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恋をした  作者: 珀志水
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 シーツの皺を伸ばし、洗濯バサミで端を止める。これで洗濯は終わりだ。後は昼食兼三時のおやつを用意して、夕飯まで気ままに過ごそうと洗濯篭を持って縁側を上がり、居間を突っ切ろうとしたところで、こけた。

 こけた。何もないところで。

「ってぇ。なんだ?」

 何もないのだから、振り返ったって何もない。しかし、何かに躓いたのは確かだ。特別、運動音痴という訳でもない私は、何もないところでこけるという芸当は持ってはいない。どちらかといえば、運動神経はいいほうだ。

「えぇ?」

 訳のわからなさに、何か変なものでもいるのかと、ぞっとする。幽霊は嫌だ。幽霊は。絶対碌なもんじゃない。自分のことを棚に上げ、自らを抱きしめるように二の腕を擦った。嫌なことを考えたせいか、悪寒がしたのだ。

「いや、うん…。何もないところで転んだんだ。そうだ。うん」

「ニエはオカルトが嫌いなのか」

 唐突に聞こえてきた声に、声なき声で叫んだ。怖くて後ろが振り向けない。なぜって、その声が聞き慣れた彼ならまだしも、全く知らない男の声だったからだ。

「おい。無視するんじゃない」

 ぷにっと、背中に何かの感触。次いで、服が軽く引っ掻かれる感じがした。

 何やら懐かしくも喜ばしい感触だった。そう、これは…。

「肉球!」

 ばっと振り返れば、そこには大きな榛色の犬がいた。目の前には肉球のついた足!

「肉球だぁ。うっわ、この感触!もう最高!…あたっ」

 プニプニと触りまくっていると、ぱしっと叩かれた。犬に。

「少し控えろ」

「………いぬがしゃべった」

「今更か」

 犬に突っ込みされた。

 それにしても不遜な態度だ。俺が一番偉いんだと言わんばかりの雰囲気が漂っている。もしかして威圧されているのだろうか。どうでもいいが、でかすぎないか。この大きさ。これは犬なのだろうか。どちらかといえば狼……。

「く、食われる?」

「は?」

「あ、いや。野犬とか狼って、人食ったっけ、と思っただけ」

「……食われたいのか?」

「いえいえいえいえいえ。滅相もございません」

 犬相手に下手に出てるのってどうなんだろう。こっちは人間様だというのに。

 少々不満に思っていると、縁側から彼が顔を出した。

「とーた。ニエとおはなししてたの?」

 とーた。…とーた。とーた?

「とーたぁああああああっっっ!!!!!????????」

「叫ぶな」

 本日二度目の犬パンチ。あ、三度目?きもちいいからもっとやってほしい。

 彼は、至極嬉しそうにとーたに抱きついて、そのまま抱き枕よろしく眠ってしまった。ふさふさの毛並みに頬を寄せて、幸せそうだ。

 そんな彼に、とーたは顔を寄せて頭に鼻先を押しあてている。なんだか親子のようだ。

 穏やかな午後の時間。聞こえてくる音は、風に揺れる葉が擦れる音と、鳥の鳴き声。それと、彼の寝息だけだった。





「ご飯。いい加減起きろ」

 机に食事を並べて、一人をけり起こせば、引っ付いていた一匹も目を覚ました。ついでなので、とーたにもご飯を差し出しておいた。作る量が少し増えたが、それも今更だ。

 一人と一匹が食事を終えるまで、縁側に腰掛けて煙管を口に含む。吐き出した煙が、大気に融け混ざっていくのを観ながら、虫たちの奏でる音に耳をすませる。リーンリーンと鳴くのは、鈴虫だろうか。

 ここでは、どんなことがあろうと緩やかに時は流れていく。急かされることも、焦ることも無縁の時の中で、人は怠惰を覚える。はずなのだが、今のところ、それも無縁に等しい。彼は知識欲は旺盛で、決まった時間の昼寝以外は本を読んでその知識を高めているし、私は家事に忙しいからだ。

 木の軋む音が聞こえて振り向けば、隣でとーたが寝そべっていた。どうやらご飯を食べ終えたらしい。

「ニエが作るものは、どれも美味だな」

 淡々とした声色には、何の感情も含まれてはいない。そんなところは、彼によく似ている気がした。

「ありがと」

 料理など全て、見よう見まねで作ったものだ。本当に美味いかどうかなど、たかが知れている。それでも美味いと言われれば嬉しいので、とりあえずお礼は返しておいた。

 彼はまだ食事中らしく、とーたと一緒にぼんやりと夜空を眺めていた。夜空に鏤められた光は、空いっぱいに覆い尽くし、濃紺の空は太陽とは別に綺麗に輝いている。生きていたころには、決して見ることのなかっただろう景色だ。

 その空に魅入っていると、とーたが徐に顔を上げた。

「殺されるのはつらいか?」

 潜めた言葉に、一瞬反応できなかった。

 誰にも問われることのなかった問いに、息を詰める。はっと吐き出された息と同時に、目頭に熱がこもり、思わず閉じた瞳から涙がこぼれた。

 こぼれた涙が、堰を切ったようにあふれ出し、頬を濡らしていく。

 つらい。つらいのは当たり前だ。誰が好き好んで、何度も何度も何度も何度も!何度も…殺されなくてはならないのだろう。

 薄れることのない痛み。毎度視界に焼きつく、自分の切り離された体の一部。発狂したくても、この心は冷静さを保ち、それさえも許されない。

 けど、けどそれ以上につらいのは、多分、殺されることに対してではないのだ。

「つらい、けど、つらく、ない」

 こんな泣き顔で、それこそ説得力はないけれど、それでもひた隠しにする。

 とーたも、それ以上何もいわずに、ただその体を押しつけるように寄り添ってくれた。伝わる体温は温かく、心地いい。

 体温などない私の体は、とーたにはどんなふうに感じられるのだろう。

 少しだけ不思議に思いながら、柔らかな毛並みに顔を伏せた。

「あー!とーたずるい!」

 不意に上がった、子供みたいに拗ねたような声に、小さく笑った。しかも、ずるいのは私ではなく、とーたらしいことも、笑いを強める。

 一頻り笑うと、とーたが涙の乾いた頬を一舐めして外に飛び出る。

 とーたがいなくなった途端、彼は張り付くように私に抱きついてきた。

「とーた、帰っちゃうの?」

 こてりと首を傾げた彼に、とーたはただふっさりとした尻尾を振っただけで、生け垣の外へと去ってしまった。

 二人きりになった家の中は、少しだけ寒く感じられて、彼の胸へと額をすりつけた。

 去り際に耳を掠めたとーたの言葉は、彼には届いてないのだろう。だからこそ、ちくちくと胸の何かを刺激した。


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