魔女と老人
コンコン。
控えめなノックの音が響く。
書類の山に埋もれるかのように書類整理をしていた宰相グリゴリー・エフィモヴィチ・ラチスールプ公爵はため息を吐き出すと一旦仕事の手を止めた。
しかし、すぐにノックを無視するかのように仕事を再開し始める。
ただでさえ仕事が山済みなのだ。
他の連中に構っている暇などない。
まるでこの国の全部の厄介ごとがここに集まっているようだ。
そんな事さえ考えてしまう。
だが、あながち間違っていないのかもしれない。
緊急の書類が多すぎで、実際、ここ最近は毎日届く個人的な書簡にもすべて目が通せていない有り様なのだ。
他の連中は仕事を放置しているのではないかとさえ思ってしまう。
何度投げ出そうかと思ったが、そう思う度に自分自身を奮い立たせている。
だが、それもいつまで持つだろうか…。
まさに、神経をすり減らして仕事をしているといったところだ。
「はぁ…」
ため息がまた出る。
どうやらノックした相手は諦めたようだ。
それでいい。
そう思ったものの、予想に反してしばらくすると再度またノックの音が響く。
先ほどに比べると少々大きいものの、うるさくないようにという配慮が感じられる。
そこでふとラチスールプ公爵は考え込む。
自分の知り合いでそこまで気配りをしてくれる相手はいただろうかと…。
大抵のやつは、激しくドアを叩くようにノックする。
そしてノックで返事がないとずかずかと入って来るやつばかりであった。
では、今のノックは誰だろうか…。
該当する相手が思いつかず、本当ならそのまま無視するつもりであったが、ラチスールプ公爵は手を止めて声をかけた。
「入りたまえ…」
ドアがゆっくりと開き、そこにはよく知っている顔があった。
フソウ連合に密入国し、行方不明になっていたアンネローゼ・アレクサンドロヴナ・ラチスールプだ。
肌が焼け、少し痩せたかのような印象があるものの、間違いなく最愛の孫娘であり、最高の弟子だ。
ラチスールプ公爵は立ち上がると満身の笑みを浮かべてドアの方に歩いていく。
「お前かっ、アンネローゼ…」
その問いに、アンネローゼは微笑みつつ答える。
「はい。おじい様の孫娘のアンネローゼですわ」
そう言ってアンネローゼは駆け寄るとラチスールプ公爵に抱きついた。
ラチスールプ公爵も孫娘を抱きしめ返す。
「よく戻ってきたのぉ。心配したぞ」
「心配かけてごめんなさい…」
アンネローゼが囁くようにいう。
しばらく抱き合った後、二人は執務室のソファーに向かい合って座った。
すぐにラチスールプ公爵の秘書が飲み物を持ってくる。
暖かな紅茶だ。
実に体が温まる。
冷めないうちにと思いつつ飲みながら向かいに座る孫娘を見直す。
確かに愛しい孫娘だ。
だが、なにかおかしい。
以前に比べ、違和感を感じてしまう。
さっきは再会のうれしさのあまり気にもならなかったが、向かい合って座ってしっかりと孫娘を見たとき強く感じたのだ。
姿形は変わっていない。
変わったのは、醸し出す雰囲気というか、気配といったらいいのだろうか。
以前のアンネローゼがどろどろとまとわり付く少し粘り気のある血のようならば、今、目の前にいるアンネローゼは清らかな水といったところだろうか。
あまりの違いにラチスールプ公爵は伺うように聞く。
「何があったんじゃ?」
その問いに、紅茶を飲んでいたアンネローゼは、カップから口を離して微笑みながら答える。
「別にたいしたことではありません」
そう先に言った後、淡々とした口調で言葉を続けた。
「単に死に掛けただけですわ」
あまりにもさらりと言われ、ラチスールプ公爵は一瞬空耳かとさえ思ったが、どうやら間違いないとわかると言葉を失ってしまう。
だが、それで納得してしまった。
死に関わる事で、彼女の中で何かが開花したことに…。
今まで閉じ込められていたものが開放され、今の状態になったのだ。
それは変化ではない。
本来あるべき姿になったというべきなのかもしれないな。
そう、ラチスールプ公爵は実感した。
そして、それを根掘り葉掘り聞く事は余計な事と思ったのだろう。
「そうか…」
それだけ言うと、右手で髭を触る。
その反応に驚いたのだろう。
「それだけですの?」
びっくりした顔でアンネローゼの方が聞き返す。
「話したいなら聞くが、話したいと思っておるか?思っておらぬだろう?」
「そうですわね。あまり話したいとは思いません」
そういうアンネローゼの顔が寂しそうな顔になる。
そんな変化を見せる事に、ラチスールプ公爵は少しうれしくなる。
そんな表情を見せる孫娘を見れて…。
以前のアンネローゼは、どちらかというと偏った感情の持ち主であり、陰の感情に振り回される人形でそんな自分をもてあまし気味といった印象であった。
だが、今のアンネローゼは、血と肉の通った人という感じだ。
そして大きく違うのは、以前の禍々しいほどの魔力が感じられないことだろう。
じっと探るように見つめられ、アンネローゼは苦笑した。
「どうやら、おじい様にはバレバレのようですわね」
そう言った後、両手をあげてお終いですよって感じのゼスチャーをする。
「死に掛けたせいでしょうか…。以前のように数百人といった数の人間を長時間魅了して人形のように扱うほどの強力な魔力はありません」
それは災厄の魔女として恐れられた彼女にとって、今の自分はただのその辺にいる魔法使いとかわらない程度でしかないという事であり、死刑宣告みたいなものだ。
しかし、以前なら頑なに絶対に口にしないであろうその現実を、アンネローゼは軽々しく自分で口にする。
「そうか…」
ラチスールプ公爵は搾り出すようにそれだけ言った。
だが、ラチスールプ公爵の言葉とその神妙な表情を見て、安心させるかのようにアンネローゼはコロコロと笑う。
「以前の私なら、魔法が全てでしたからその事実に絶望していたでしょう。でも、今の私は魔法が全てではないのです。だから心配なさらないで、おじい様」
そして、清々したという感じで言葉を続ける。
「それに完全になくなったわけではありませんし…」
アンネローゼはそう言ってちらりと窓の方を見る。
窓の外の縁にはいつの間にか一羽の鴉がじーっと止まっており、部屋の様子をうかがっているようだ。
それを確認し、アンネローゼは立ち上がって窓を開けた。
鴉は、それを待っていましたとばかりに羽を広げて部屋の中に入ってくると床の上に止まる。
そして、とんとんとんと跳ねるかのように歩き、アンネローゼの前まで来ると頭を垂れた。
その様子は、まさに女王に傅く僕のようだ。
その様子を驚いた表情で見ていたラチスールプ公爵が呟く様に言う。
「使い魔か?!」
「はい。私のかわいい使い魔ですわ。名前をハッピーと言います。ねぇ、ハッピー」
アンネローゼはそう言ってカラスの頭を撫でると気持ち良さそうにハッピーは顔を摺り寄せてくる。
以前のアンネローゼは使い魔を使役したりする力はなかった。
だが、死に掛けたことで力が変化したという事だろうか…。
ラチスールプ公爵は考え込む。
深く深く…。
だが、そんなラチスールプ公爵に気にもかけず、アンネローゼはハッピーの頭を撫で続ける。
それは可愛がるというよりも、なにやら受け取っているといった感じだ。
実際、アンネローゼの顔に微笑みは浮かんでいない。
無表情のままだ。
そして撫でるの止めると呟いた。
「舐めたまねしてるじゃない…」
そしてまだ考え込んでいるラチスールプ公爵にアンネローゼは微笑を浮かべて声をかけた。
「おじい様、少し用事を思い出しました。また、夕食の時にでもお話をいたしましょう」
声をかけられ、やっと思考の海から引き戻されたラチスールプ公爵は慌てて答える
「お、すまんの…」
「いいえ。気にしてませんわ。おじい様も忙しい中、会って下さってありがとうございます」
「ああ。また時間を見てゆっくり話し合おうかの…」
「ええ。そうしましょう」
そう言ってアンネローゼは退室し、それをラチスールプ公爵が見送った後、思い出したかのように自分のデスクに視線を移す。
そこには、まだ山のような未処理書類の山があった。
「はぁっ…」
深々とため息が漏れ、少し躊躇するも渋々デスクに戻っていく。
その背中には、哀愁が漂っていた。




