暗殺…そして
その日は、普通ならいろんな厄介ごとやトラブルがあったとしてもそれはそれで普通だといえる一日になるはずであった。
しかし、その日…五月一日の十三時四十五分、世界史に残る歴史的事件が起こった。
聖シルーア・フセヴォロドヴィチ帝国皇帝カルル・レオニード・フセヴォロドヴィチの暗殺である。
それは、本当に偶々の連続が重なった出来事であった。
普段なら宮殿から出る事はほとんどない皇帝が、偶々外に視察に出られ、偶々ホテルでの食事の際護衛が手薄になり、そして、偶々皇帝に恨みを持つ東部出身のテロリストが暗殺を実施して成功したのだ。
それは無残な殺され方だった。
元々、この皇帝は女性を虐げる事に悦びを持つサドであった為、食事を取る部屋で叫び声が上がっても、護衛たちは宮殿の時と同じように女給あたりに手を出したのかという認識でしかなく、駆けつけるのが遅くなったしまったらしい。
そして、駆け込んできた護衛が見たのは、血みどろで高笑いしている一人の暗殺者と苦しそうな歪んだ表情で血の海に沈み、肉片と化した元皇帝の姿であった。
その惨劇に、護衛の何人かは固まり、あるものは嘔吐し、呆然としてしまっていた。
まさにその場に満ちる血と死の匂いと状況に、精神が麻痺したといっていいだろう。
固まってしまった護衛に気がついたのだろう。
暗殺者は、高笑いを止めるとニタリと微笑み叫ぶ。
「この愚か者に、神の裁きが下ったのだ。これは天罰である」
そして左手で独特の聖印を掲げると、右手に持っていた刃物を自らの首に突き刺した。
ひゅーっ…。
空気が抜けるような音が男の口から漏れ、血が噴出しあたりに紅い液体を吹き散らかしていく。
かなりの苦痛のはずだが、暗殺者の表情は皇帝の苦痛の表情に比べ、実に穏やかであった。
「い、いかんっ。は、早く取り押さえて治療しろ」
もちろん、皇帝ではない。
暗殺者をだ。
背後関係を調べる為には、生きていなければならない。
護衛の隊長が我に返り、そう命じたものの、時すでに遅く、暗殺者は穏やかな顔で死を迎えたのだった。
そして、運が悪い事は重なるものだ。
これが宮殿などであれば、色々な手を使い隠蔽も出来たであろう。
しかし、ここは最高級とは言え、裕福な多くの一般人が使うホテルなのだ。
それ故に、そのホテルには多くの一般人の目が、耳がある。
その為、皇帝暗殺という情報はあっという間に人々の間に広がってしまい、今更隠蔽できないと悟った関係者は、自分達の不手際を渋々ではあったが対外的に発表するしかなかった。
『帝国皇帝暗殺される』
この報は、あっという間に世界中に広がった。
それは、王国やフソウ連合と交渉していた二人、ダーリア・ユーリエヴィチ・ドロウとレナート・スヴャトスラーフ・ミッセルンにも伝えられた。
本国での大事件。
それも間違いなくこれから起こる混乱の始まりである。
決断をしなければならない。
継続か中断かを…。
そして、ここで二人の対応は大きく違った。
王国と交渉していたレナートは、本国に指示を取り付けるために一旦交渉を中断したが、フソウ連合と交渉していたダーリアは、そのまま残り交渉を続けたのである。
その豪胆さと決断力に、交渉相手であった鍋島長官は驚き、帝国にもまだ優秀な人材は残っていると感心させる事となった。
その結果というわけではないが、長引くと思われた交渉は、暗殺事件があった翌々日の五月三日に最終的に合意し、帝国海軍とフソウ連合は秘密理に休戦が結ばれる事になったのである。
もちろん、結ばれたのはそれだけではない。
軍事協力も含まれる。
そして、その代償としてフソウ連合が求めたものは、帝国領の南端であるキナリア列島の譲渡と今は封鎖されてしまっているジュンリョー港の周辺地域の期限付き借用であった。
キナリア列島は、帝国の最南端にある八つの島によって構成された縦に長い列島で、一応帝国領とはなっているが無人となっており、漁場という魅力はあるものの、それ以外の価値はないと思われている地域である。
また、ジュンリョー港は、前回のフソウ連合の『夜霧の渡り鳥作戦』によって、ほとんど機能不全となり放置されてしまっている。
ダーリアとしては、交換条件として帝国東部の一部を譲渡をしても良いと海軍から指示されていたのだが、あまりにも少なすぎる代償に狐に騙されているかのような感覚だった。
しかし、相手がそれでいいというのだ。
他にどうしろというのだろう。
腑に落ちないまま、密約は結ばれたのである。
その内容は、帝国海軍が帝国の実権を掌握した場合は、援助や協力の代償としてキナリア列島の譲渡とジュンリョー港の周辺地域の期限付き借用、また、それとは別にきちんと帝国とフソウ連合との講和交渉を行う事。
そして、その見返りに対して、物資の援助と軍事的支援を行うこととなったのである。
その中でも特に大きいのは、帝国海軍のたっての願いである艦隊の派遣だ。
もちろん、艦隊と言っても戦いに参戦するわけではない。
あくまでも支援であり、編成される艦艇も二個水雷戦隊と工作艦を中心とする支援艦艇のみだ。
だが、この支援こそ、帝国海軍が喉から手が出るほど欲しいものであった。
その理由としては、アレサンドラ軍港は再興が進んでいるとは言え、以前とは比べ物にならないほど機能は低下しているのが原因だ。
その中でも特に大きく低下してしまっているのは修理などを行う施設であり、熟練工なども多くが戦死してしまい、修理等の支援が遅々として進んでいない。
そこで、なんとか曳航できる状態になったビスマルクとグナイゼナウの後の修理をフソウ連合に頼み込んだのである。
場所としては、皮肉な事にヒュドラ作戦の時に、艦隊が集結したカルトックス島湾が候補地となった。
しかし、なぜここまで帝国海軍が無理を押し通したのかというのは、フソウ連合からもたらされた親衛隊が手にした新戦力の予想スペックを見たことによるものだ。
当初は、戦力を借りるという方向で進められた話し合いだったが、フソウ連合側は直接的な手出しを拒否した為、結局は修理などの支援を行うという事で落ち着いたのである。
「本当にいいのですね?」
ダーリアがもう何度目になるかわからないが確認の為に聞き返す。
秘密理に結ばれている以上、ひっくり返そうと思えばひっくり返せる立場にフソウ連合側はあるのだが、それをされてはたまらない。
だからこそ、何度も聞くのだ。
そんなダーリアに鍋島長官はにこやかに笑いかける。
「ええ。大丈夫ですよ」
もっとも、その笑顔だからこそダーリアは心配しているのだが、まさかそれをここで言うわけにはいかない。
さすがに見かねたのだろう。
ため息をつくと新見中将が「失礼だとは思うが…」と先に言った後、横から口を挟む。
「心配なさらないでください。我々フソウ連合は、一度結んだ条約は遂行します。もちろん、それが秘密裏であってもです」
だが、一応、釘を刺すつもりなのだろう。
「もっとも、あなた方が約束を破らない限りは…ですがね」
そう一言をつけるのを忘れなかった。
それを聞いて、ダーリアはほっとした。
やっと交渉したという確信が持てたのだ。
ダーリアの印象としては、鍋島長官は、実に交渉しにくい相手であった。
自分が不利だと言う条件なのに、ニコニコと笑って交渉を進めるのである。
今まで、いろんな相手と交渉してきたが、こういったタイプは初めてだった。
あえて言うなら、詐欺師といった印象であり、掴みどころがないとは、まさにこの事かと実感させられた。
かえって新見中将みたいなタイプの方がやりやすい。
だからこそ、新見中将の言葉に決心したのだ。
「わかりました。よろしくお願いします」
そう言うとダーリアは、自国用とフソウ連合用の条約書にサインを入れる。
鍋島長官も同じようにサインを入れて、内容を再度確認し、交換した。
二人は立ち上がると握手をする。
ダーリアの顔がどった疲れたものになった。
肩の荷が下りたという感じだ。
その様子を見ながら鍋島長官が微笑んで言う
「よろしければ三日ほど待っていただければ、我々の艦隊と一緒に帰国できると思いますよ。こちらとしても他国領海ですから道案内が欲しいところですし…」
その言葉に、ダーリアは渋い顔をする。
親衛隊が新造艦を手にした情報を帝国海軍よりも早く事細かに知っているのだ。
指定された場所がわからないはずがない。
なのにわざわざこういう言い方をしてくるのは嫌味かと思ったのである。
しかし、鍋島長官としては、この前まで敵国であった場所に艦隊を差し向けるのだ。
保険は欲しいという心境と、疲れ気味の彼女に、少しぐらいは休んだ方がいいという気遣いのつもりであった。
しかし、そうは取ってくれなかった様で、渋々といった感じで合意する。
その様子に、苦笑しつつ簡単な説明を始めた。
「出航は五月六日の予定で、その間は、こちらのナワオキ島内では自由に行動することができますが、それ以外は移動は禁止されております。ご注意ください」
「わかりました」
「それと、ただぼーっとされるのもなんですから、映画とか料理とか楽しまれるといいと思いますよ」
そう言われ、ダーリアは怪訝そうな顔をする。
「映画…ですか?」
「ええ。ナワオキ島には外国人向けの映画館もありますからね。確か、そろそろ映画の切り替え時期ですから、うまくすると四本の映画を見る事ができますよ」
そう言うと鍋島長官は懐から封筒を出した。
厚みはそれほどでもないが、しっかりとした紙で作られている。
「こちらに映画のチケットとお勧めの料理店の食事券が何枚かですが入っています。せっかくですから、本国に帰ってからからの話のネタにでも使ってください」
「あ、ありがとうございます」
封筒を受け取ると、鍋島長官は微笑んで退室していった。
その後姿を見つつ、ダーリアはより思う。
やっぱり苦手だわ、あのタイプは…と。
しかし、鍋島長官はダーリアがそんな風に思っているとはまったく気が付いた様子はなかったのである。




