淡い恋 その2
ゆっくりと目を開けるとそこはよく知っている天井だった。
あ…自分の部屋だ…。
そういや、額が冷たいな…。
あ、水で濡らしたタオルが額に置いてある。
それで冷たいんだ…。
あれ?
えっと…私…いつ戻ってきたんだっけ…。
確か…お茶会に参加して…。
ぼんやりとした思考でそんな事を考えていると、覗き込んでくる顔があった。
「ひ、姫様っ…気が付かれたんですか?」
そう言って心配そうに覗き込んだのは、侍女のプリチャだ。
「あ、プリチャ…。おはよう…」
そう言ってチャッマニー姫はプリチャに微笑む。
だがその微笑みは少し痛々しい。
それが引き金になったのだろう。
プリチャの目からぽろりと涙が溢れ、チャッマニー姫にしがみつくように抱きついて泣き出した。
「申し訳ありません、姫様…」
泣きながらそういうプリチャの背中をあやすように優しく撫でながらプリチャは状況の把握が出ていなかった。
「えっと…どうしたの?ブリチャらしくない…」
「私がキーチ様の事をあんなところで言わなければ…」
その言葉に…いや、正確に言うと『キーチ』という単語に、チャッマニー姫の身体がびくんと反応する。
「キーチ……」
呟く様にそう言うと、それがスイッチかのようにぼんやりしていた思考が一気に霧が晴れるように動き始め、記憶が戻されていく。
それは思い出したくない記憶。
信じたくない現実を再認識させることとなる。
じわじわと心を染め上げていく感情。
それは悲しみと悔しさ。
それに混じるかのように自分自身のキーチに対する思いが嵐のように吹き荒れて感情を揺さぶり、そして、責任という重石が彼女の心を深く沈みこませ溺れさせる。
それは十一歳の少女にはどうすればいいのかわからない理解不能の状態だった。
そして、人は、なす術もなくなったとき笑いがこみ上げるというが、事実、チャッマニー姫の中でまるでスイッチが入ったかのように笑いを引き起こしていた。
「ふふっ…ふふふふっ…」
その異様な様子に気が付き、泣き崩れた顔を上げて戸惑うプリチャ。
「ひ、姫様?」
「おかしいな…。すごく悲しいのに…。すごく悔しいのに…。何でだろう…」
そう言ってプリチャを見るチャッマニー姫。
その顔は、泣き笑いの顔になっていた。
すーっと目から涙が零れ落ちる。
「ねぇ…プリチャ…。私、お姫様でなかったら…こんな思いしなくていいのかしら…」
それは、十一歳の少女が、悲しみと王家という一人で抱えるには重過ぎる責任に苦しんでいる姿だった。
小さな頃から、こうあるべきと教え込まれた全てが彼女をガチガチに縛り上げている。
そしてその縛りに、無力な彼女はただ苦しむのみ。
それがプリチャにわかった。
わかってしまったのだ。
チャッマニー姫にとってプリチャは、一番身近で、一番親しく接してきた者であったから…。
それは誇らしい事であると同時に、今の自分に何も出来ない悔しさをプリチャに与えた。
「姫様っ…」
プリチャは優しくチャッマニー姫を抱きしめる。
それは、今のプリチャに出来る精一杯の事だった。
侍女としてではない。
ただただ一人の女性として…。
チャッマニー・ルロセット・セナーピムックにもっとも親しい者として…。
そして、プリチャは口を開く。
本当なら、言ってはいけない事なのかもしれない。
今までの姫様の苦労を無駄にする事かもしれない。
だが、プリチャは言わずにはいられなかった。
「姫様…。無理はなさらないでくださいませ。姫様が王家のものとして恥じない行為をする為に努力し、我慢されている事はよくわかっております。ですが…偶には感情に身を任せてもよいのではないでしょうか?」
「いいのかな…」
「いいんですよ。姫様は、まだ十一歳ですから…」
その言葉に、チャッマニー姫の泣き笑いの表情が崩れる。
そして、堰を切ったように涙が溢れ出す。
心の中で感情が爆発し、理性がとぶ。
それはチャッマニー姫にとって長く忘れていた、いや、躾によって忘れさせられていたモノであり、激しい衝撃だった。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーー」
声を上げて泣くチャッマニー姫。
そしてそれを抱きしめて慰めるプリチャ。
そのまま時は過ぎていく。
窓からはまるで二人を慰めるように夕日が差し込んでいた。
任務から開放され、泊まっているホテルに戻った木下大尉だったが、あれだけ疲れたというのに眠気は襲ってこなかった。
すでにベッドに入って三時間は経っただろうか。
それよりも、昨日の夜に川見大佐に言われた事、そして今日の茶会に出席できなかった事、この二つが重く圧し掛かっていた。
マムアンに会いたいな…。
会って話がしたかった…。
しかし、会ってどうするというのか。
私はまもなくこの国を出なければならないのに…。
このまま何事もなかったかのように会わないほうがいいのだろうか。
心が揺さぶられ、湧き上がるものを抑えきれない。
感情は制御できるものであり、それが出来ない者は激しい感情によって足元をひっくり返されてしまうぞ。
この言葉は、川見大佐から指導を受けた時に教えられた言葉だ。
そして、それを今まではきちんと実践してきた。
そして、自分はそれが出来ると思い込んでいた。
しかし、今の自分は何だというんだ。
心に湧き上がるこの感情を抑えきれないでいる。
くそっ…。
相手は王族だぞ。
それに十一歳の少女だ。
何を考えている…。
しっかりしろ。
常識がなさ過ぎるぞ。
それに…私は…任務がある。
私は、フソウ連合海軍の軍人だ。
命令には服従しなくてはならない。
それに出世のチャンスじゃないか…。
なのに…。
なんだ、この気持ちは…。
落ち着け。落ち着くんだ…。
そうだ…。
きちんと…きちんと…伝えなければ…。
いきなりいなくなってしまったら彼女が悲しむ。
だから…お別れだけでも…。
そう思うと、いても立ってもいられなくなって、木下大尉はベッドから跳ね起きてテーブルにつくとペンを手に取った。
せめて…私がいたという事を…あの楽しかった日々を思い出にしてもらう為にも…。
そんな言い訳を心の中で何度も呟きながら…。
ただ、感情に任せて書きなぐるかのように書いていく。
それは手紙という形をとった木下大尉の感情そのものだった。
そして、それを示すかのように木下大尉は気が付かなかったが、無意識の内に最後に当たり前のように書いていた。
『愛しいマムアンに』と…。




