ミルネシア諸島
アルンカス王国よりもはるか南の位置にいくつもの島によって構成される諸島がある。
ミルネシア諸島と呼ばれるその島々は、二千人程度の人々が生活しており、そして人々が生活しているという事は利益を生み出すという事になるため、一部を除き六強いずれかの植民地となっているということになる。
そして、ミルネシア諸島は教国の属国(教国では、植民地という言い方はせず、属国と表現される)となっており、そこに住むほとんどの住人はドクトルト教信者であった。
別に土着信仰がなかったわけでも、ドクトルト教が地道に普及させていった結果というわけではない。
もちろん、この地にも独特の土着信仰があったのだが、三十年の間に行われた強制的な勧誘によってほとんどの住民が改宗させられてしまったと言うのが真相である。
もちろん、裏で土着信仰を信仰するものも絶えなかったが、それでも三十年と言う年月は人々の心を折るのには十分すぎる年月でもあった。
世代が変わり、古き魂の信仰は失われ、ドクトルト教の忠実な下僕がその地域を動かすようになっていったのである。
しかし、それほどの事をしておきながら、教国にとってこの地はどうでもいい地であった。
その最大の理由は、あまりにも遠すぎるという事だ。
そして、教国に富をもたらすものが少なすぎるという点もある。
だからこそ、本国はその地に月に一回程度の連絡船のみの繋がりしか用意していなかった。
だが、それは裏を返せば、その地は教国の属国の中でもっとも本国の目が行き届かない場所という事でもある。
そして六月十五日。
一人の人物が、月一回の連絡船からこの地に降り立った。
「老師、ようこそいらっしゃいました」
そう声をかけられたのは、一人の老人だ。
真っ白になった髪と胸元まである顎鬚、そして顔に浮かぶ博愛に満ちた優しげな表情により、もし聖人がいるとしたらこんな人物に違いないと思わせるのに十分な姿をしている。
だが、よく見れば気が付くかもしれない。
その目にはどろどろとした欲望の炎が見えている事が…。
老人は、少し厳しい目で声の方に視線を向けるが、すぐに微笑を浮かべた。
「ほほう、お主か…。実に久しいのう…」
そう言うと、声の方に歩いていく。
「本当にお久しぶりでございます」
そう返事をした男性は深々と頭を下げた。
年の頃は四十前後というところだろう。
黒く日に焼けた肌の黒髪のちょび髭をした少し太めの体型をしており、それを隠す為だろうか、少しだぶだぶとした感じの現地の民族衣装のような独特のデザインの服を着ている。
「では…こちらへ」
男性はそう言うと黒塗りの高級車の方へと案内する。
周りにも何台か車やトラックがあるのだが、すべてが古びた感じの薄汚れたものばかりであまりにもその黒塗りの高級車は異質であり、場違いなものであった。
だが、老人はまるでそれが当たり前のように車に近づき男性がドアを開けると車内にすべるように乗り込んだ。
すぐに男性も乗り込んでドアを閉めると運転手に短く「出せ」とだけ命じる。
黒塗りの高級車は、ゆっくりと走り出す。
街の方角ではなく、街はずれの方に向って…。
「報告書は見たぞ。残念じゃったな…」
外の景色の移り変わりを楽しむかのように視線を外に向けたまま老人は短くそれだけを言う。
「はっ。申し訳ございません。あれだけと資金と物資を用意していただきながら…」
男性が深々と頭を下げる。
それを気にした様子もなく、老人は淡々と言葉を告げる。
「何を言うか…。一番悔しいのはおぬしだろうて…。やっと原本を手に入れ、準備も整ったというのに…」
「確かに、失敗したのは悔しくは思います。ですが、これだけ用意してくださった老師に報いれない事の方が何倍も悔しいのです」
心底悔しそうに言う男性の言葉に、車に乗って初めて老人は男性の方に視線を向けた。
「それで、失敗した原因はなんだと思うのかね?」
「実際に魔法陣は現れましたし、用意した人々の魔力も全て吸われております。それなのに構成変化は現れませんでした。恐らくですが、魔道書に記載されていない細かな点があるのではないかと思っております」
「細かな点じゃと?」
「はい。構成変化するための魔術師独自の秘匿されている技法や法則の中核部分があえて記載されていないと思われます」
その言葉に、老人が眉がピクリと反応する。
「それは…おぬしの勘かね?」
「はい。私の…元帝国魔術師ギルド所属の魔術師の勘でございます」
「ふむ…。その技法や法則の中核部分、何とかなりそうかな?」
しばしの沈黙の後、男性が縛りだすかのように声をあげる。
「……残念ながら…私では…」
「そうか。さすがは狂っておっても魔術師ギルドの長と言う事か…」
侮蔑のような言葉だが老人の声には感心したような響きさえある。
老人にとって、それがどんな人物だったとしても、長い年月と経験を積み重ねて結果を出したという事実は変わらないし、尊敬すべきだと考えているのだろう。
「老師にそのように言っていただけるとは、死んだ師匠もあの世で喜んでいることでしょう。ただ、残念なのは、師匠が生み出したものがそのままに後世に残せないというのが…」
男性の言葉に老人が反応する。
「そのままに残せない?」
「はい。実験の結果、そのままでは私では再現不可能でしょう。ですから、方法を変えてみょうかと思います」
老人がニタリと笑う。
それは続きを話せということだと判断した男性は言葉を続けた。
「帝国魔術師ギルドが生み出したのは、召喚魔術の一種であります。別次元の物体の構造を召喚し、こちらの物資や材料で再現するという…。あえて分類するなら複製召喚といったところでしょうか。この召喚術の利点は、少ない魔力でいきなり完成度の高いものを召喚できるという事でありますが、その反面、物資や材料が必要となりますし、その召喚する物体の固有名称というか、その物体に刻まれた本質を理解したうえに構造を解明しなければなりません。それには途方もない人の手と時間が必要となるでしょう。ですが、この魔道書の原本には、最後の要である構成の部分が足りません。つまり…足りない部分は、構成する部分のみなのです」
「ふむ…。それで?」
「ですから、魔法陣にて時空を開き、召喚は出来るのです。ならばそのまま召喚すればいいのではないでしょうか?」
「それは可能かね?」
老人の言葉に、男性は強く頷いた。
「出来ます。ただし…」
「ただし?」
「召喚の部分はそのまま使えると思いますが、それ以外の部分の術式の構築を行う必要があります。それと難点もあります」
「難点とな?」
「はい。難点としては、それに乗り込んでいる人もまた一緒に召喚されてしまう為、それゆえに我々の味方となってくれるかは未知数と言う事です。また、どれほどの魔力が必要かといった事もまだわかりません」
「なるほどのう…。で、準備の方はどうなっておる?」
「術式の構築はほぼ完成しております」
「そうか。そうか。ならば、近々やってみようではないか」
老人の言葉に、男性は驚きの表情になる。
「しかし…魔力がどれだけ必要かもわからないのですよ。用意した分だけで足りるかどうか…」
しかし、老人は当たり前のような表情で口を開いた。
「なに、魔力を吸い取る範囲を広げればよいではないか」
その言葉に、男性は慌てて口を開く。
「ですが…」
「国の一つや二つなくなろうと、本国は痛くも痒くもないわ。それにの…」
ずいっと老人が顔を男性に近づけて囁くように言う。
「これはあくまで実験じゃ。何事にも犠牲は必要となるものじゃ。それにの…」
そこで言葉を止めて聖人のような微笑みを浮かべて言う。
「試練は打ち勝ってこそ、神は祝福してくださる。だからこそ、その犠牲がどれだけあろうとも打ち勝たねばならぬのよ」
その言葉と老人の雰囲気に、男性は息を飲み、思考が止まったかのように固まっていたが、我に返ったのだろう、慌てて頭を垂れる。
「わかりました。では、老師の助言に甘えさせていただきます。師匠のような才能にあふれておらぬ非才の身なれど、出来る限りの手を尽くして実験に成功したいと思います」
「ふむ。楽しみにしておるぞ」
老人はそう言うと満足そうに車に座席に身体を預けた。
そして、ちらりと進行方向を見る。
すでに、街中を抜けて回りは森のようになっているが、道路の先の森の切れ目から灰色の物が見える。
どうやらコンクリートで作られた壁のようだ。
そしてその先に、老人の目的地がある。
『ミルネシア魔道研究施設』
そこは、世界中の魔術に関するものが、合法、非合法関係なく貪欲に集められている。
老人が教国を牛耳っていた時に、秘密理に作らせた施設のひとつであり、教国から追放された今でも彼の支配下にある施設の一つだ。
老人は、その壁を見つつニタリと笑って呟く。
「異界のものは、異界のものによって滅ぼされるのが相応しい」と…。




