世界で一番近い他人
新しい制服の襟元が、どうにも首に馴染まない。
県立高校の入学式。
校門の桜はまるで計算された舞台装置のように絶好のタイミングで散り始めている。
その乱舞する花びらの中、ひときわ目立つ女性がいた。
掲示板に張り出されたクラス名簿を眺める彼女の背中には、周囲の喧騒を遮断するかのような独特の透明感を感じた。
肩ぐらいまであるつややかな黒髪が風に揺れている様は隣に並ぶ誰よりも凛としていて、美しかった。
俺は思った。ああ、こういう人が「ヒロイン」なんだなって。
〇
入学式が終わって初めてのHR。
どんな事でも初めが肝心。正直、ここで間違えなければ大丈夫だ。
教壇に一人の女性教師が立ち、自己紹介をしている。
「春沢美波です!一年間よろしくね〜」
俺を含むクラスメイト一同から歓迎の拍手が送られた。
...春の季節に春沢。いいじゃん。
そんなしょうもない事を考えていると、先生は、次に俺が恐れをなしていることについて説明していた。
「はい、では今から自己紹介を行います!私が適当に指名するので、前の黒板に書いてあることを右から順に言ってくださ〜い」
自己紹介はいつになっても緊張する。
まだ初めの時期だからこそ、クラス全体の視線を浴びるからだ。
「えー、では私の名前が春なので...冬咲くん!ちょっと立ってくれるかな」
―――――なんでだよ。
「冬咲く〜ん?どこかな?」
「...はい」
みすぼらしく手を挙げて、椅子を後ろにひきずる。
立ち上がろうとして、俺は初めて致命的なミスに気づいた。
視界が、異様にぼやけている。
(……しまった。コンタクト、昨日バタバタして使い切ったままだった)
昨晩のことが脳裏をよぎる。
正直、高校初日を舐め腐っていた俺は、直前の夜になって明日までにやらなければならないことが不特定多数あることに気づいた。
制服のタグ切りすらやっていなかったので、とうとう母にも助けを乞い、何とか準備を終わらせた俺だったんだけど、
その後母が
「こんなことやってる暇じゃないんだけど!」
と訳の分からないキレ方をしていたので、借りを作るのが嫌な俺は、よく何をするかも分からないまま部屋の整理もして、そのまま疲れて寝てしまったという訳。
何だか本の主人公の自語りみたいになってしまったが、自分自身のコンタクトなんか気にする余裕はさらさらなかったということ。
どうしよう、教壇までの距離は、わずか5メートル強。けれど、裸眼視力0.1以下の俺にとって、それは冗談なしで深い霧の中と同じだった。
もし仮に足元に配線があったとしても、クラスメイトの椅子の脚さえ判別がつかない。
立ち上がったまま硬直する俺に、クラスは少しざわつき始める。
「ねえ、何してるの?あの人」
「冬咲くん、大丈夫?」
「……すみません、少し気分が」
咄嗟に嘘をつこうとした、その時だった。
「――これ、使います?」
澄んだ、鈴の音のような声がした。
目の前の席に座っていた女子生徒が、こちらを振り返っていた。
彼女は自分の鞄から、黒縁の細い丸眼鏡を取り出す。そして、周囲に悟られないような鮮やかな手つきで、俺の机の上にそれを置いた。
「ブルーライトカット用だから、度はそんなに強くないけど……。裸眼よりは、ずっとマシだと思うよ」
彼女が微かに微笑む。その瞬間、周囲の喧騒が遠のいた気がした。
俺はおそるおそるその眼鏡を手に取り、耳にかける。
世界が、一気に輪郭を取り戻した。
レンズ越しに見る彼女の瞳は、朝、校門で見かけたヒロインが像になったものよりも更に深くて、射抜くような光を宿していた。
「あ……ありがとう」
絞り出すようにそう言うと、彼女は「みんな、待ってるよ」と、いたずらっぽく視線で教壇を指した。
気付けば、自己紹介をする緊張よりもヒロインのなんてことない優しさに俺は心を埋め尽くされていた。
全員の自己紹介が終わり、休み時間にはいった後。
俺は借りた眼鏡を返しに、彼女の席へと歩み寄った。
「えっと、これ。さっきは本当に助かった。ありがとう」
「ううん、気にしないで。……それより、冬咲君だっけ。名門の九条中出身なんだ。凄いね」
「……よく覚えてたね」
「だって、私たち、これから長い付き合いになるかもしれないし」
「でも、それをいえば確か君もエスカレーター式を蹴ってるんだよね?」
「え、なんで覚えてるの?」
「あ、ごめん...」
「嘘だって!そんなすぐ真に受けないでよ〜」
「あ、うん」
俺は全く彼女のペースについていけず、改めて距離を感じた。
彼女は眼鏡を受け取ると、それを大切そうにケースに仕舞った。
学校一の有名人と、他県から来た訳ありの転校生。
誰もが、この一幕を「高嶺の花が親切をしてくれた」というだけの、よくある光景だと思っていた。俺自身も、そう自分に言い聞かせていた。
けれど、放課後。
慣れたマンションのドアを開けた俺を待っていたのは、有り得なくて、信じられない。
でも決定的な現実だった。
「……遅かったね、冬咲くん」
「....え?」
リビングのソファ。
そこには、制服のままで、さっき返したはずの黒縁眼鏡をかけ、不敵な笑みを浮かべる彼女がいた。
「ここ、俺の家なんだけど、なんでいるの?」
「あれ?聞いてないんだ。まあいいや、お父さんたち、まだ帰ってこないみたいだし、二人で先に、挨拶済ませちゃおうか」
彼女はソファから立ち上がり、ゆっくりと俺に歩み寄る。
窓から差し込む夕闇が、彼女の影を俺の足元まで伸ばした。
学校での「ヒロイン」の仮面を脱ぎ捨て、どこか勝ち誇ったような、けれど年相応に幼い表情で、彼女は言った。
「今日からよろしく、兄さん」
世界で一番遠いと思ってたその人は、俺の世界で一番近い他人だった。




