくうなずきました。


「いい仲間だ」


女神様は、少しだけ得意げに言いました。


「私が見届けた者たちですから」


「女神様が育てたわけじゃないだろ」


「細かいことを言いますね」



九、もういちど、つなぐ


白い球が、空へ上がりました。


ぽん。


ひとりが受けます。


ぽん。


また、つなぎます。


ぽん。


音は小さく始まりました。


けれど、少しずつ強くなっていきます。


足が床を蹴ります。


息が重なります。


誰かが名前を呼びます。


誰かが返事をします。


ぽん。


ぽん。


ぽん。


球は、落ちませんでした。


屋根の上で、女神様はそれを見ていました。


朝の風が、女神様の髪をふわりと揺らします。


桃色がかった金色の髪が、光を受けて淡くきらめきました。


「そうです。それでよいのです」


女神様は、やさしく笑いました。


「仲間とは、勝った時に喜ぶためだけのものではありません」


風が、ふわりと吹きました。


「落ちそうな人の袖を、無様でもつかむためにいるのです」


そう言って、記憶の中の女神様は立ち上がりました。


その瞬間。


ずるっ。


屋根で足がすべりました。


「ひゃっ」


女神様は、屋根の端にしがみつきました。


大工がじっと見ています。


女神様は、顔を赤くしました。


「……見ましたね?」


「見た」


「忘れなさい。今のは、神格的な着地確認です」


「落ちかけてたぞ」


「確認です」


そこで、壁に映っていた夜の都が、ふっと薄くなりました。


ぽん。


最後に、球の音だけが残りました。


ぽん。


そして、光は消えました。


大工の部屋に、静けさが戻ってきました。


削りかけの木材。


工具箱。


月の光。


大工の部屋は、さっきと同じでした。


けれど、大工の胸の中だけが、

少しだけ違っていました。



十、柱だけでは立たない


大工は、しばらく黙っていました。


それから、自分の手を見ました。


ごつごつした手。


木を削り、釘を打ち、柱を立ててきた手です。


大工は、ぽつりと言いました。


「家も同じだな」


女神様は、首をかしげました。


「家?」


「柱が一本だけ強くても、家は立たない」


大工は、ゆっくりと言いました。


「梁があって、土台があって、横から支える木があって、やっと立つ」


部屋の壁に立てかけられた木材を、大工は見ました。


まだ家にはなっていない木。


でも、組み合わされれば、誰かを守る屋根になります。


雨をしのぎ、風を止め、

眠る場所を作ります。


「人も、そうなのかもしれないな」


大工は続けます。


「強いやつほど、一本の柱みたいに見える。でも本当は、支えるものがなきゃ倒れる」


女神様は、少しだけ目を丸くしました。


それから、ふっと笑いました。


「夜の子。なかなか良いことを言いますね」


「大工だからな」


「ふふん。少しだけ褒めてあげましょう」


「少しだけか」


「女神の褒め言葉は、少しでもありがたいのです」


大工は、少し笑いました。


「ありがたく受け取るよ」


その言葉に、女神様は一瞬だけ目を泳がせました。


頬が、ほんのり赤くなります。


「そ、そうですか」


女神様は、口元を指で隠しました。


「信仰心が高い夜の子ですね。悪くありません」


「いまのは普通の礼だ」


「いいえ。信仰心です」


「そうなのか」


「そういうことにしておきなさい」


女神様は、少しだけうれしそうでした。



十一、女神様のことば


女神様は、静かに大工を見つめました。


「夜の子よ」


その声は、最初よりも少しやわらかくなっていました。


「まどろみの花は、心を救う花ではありません」


女神様は、指先で空に小さな花を描きました。


光の花が、ふわりと咲きます。


淡く。


白く。


夜にだけひらく、夢のような花です。


「ただ、痛みを見えにくくするだけです」


光の花は、すぐにほどけて消えました。


「本当に必要だったのは、花の香りではなく」


女神様は、少しだけ間を置きました。


「眠れない夜に、眠れないと言える場所だったのかもしれません」


大工は、静かにうなずきました。


「……明日、現場の若いのに声をかけてみる」


「若いの?」


「最近、笑い方が薄いやつがいる」


大工は、目を伏せました。


「気づいてはいた。でも、余計なことかと思ってた」


女神様は、首を横に振りました。


「余計なことではありません」


そして、少しだけ高慢に胸を張りました。


「私のおはなしを聞いたのですから、明日のあなたは少しだけ賢い夜の子です」


大工は苦笑しました。


「少しだけか」


「ええ。人は急に賢くなりません。柱も一日では立ちません」


「それは、まあ、そうだな」


女神様は、得意げにうなずきました。


「だから、明日は一言でよいのです」


「なんて言えばいい?」


女神様は、少し考えました。


部屋の外では、風がまた木の葉を鳴らしました。


さらさら。


さらさら。


そして、女神様はやわらかく言いました。


「眠れているか、と」


大工は、ゆっくりとうなずきました。


「……それなら、言える」



十二、おやすみなさい


女神様は、小さく手を振りました。


「では、今宵のおはなしはここまで」


やさしい光が、ゆっくり薄れていきます。


「明日、あなたのそばに、少しだけ笑い方の薄い人がいたなら」


女神様は、やわらかく微笑みました。


「勝ち負けより先に、その人を見てあげなさい」


大工は、静かにうなずきました。


「覚えておく」


女神様は、満足そうにうなずきました。


そして、消える直前に、小さな声で言いました。


「……ちなみに帰り道で迷って、都を半周しました」


大工は目を細めました。


「女神様でも迷うのか」


女神様は、ぷいっと顔をそむけます。


「現場に行く女神は、帰り道にも強くなるのです」


「それは迷子とは違うのか?」


「違います。成長です」


「そうか」


「そうです」


やさしい光が、ふわりと消えました。


部屋は、また暗くなりました。


月の光だけが、床に細く伸びています。


工具箱の角が、淡く光っていました。


削りかけの木材が、静かに眠っています。


大工は、すぐには眠りませんでした。


自分のごつごつした手を見つめます。


柱だけでは、家は立たない。


梁があり、土台があり、

横から支える木があって、家は立つ。


大工は、小さく息を吐きました。


「……眠れているか、か」


夜は、しずかでした。


さらさら。


さらさら。


遠くで、水路の音がします。


けれど、その夜は少しだけ、

誰かを支える音がした気がしました。


おはなしは、おしまいです。

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