争いの火種
帝国海軍とフソウ連合が密約を結んだ五月三日、帝国では混乱の第二幕が開こうとしていた。
宰相グリゴリー・エフィモヴィチ・ラチスールプ公爵が倒れたのである。
原因は疲労と言われていたがそれだけではない。
自らの野望の為に擁立した皇帝の死、そして、後になって知らされた魔術師ギルドの崩壊、それらが老人の野望を完膚までに粉砕し、今までなんとか支えていた心が折れたのだ。
そして、溜まり溜まっていた疲労が一気に老人の少ない体力を駆逐してしまった。
さらにドクターストップがかかってしまい、宰相の地位を去ることとなってしまったのである。
その結果、なんとか帝国の政治を支えていた宰相派と呼ばれる勢力は一気に力を失い、帝国の政治、軍事を親衛隊が牛耳る流れが完成しつつあった。
「上手くいきましたな…」
副官が下卑た笑いを浮かべてエリク長官に囁くように言う。
「ああ。今のところは幾つかの予想外を除き、概ね計画通りだ」
「予想外というのは、魔女と宰相の件ですな」
「そうよ。宰相はせっかく追い詰めた上で責任を取らせて失意のどん底に叩き落してやろうと思っていたが、まさか、その前に倒れるとはな。おかげで追求しにくくてかなわんよ」
苦虫を潰したような顔をしてエリク長官はそう言うものの、目が笑っている。
「確かに…。世間体を考えれば追求しにくいですな」
副官も実に言いにくそうに言っているが、こちらも目が笑っていた。
要は、どちらにしても好都合であり、宰相に対して皇帝暗殺の責任問題を追求していたぶる事ができなくなって少し残念といった程度といったところだろう。
だが、すぐに副官の表情が引き締まる。
「しかし、魔女の件は失敗と言っていいでしょうな。まさか、海軍の連中が取り逃がすとは…」
副官が憤慨したように言うが、それを宥めつつエリク長官は口を開く。
「ふんっ。帝国海軍と言ってもその程度の実力だという事よ。それに、魔女の件はもう気にするな。手を打ってある」
その言葉に、驚射た表情をする副官。
「なんと…、いつの間に…」
「なぁに、共和国の帝国派に魔女が向っているという情報を流しただけだ」
それでピンときたのだろう。
「なるほど…。共和国に魔女を始末させるのですね」
「そういうことだ。それに、もし始末されなくてももう戻っては来れまい。やつの祖父たる老人はもう権力を失い、ただの一貴族に過ぎん。いざとなったらいろいろ理由をつけて入国を禁止すればいいだけだ」
「なるほど…。それはいい案ですな。しかし、魔女が拒否したら…」
「それこそ、その場合は我々が魔女を始末するいい理由が出来るというものよ。災厄の魔女と言っても砲弾を打ち込まれれば死ぬ程度の事よ」
「確かに…。おっしゃられるとおりですな」
副官の言葉に、ニタリと笑った後、エリク長官は表情を引き締めなおす。
「それはそうと、発表の件はどうだ?」
「はい。準備万端でございます。明日の昼過ぎには発表できるかと…」
「そうか、そうか…」
満足そうに頷くエリク長官。
そしてニタリと笑って言葉を続けた。
「これで大義名分が出来る。十分すぎるほどのな…」
五月四日十三時…。
帝国親衛隊は、国民だけでなく全世界に対して発表を行った。
皇帝暗殺を行ったのはドクトルト教の聖印を持つ狂信者であり、その人物を裏で操っているのはドクトルト教国の支援を受けて禁止されている宗教を広めようとしている東部地区をまとめて牛耳っているアレクセイ・ユーリエヴィチ・ハントルンである。
宗教など所詮は精神的な麻薬である。
そして、それを禁止しているのにも関わらず、帝国内に広めようとしているアレクセイと教国は、帝国の敵である。
よって、教国に対しては、これ以上の内政干渉をしないように警告し、アレクセイには素直に罪を認め投降しろ。
まさに、両者に対しての宣戦布告と言ってもいい内容であった。
そして、この内容に対して、ドクトルト教国は三時間後の十七時に反論を発表する。
それは、外交官や報道官などによるものではなく、イオーアンネース総主教自らがラジオを通じて行われた。
内容としては以下の通りである。
『城塞都市クリチコの大虐殺』を行った連中が何を言う。
それに、人を殺す事は、決して褒められた事ではないが、それでももうそれしかないと追い詰めるほどに国民を苦しめ、宗教の自由の権利を奪う帝国の方に非がある。
よって、我々が行う行為は、人々の思いを解放する為の行為であり、我々はこれを内部干渉とは思っていない。
また、東部地区の人々を守る為に、我々は軍を派遣する事を決定した。
これにより、帝国国民は本当の解放を約束されるだろう…。
神の力の強さと正しさを受けるが良い。
後半はもう完全に怒りに震えた声で流されたこの五分程度の放送後、実際に事前の準備が済んでいたドクトルト教国は帝国に向けて艦隊を出航させる。
その数は、重戦艦十二隻を中心とした戦闘艦艇四十二隻と教国の誇る聖騎士団を中心とした三万の軍勢を乗せる輸送船団と支援艦からなっており、総数は実に八十以上となっていた。
だが、その報告を聞いても、親衛隊の長であり、さらに今や帝国の中央政府の権利のほとんどを掌握しているエリク長官は焦りも驚きもしなかった。
理由としては、その動きや展開も全て予想の範囲内だったからだ。
そして、彼はすぐさま首都郊外にあるある屋敷に向かい、その屋敷の主人と面会したのだった。
「で…、私に何をしろって?」
不機嫌そうに一人の金髪の美女が頬杖をついて聞き返す。
彼女の名前は、アデリナ・エルク・フセヴォロドヴィチ。
かっては帝国海軍で最高の司令官と呼ばれ、国民的人気も高かった『黄金の姫騎士』と呼ばれた人物である。
「帝国の敵である教国の艦隊を徹底的に潰して欲しいのですよ。貴方ならこの国難に立ち向かえ、そして勝利を収める事ができるでしょう。私はそう確信しております」
エリク長官が熱意を持ってそう言って説得しょうとしたものの、当のアデリナは乗り気ではないようで「ふーん」と生返事を返しただけであった。
やはり乗ってこないか…。
そう判断したエリク長官は、方針を変えることとした。
「ふむ…。名誉では貴方は動かせないようだ」
その言葉に、カチンときたのだろう。
アデリナは立ち上がると蔑むような目でエリク長官を見下ろす。
「私を誰だと思ってますの?小汚い金なんかで動くと思われているのなら、なおさら気分が悪いですわ。さっさと出て行きなさい!!」
最初こそ淡々とした喋りだったが、テンションがあがっていったのだろう。
最後は、半ば叫んでいるかのような声だった。
それでもエリク長官は動かずにアデリナを見上げている。
馬鹿にされたと思ったのだろう。
強硬手段に出る為、アデリナが人を呼ぼうと口を開きかけた時だった。
「金なんかで貴方を動かせると私が考えていると思われていたのなら、貴方は私を見損なっていますよ」
その言葉は、静かに淡々としていたが、人を呼ぼうとするアデリナの口の動きを止めるのには十分だった。
「それはどういう意味です?」
そう聞き返すアデリナに、エリク長官は無表情で言う。
「我々と手を組んでいただけたのなら、皇帝の地位を貴方に用意しましょう」
「ふん…。その程度なの?」
心底呆れたといった感じの表情をするアデリナ。
彼女にとって帝位は必要な物でも欲しいものでもない。
だが、エリク長官の言葉は続いた。
「ええ。その程度です。帝位に着けばあなたは帝国の全てを手に入れられるのですよ」
『すべて』というところに意味深なニュアンスをつけてエリク長官は話す。
「すべて?」
「ええ。全てです。貴方が本当に望むもの…。全てです。そして…」
エリク長官は実に楽しそうにニタリと笑う。
「貴方から大切なもの…。ビスマルクを初めとする艦艇たち…。それを貴方から取り上げて奪った連中に復讐できますよ…」
「奪った連中…」
「そう…。今、帝国海軍を牛耳っている連中です。そして、あなたを裏切ったあの女も…」
「ノンナ…」
呟く様に言うアデリナの表情が憎悪に染められていく。
アデリナにとって、ノンナは最も信頼できる友人であり、部下のはずだった。
しかし、ノンナはアデリナを見捨てて、今はビルスキーア少将の副官だという…。
ゆらり…。
アデリナの身体が揺れたように見えた。
「そう…貴方の元副官にも…復讐できるチャンスです」
その言葉に、アデリナは黙り込む。
アデリナは動かない。
しかし、それでエリク長官はアデリナが堕ちた事を確信した。
エリク長官は満足そうな笑みを浮かべて立ち上がる。
「明日の昼までに返事をいただきたい。それまでに返事がないときは、断られたと判断いたします」
そう言いつつも、エリク長官は心の中で笑っていた。
絶対にそれはありえないと…。
そして、エリク長官は、アデリナの屋敷を後にする。
後は、待っていればいいと思いながら。
そして、翌日の朝、親衛隊本部に電話があった。
かけてきたのはアデリナであり、受話器の向こうのアデリナの表情は想像するしかなかったが、間違いなくこう言っていた。
「引き受けるわ」と…。




