とある女性との再会…
王国首都ローデンの商業区の端の一般区と貧民区に近い古びた酒場の前に、宰相ことエドワード・ルンデル・オスカー公爵の姿があった。
普段の王宮や行政区で着る服と違い、普通の一般人が着るようなシンプルな服を着ている。
また、護衛の姿はなく、それゆえに道を通る誰もが彼が王国の行政を握る最重要人物とは思ってもいないようだった。
ただ回りに比べると少し毅然としすぎている人という程度の認識だろう。
だから、彼は違和感なくこの世界に溶け込んでいた。
エドワードは酒場の屋根にかかっている看板を見上げる。
『黄昏時の思い出亭』
それがこの酒場の名前だ。
変わっていないな。三十年前のまんまだ…。
すっかり色あせた看板を見て、エドワードは一人苦笑した。
懐かしい思いが…。
心の一番奥にしまいこんでいた思いが漏れ出そうになるがぐっと押さえ込む。
今日ここに来たのは…。
三十年前の独りよがりの誓いを破ってでも来たのは、個人的な懐かしさに駈られて来た訳ではない。
わが主の…、王国の…、国民の為だ。
すーっと息を吸って静かに吐き出す。
よし…。
心の一番奥に仕舞い込んだ思い出にしっかりと重石をつけると、エドワードは店のドアを開けた。
「いらっしゃいっ」
カウンターにいる従業員と思われる二十代後半から三十代ぐらいの男性が声をかけてきた。
ぐるっと見渡すと店内はカウンターの男性の他に給仕をしている女性が一人が忙しそうに動き回っており、あとは十人程度の客が思い思いに酒と会話を楽しんでいる。
いないか…。
目的の人物がいない事を確認するとエドワードはカウンターの方に向かう。
カウンターにいる男性がニコニコと微笑み「どうぞ」とカウンターの席に手招きする。
「いや…実は…」
そう言いかけたエドワードの背中に声がかけられた。
「エドっ。エドじゃないかっ」
エドワードが振り向くと年の頃は五十代後半といった感じの黒髪の女性が驚いた顔でエドワードを見ている。
元々かなりの美人だったのだろう。
年はとってもその片鱗がまだ残っており、着る物と化粧次第ではかなり男の目を引く三十代の上品な貴婦人と通用するだろう。
だが、着ている物と簡単な化粧と雰囲気がそれらをひっくり返し、肝っ玉かーちゃんといった感じに染め上げている。
「あ、ああ。久しいな。ミスティ」
エドワードが少し言いにくそうに言う。
その様子に、ミスティはくすくすくすと笑ってエドワードの肩をバンバンと叩く。
「なんだい、なんだい、相変わらずだね。あの時の誓いを気にしてんのかい?」
拗ねたように少し感じさせる複雑な表情を浮かべてエドワードが答える。
「気にしちゃいかんか?」
「別に気にしろなんていってないわよ。ただね、もう会えないと思っていたからね。嬉しいのさ」
そう言った後、ミスティは少し悲しそうな顔でぼそぼそと呟く様に言葉を続けた。
「私の顔を見にきたという理由じゃないのが残念だけどね」
エドワードがぼそりと「すまん…」と言うと、沈黙が漂う。
その独特の雰囲気に、興味が沸いたのだろう。
酒に酔った客の一人が声をかける。
「おいおい、もしかして、元旦那か?」
その問いに、ミスティは顔を上げると客の方を見てニヤリと笑った。
「まぁ、そんなもんかな」
その言葉に、驚きの表情を浮かべた後、ブーイングをする客達。
どうやらミスティ狙いでここに通っているようだ。
エドワードはどう答えたほうがいいのか迷ったが、ここにいる者達にとっての日常にとって、自分と言う存在は異物であると感じ黙っている事にした。
ミスティと客の会話は続いたが、最後は「寄りを戻しにきたわけじゃないから安心しなよ」というミスティの言葉に落ち着いたようだった。
そして何も言わず、ただそこにいるだけのエドワードを少し寂しそうな顔で見て口を開いた。
「奥で話をしようか…。店は任せるよ、イアン」
「ああ。わかっているよ、母さん」
カウンターにいた男性がそう返事をする。
「息子だったのか?」
驚いた表情でそう聞き返すエドワードに、してやったりといった表情でニタリと笑うミスティ。
「私の大事な息子さ。驚いたかい?」
「ああ…。そして痛感したよ…あれから時が流れている事に…」
「そりゃそうさ…お互いにこんなに年をとっちまったからね」
その言葉に、ミスティは乾いた笑いを浮かべて答えた。
エドワードも同じように乾いた笑いを浮かべる事しかできないでいた。
「こっちだよ」
案内された奥の部屋は、窓のないテーブルが一つと椅子が二つ、それに壁に備え付けられている棚があるだけの飾りっ気のないシンプルな部屋だった。
多分、今回のような交渉ごとのためだけの部屋だろう。
周りに目がいかないように余計なものは完全に取り払っているといった感じだ。
そこの椅子の一つをエドワードに薦めるとミスティは棚からワインとグラスを取り出す。
「いや…交渉の際に酒は…」
エドワードがそう言いかけたが、ミスティはお構いなくワインを注ぐとエドワードの前に置く。
「なあに会話を円滑にする為の油みたいにものさ。酒じゃないよ」
ミスティはそう言って笑いつつ言葉を続けた。
「相変わらずだねぇ。もっともそんなきっちりしたところに惚れたんだけどさ、私は…」
そして自分の分を注ぎ終わると向かい側の椅子に座った。
「それで用事ってのはなんだい?」
その表情と言葉がさっきまでは違い一気に鋭くなる。
「そんな固いあんたがわざわざ誓いを破って会いに来たんだ。かなりの事なんだろう?」
その物言いに、どんなふうに話そうかと思っていたエドワードは、少しほっとし微笑んだ
その様子は、議会での彼を知っている者にとっては驚きでしかないだろう。
常に冷静沈着、全てを見切ったかのような態度、それが王国宰相である彼の姿だからだ。
もっとも、こんな表情をまったく見せないわけではない。
見せる事かできるほど警戒していない相手が少ないだけであり、そして、ミスティはそんな表情を出せる数少ない相手であった。
「ふふっ、全てお見通しと言うわけか…」
「まぁね。アンタとは何度もベッドを共にした仲だからね。それぐらいはわかるさ」
その言葉にエドワードは苦笑する。
「誰にでも言ってないだろうな?」
「ああ。もちろん。王国の宰相様とそんな関係でしたなんてそんなに気軽に言えるわけないじゃないの」
「その配慮は助かるよ」
「で…」
ずいっとミスティが顔を近づけて聞いてくる。
話を進めろという催促だ。
だから、「もう知っているとは思うが…」と話を切り出して、エドワードは今までのいきさつを説明する。
王国の商業船団が共和国の艦艇と思われる連中に襲われた事。
そして、同じように共和国の商業船団が王国の艦艇に襲撃された事。
その結果、戦争が起こりそうな雰囲気になりつつある事。
そこまで話した後、ミスティが難しそうな顔をする。
「そのあたりは、私も情報を扱っている以上知ってるけどさ。まさか、それが真実とでも思ってる?」
疑うような口調でそう聞いてくるとエドワードは苦笑して答える。
「まさか。だが、政治はそんなに簡単にすぱっと割り切れなくてな。それでフソウ連合に調停を依頼した」
『フソウ連合』と言う言葉に、ミスティの表情が興味ありそうなものに変わる。
「へぇ…。フソウ連合か…。面白い相手を選んだね。恐らくだけど言いだしっぺはアイリッシュ殿下当たりかい?」
「よくわかるな」
「まぁね。それぐらいは政治に関わらなくても情報を扱っていればすぐにわかるよ。それでどうなったんだい?」
「ここからは機密だから、喋るなよ」
「ああ、わかっているって。それくらいはわきまえているよ」
「引き受けると返答があったが、それに先立ってフソウ連合は一つの依頼をしてきた。なんだと思う?」
「ふーむ…。今の情報じゃ予想が付かないな。わかんないね」
そんなミスティに、エドワードがニタリと笑う。
「王国国内と海外の物価変動のデータの提出だ」
「物価変動…」
ミスティはそう呟いて考え込む。
そして驚いた表情で聞き返した。
「もしかして…。襲ったのは、物価上昇のため…」
「そう、その通りだ。そのおかげで今回の王国商業船団襲撃の件の参考人を特定するところまでは出来た」
エドワードのその言葉に、ミスティが呟く様に言う。
「そうか…。アルニモア・キルナンデストの件が繋がるのか」
「自殺とは思ってはいないんだろう?」
「ああ。あそことはうちも取引なんかの繋がりがあるからね。あまりにもおかしいと思ってうちでもいろいろ調べさせていたんだよ。そしたらなんかやばそうな件にかかわっていることがわかったよ」
「やばそうな件?」
「ああ。あそこの商会、かなりの借金があったんだが、それを一気に返している。普通の方法なら、まず無理だっていう金額だ。それを一気にだろう?絶対にやばいって…。それに変な連中と関わりだしたという話だね。おかげで今までの付き合いのあった連中が距離を置き始めていた」
「変な連中?」
「ああ、ここ十年くらいの間に王国で商いを始めた連中だが、どうも胡散臭い連中でね。連中の商売自体は良くもなく悪くもなくって感じだけど、その胡散臭い雰囲気を読んでかほとんどの王国にいる商人連中は関わり合いをもとうとしていない」
「なんて商会だ?」
「アルテムシア商会っていったっけ…。ドクトルト教国出身って言う話だったけど、どうだろうかねぇ…」
「そうか…」
しばし腕を組み、エドワードは考えた後、口を開く。
「その商会、そっちで調べてもらえないだろうか?」
その言葉に、ミスティは驚いた表情をした後、怪訝そうな顔で見返してくる。
「国家権力を使えばいいじゃないの。王国宰相なんでしょう?」
その視線と言葉を受け止めつつ、無表情で口を開く。
「ああ。最初は国家治安警察を使ったんだがな…」
そう言ってため息を吐き出した後、言葉を続けた。
「どうやら国家治安警察にも変な連中が入り込んでいるらしくてな。先を越された…」
ミスティはおやおやといった顔をする。
そしてニヤリと笑って聞き返す。
「私が連中とつるんでいるとは疑わないわけ?」
「疑う気はまったくないぞ。お前の性格はよく知っているからな」
即答だった。
その言葉に、ミスティは狐に化かされたようなきょとんとした表情を見せた後、カラカラと笑う。
「いいわ。エド。その依頼を受けるわ」
「ありがたい。助かるよ。こんな事を頼めるのは、王国商工会の相談役であり、王国の裏社会での顔役の一人でもあるお前だけしか思いつかなくてな」
「ふふふっ。でも…いいのかしら…」
悪戯っ子のような表情をしてミスティは聞き返す。
「何をだ?」
「王国の重鎮が、裏社会の顔役に頼み事するなんて…」
「仕方ないだろう…。下手したら祖国の危機になるのだからな」
エドワードの言葉に、ミスティは笑う。
その笑いには卑猥な色が見え隠れしていた。
さっきまでは感じさせなかった妖艶な雰囲気が漂い始める。
ぺろりとミスティが舌で唇を舐め上げる。
「うふふふ。なら、口止め料が必要よね」
そう言いつつ立ち上がるとエドワードの側まで来て背中から胸を押し付けるように抱きつくと耳ともで囁く。
「今夜は付きあってくれるわよね…」
「仕方ないな…」
そう言いつつもエドワードもニタリと笑う。
最初の決意やしっかりつけていたはずの重石も今や意味をなさなかった。
心の奥底にしまいこんでいた思いだけが膨らんでいく。
それはミスティが振りまくあたりを包み込むような妖艶な雰囲気に飲み込まれてしまったかのようだ。
「ふふふっ。さすがにこの年では二人目は無理だけど、今夜は楽しませてよね」
そう囁き、立ち上がったエドワードにミスティは前から抱きつくとキスをしたのだった。




