前
始まりは、確かに『死』だった。
炎天下の学校の屋上。ゆるりと飛び降りた女生徒が、潰れたトマトになったあの瞬間だ。
逆に、彼にとっての始まりは、『生』だったのだろう。
母の胎から、血潮に塗れて生まれ出でたあの瞬間だ。
真逆であるにも拘らず、運命は意図せずして絡み合った。私と、彼と。立ち竦む人々と。それらすべてが、絡み合い、混ざり合い、引き千切られる。散り散りなって、また絡み合い、私は彼に出会ったのだろう。
一度は死んで、見知らぬ場所で生き返っていた私は、隔離された世界で今も確かに生きている。
美しい、殺人鬼とともに。
「さっさと起きろや、お坊ちゃま」
布団を引きはがし、真昼間まで寝こけていた白い塊を起こす。眠たげに金色の眼を擦りながら、それでも起きようとはしている彼は、こちらを見てへにゃりと笑った。
「おはよう」
何が嬉しいのか、心底幸せそうにあいさつをされる。だが、こちとらそんなことはどうでもよく、さっさとやることをやりたかった。
「おそようだ、馬鹿め。着替えてさっさと飯を食え。片付かないだろうが。天気もいいんだ。布団干させろ」
敷布団から無造作に男を転げ落とし、シーツを剥いて庭へと運んだ。青々とした空は晴れやかで、気分もいい。遠くから聞こえる鳥の声は、きっと鳶だろう。田舎は不自由さにさえ目を瞑れば、最高だ。その不自由さも、この場所ではあってないようなものだけれど。
洗濯機に洗い物をぶち込んで、さぁ掃除をしようと、意気揚々と部屋に戻れば、ゆっくりのんびりと、こちらのことなどまるで眼中なしだろお前と突っ込みたくなるようなペースで、いまだ飯を食っているそれは、一口食べてはぼへーっとしていた。思いっきりぶん殴ってやりたくなったところで、彼が目を輝かせた。
「ニエ。とーただ」
ニエ、とは私のことだ。実名ではないが、会った時からそう呼ぶので好きにさせている。とーたは、彼にとって唯一の友人で、曰く、茶色い野犬。見たことはない。見れないものだから。
「ニエ!とーたがおかずとった!」
ぼへーっとしているからだ、馬鹿め。いいぞとーた、もっとやってやれ!と、心の内のみで声援を送る。その間もテキパキと家事をこなす。どうでもいいが、やはり邪魔だ、こいつ。
「さっさと食え。でなきゃ夕飯つくらんぞ、私は」
「それはだめだ!でもおかずがない!」
なら味のりで食えと、戸棚から取り出して投げつける。しょぼしょぼと暗い顔をして、彼は食事を終えた。味気ないと文句を言われたが、聞き流す。自業自得というものだ。
掃除をし終え、洗濯も済んだところで、玄関先へと回る。ポストに入れて置いた紙はなく、ダンボールが置かれていた。中は見なくても大体わかる。食料とその他諸々の必要物資だ。
「ほぉー、真鯛だ。でかっ。一体いくらだぁ?これ…」
これを調理…しなければならないのかと、値段よりもそちらが気になった。魚の解体処理は未経験だぞ、私は…。
この家に来てから数ヶ月。私に課せられたことは二つだ。一つは見ての通り、住み込みの家政婦として日々働くこと。もっとも、この家の敷地から出るに出られない私にとって、それはありがたい申し出でもあった。
だが、もう一つのほうは何というか…、論外だ。軽く、というか、全く以て人権を無視している気がする。もっとも、死人に対して人権を酷使する必要があるか否か、という論議を引っ張り出さなければならないことになってしまうが。けれど、常識的ではない。いや、状況からしてその言葉は除外されるのか?だから、適用、あるいは適任だと?
いや、しかし…。
いくら死なないからといって、半永久的に殺されろというのは、酷いことだとは思わないか?
こうして思い返すと、全てが唐突だ。
出会いも、始まりも、何もかも。きっと終わりがあるとすれば、それすら唐突だろう。
兆候?そんなもの、あったら是非とも教えてほしいくらいだ。そうすれば心の準備というものが私にも許されたことだろう。神はすでに私を見放しているから、許されたこともない。
自殺を選んだのがいけなかったのだろうか。他殺であれば、二度も三度もそれこそ〝他殺〟を経験せずにすんだのか。〝もし〟なんてものが存在していたらわかっただろうそれも、ないのだから致し方ない。
とりあえず、このままでは冷蔵庫内で確実に邪魔になるだろう真鯛をまな板の上に載せる。本を片手に解体処理を決行しようと勇んでいた時だった。
背後から爆発音。反射で耳を塞ごうとした右腕は、二度目の爆発音で吹き飛んだ。痛みを感じる前に、事態が次々に急変していく。
「っぁ…!?」
脳は理解を拒否。故に、残ったのは壮絶な痛みと変わっていく状況だけだ。
「穴だらけだ」
先ほどまで見せていた子供っぽさが、ヒトカケラも残らない、彼の無表情さ。それだけが、瞳に焼きつく。
怖い、という感情は、どこかに置き去りにされ、瞳をさらに見開いた。心臓が撃ち抜かれ、胸に大穴が開く。血と共に絶叫を吐き出す。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいいたいいたいいたいいたいいたいいたいイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ痛い居たいいたいいたいいたい痛いいたいイタイイタイいたい痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い居たい痛い痛い痛い痛いいたいイタイいたいいたい痛い居たいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいイタイイタイ痛い痛い痛い痛い痛い居たい痛いイタイ痛いいい言いいいいいいいいいいい………いい、いいいい、い?……いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい………………い、た………、い?
ぷつりと、思考回路が遮断された。
閉じられなかった瞳に、至極残念そうな彼の顔が映し出される。
「間違えた」
伸ばされた手は、優しく、瞼を閉じさせた。ブラックアウト、なんてものはない。ただ、瞼の裏が映し出されるだけ。
どれだけの時間が過ぎたのか、再び瞼を押し上げた時、そこには何もなかった。
何も。血の一滴、何一つ。先ほどの惨劇に繋がるものは何もない。
吹き飛ばされたはずの右腕も、傷一つない。
「ニエ。ごはんまだ?」
ただ、血塗れの着物を着た彼だけが、あの惨劇を物語っていた。
始まりは、確かに『死』だった。
願望も羨望もなく、死という無に足を踏み出したはずだった。頭蓋骨が砕けるあの感触、今でもしっかりと覚えている。
あれが死だというのなら、私は確かに『死』を感じたはずだった。
なのに。
欲したはずの死は遠ざかり、幾度も殺されることを運命として課せられた。いつになったらオワリが来るのかもわからない。
わかることがあるとすれば、彼が私を殺すことに飽くことは、絶対にないということだ。




