序章
暗くくすんだ夜気の中に、せわしなく靴音が響いていた。
路地裏の朽ちた石畳は、お世辞にも走りやすいとは言えない。背後から迫る人影におびえながら、男は三ツ辻の曲がり角のひとつに身を隠した。
膨張と収縮を乱暴に繰り返す、ポンプのような肺を必死でなだめながら、男は静かに辺りの気配をうかがった。まずい。今は丸腰だ。肝心な時に限って銃もナイフも持ってねぇ。男は自分の間抜けさを呪いながら、震える手で崩れた塀の瓦礫を握った。武器になるようなものならこの際なんでもよかった。自分の身を守ってくれそうなものになら、なんにでもすがりつきたかった。
見ず知らずの何者かに襲われる心当たりがあるかと問われれば、ありすぎるほどにある。それだけのことに手を染めてきたという自覚がある。幼い頃からして既に人の道を外れていた。気づいた頃には手遅れだった。他人を騙し、裏切り、陥れて生きてきたのだ。それが当然だと思っていたし、生きるために必要だった。いつか報いはくる、碌な死に方はできないと諦めていたが、それでもそんな日がまさか今日、来るとは思ってもみなかった。今日は嫌だ。こんな小悪党のクズのまま、むごたらしく死ぬのは嫌だ。一か月先でも、いや一週間先でも、死ぬとわかって覚悟を決めていられるのならそれでもいい。糞みたいなくだらねぇ人生だったなと笑いながら死ねるのならいい。でもこんなに突然、あっけなく殺されるのなんて絶対に嫌だ。
男は近づく気配に五感を研ぎ澄ませた。ドブ川でも近くに流れているのだろう、金属と汚泥の混じった臭いが男の鼻についた。足音が近づく。視界に暗い影が入った瞬間、男は振りかぶった瓦礫を影に打ち付けた。
「なっ……!?」
男が驚愕して声にならない声を放った。
瓦礫はまるで影に吸い込まれるように空振りし、気づいた時には男は地面に組み伏せられていた。
男を見下ろしているのは、フードを目深に被った人物だった。暗さのためにはっきりとは判別できないが、背格好や顔の輪郭から、なんとなくまだ歳の若い、少年とも青年ともつかぬような相手だという気がした。
「ちくしょう! てめえら、何なんだ! 何で俺をつけまわす!?」
男が叫んだ。その時、男が気づく。人影が一つしか無い。確か自分を付けまわしていた人影は、二つあったはずだ。もうひとりはどこだ……?
その時、男のすぐ耳元で声がした。
「答える必要は無いな」
男はぞっとした。まるで恋人や母親が耳元で愛を囁くような、唇が耳たぶに触れるかというような距離感。しかしその声は無機質で冷たく、なによりそそれほど間近にいながらもまったく気配を感じさせないその人物に、男は恐怖した。
「ジョシュ・ノブレットだな」
耳元で囁く声が、男に問いかけた。
「知、知らねぇ……。人違いだよ」
「舐めてもらっちゃ困る。すでにお前のことは巨細漏らさず調べあげている。こうして確認するのは一種の社交辞令であり、私の流儀だ。元より貴様の答えなど期待していない。……それに」
そこで声の主は一呼吸つくと、かすかに嘲るような感情を滲ませながら言葉を続けた。
「心辺りはいくらでもあるだろう? まあ、君に恨みを抱いている者の仕業だとだけ言っておこう。……それだけの手がかりでは、誰のことだか絞りきれるはずもないだろうが」
ノブレットは一瞬にして状況を悟った。こいつは探偵だ。しかも俺と同じ、裏の世界で生きる、雇われの探偵。誰かの恨みを肩代わりにして生きる、言わば”裏の道のプロ”だ。
「ちくしょう! 糞野郎! 離せてめぇええ!」
ノブレットはがむしゃらに叫んだ。しかしフードの少年は思いのほかに腕力があるらしい。渾身の力でもがいたところで、微動だにしなかった。
その時だった。ノブレットの瞳に希望の火が灯った。彼の眼前に見知った姿が映ったのだ。古くからつるんでいる悪友であり、仕事上の仲間でもある。どうやらノブレットの声をたまたま耳にし、異変を感じ取り助けに来てくれたらしい。
「俺だ! おい! 助けてくれ!」
「おい、何やってんだ」
筋肉質な男であった。巨木のような剛腕で探偵の腕をつかもうとする。
「……用心棒くん。どうやら君の出番のようだよ」
「ああ、わかってる」
”用心棒”と呼ばれたフードの少年――ユウリは、そうつぶやいて男に対峙する。男は恫喝するような眼つきでユウリを見据えた。
「なんだガキ。てめぇ殺され……」
その時、男は言葉を吞み込んだ。ガス灯の微かな光が、ユウリの瞳を照らしたのだ。その左眼には紋章が浮かび上がっていた。
「て、てめぇ! 咎目じゃねぇか! 能力者だな!?」
暗がりの中ですらはっきりとわかるほどに、二人の顔が青ざめた。
咎目――それは大罪を犯した能力者に科せられる烙印だ。殺しを重ねたか、あるいは国家への謀反を首謀したか。本来ならば即刻処刑されるほどの罪を犯した証だ。
それがこうして今も生き、自由の身にあるということは、すなわち拘捕の手から逃れたという証明だ。
その紋章を浮かべた瞳を持つものは、ある意味で二度と光のもとで生きることは叶わないと言えよう。もしもこの瞳を晒したまま世の中に出ようものなら、人々から恐れられ侮蔑され、いずれは政府の手に捕まり処刑されるか、あるいは人々から直接手を下されるかのどちらかだ。なにしろ”咎目”を持つものを殺しても一切の罪には問われないのがこの世の中の原理なのだから。
男は分厚い刃を持つ得物を握った。本来ならば、小柄で痩せたユウリなど素手でひねり潰せるほどの頑健とした肉体だ。しかし相手が能力者だとわかり警戒したのだろう、その表情には敵意の底に、未知のものに対する恐れと警戒心が透けて見えた。
対するユウリは、鈍い光を放つナイフに怯むでもなく、落ち着き払った動作でポケットから腕輪を取り出し左手首にはめた。腕輪に彫られた紋章に、ユウリの能力が流れ出す。紋様がじわりと黒ずんでいった。
「その手首ごとぶった斬ってやる!」
男は叫び、がむしゃらに斬りかかる。
ユウリは無手のまま、軽く刃をいなした。
左手首に嵌めた、紋章を施された腕輪を媒体として、能力者としての潜在能力が顕現されたのだ。感覚が異常に鋭くなっているユウリにとっては、男の動きなど止まっているも同然だった。男が躍起になって突き付けてく刃先に対し、ユウリは右脚部のホルスターから取り出したフルメタルのナイフをまるで居合い斬りのように一閃した。瞬間、大男のナイフの刃はいとも容易く弾かれ、地に落ちて鈴のような響きをたてた。
「悪ぃ、俺ちょっと、この状況はごめんだわ……」
男は両手を上げながら呆れたように呟くと、そそくさとその場を立ち去った。
「お、おい! 待てよ! 俺はどうすりゃいいんだ!」
ノブレットの絶望的な叫びが響く。
「追うか?」
ユウリが問うと、探偵は首を振った。
「いや、いいさ。彼は単なる通行人だよ。それよりも」
探偵はノブレットを見据えた。
「聞きたいことがある。彼と同じ、咎目の少女を見なかったか。歳の頃が17、8ほどの少女だ」
「し、知らねぇ! これは本当だ! 俺はそんな少女とは何にも関係ねえ!」
「そうか。ならばいい」
探偵が呟くと、ノブレットは安堵したように表情をゆるませた。こいつらは少女を探していただけだったのだ。自分は咎目の少女など知らない、無関係だったのだ。ならば俺は人違いで巻き込まれただけの、ただの――
「勘違いしているようだが、私が依頼されたのは君を傷めつけることだ。ここまでのやりとりは、単なる前座だよ」
男の心情を見透かしたように探偵はにやりと笑うと、見せびらかすように小さなナイフを取り出した。
「悪いね……彼のほど上等な代物じゃない。少々切れ味が悪いが、勘弁して欲しい」
ノブレットの顔が絶望に染まった。
+
世界は、紋章によって生まれた。
神話にはそのように描かれている。
何もない世界から突如として紋章が生まれ、その紋章が世界のあらゆる物質を生み出したのだという。
だから、世界のあらゆる事物は紋章の支配によって構成されているのだと。
「原初の紋章」が生まれる前は、世界は無であった。生物はもちろん、海も陸も、あらゆる有機物も、無機物も、闇も光も、一切が存在しなかった。
何もない世界。
ではなぜ何もない世界から紋章が生まれたのか?
そもそも紋章とは何なのか?
それはただの神話の中のお話。大昔の、まだ人々が世界の神秘を神話に頼って説明していた時代の、他愛もない創生譚。そう片付けてしまえばそれまでだ。
曰く、原初の紋章が解き明かされた時、世界は再構成されるとか。
曰く、世界の何処かに、紋章を自身の言葉のように操る紋章人がいるとか。
――そんな神話を信じる人が、今の世の中に果たしてどれだけいるだろう?
しかし長らく歴史の奥底に埋もれていた紋章の存在が、ある瞬間を境に、再び歴史の表舞台へと登場することになる。
科学が発達し、二つの強国イルアゼカとソル・メキが弱小国の領土を巡って対立する。
互いが弱小国の領有を主張し、表向きは弱小国を護るという名目で、実際にはその領土を簒奪する目的で攻め入った。弱小国を戦場として、未曾有の大規模な戦闘が開始されようとしていたのだ。
そんなとき、弱小国であったオエル・ラクシュが、二つの強国に対して「宣戦布告」を行った。
それは二つの強国を驚かせたが、理解できないわけではなかった。
オエル・ラクシュは宗教国家だ。信仰心に厚い国民たちは、強大な軍事力の衝突を嵐が過ぎ去るのを待つごとくにただ耐え忍ぶことは、神の意思に反すると考えたのだろう。自国の領土を黙って蹂躙されるならば、いっそ神の名のもとに抗い、滅びたほうが義であると。そう考えたのだろう。それならばそれで都合が良い。この弱小国を支配下に置く大義名分ができたと、二つの強国は考えた。
しかしやがて、そんな大国たちの大きな誤算が明らかとなった。
世界の頂点を争う軍事科学力を持つ二つの大国が、オエル・ラクシュに攻め入ることが出来なかったのだ。
のみならず、逆にオエル・ラクシュがソル・メキの一地域を陥落した。
その事実は全世界を震撼させた。
オエル・ラクシュの兵はあまりにも強靱だった。銃弾も爆薬も意に介さず、前時代的な刀剣で襲い来るその姿は怪物と恐れられた。
その怪物たちは紋章を操るらしい。
その事実が明らかとなったとき、世界は紋章術を再発見したのだった。
やがて大国たちの工作活動により紋章術が盗み出されると、オエル・ラクシュは歴史から完全に姿を消した。
その紋章戦争を境にして、世界はまったく姿を新しくしてしまったのだった。
今では、紋章とはエネルギーの「揺らぎ」だと考えられている。
この世界がどんなに無に等しい世界だったとしても、ある瞬間にごく僅かなエネルギーの揺らぎが生まれる。その揺らぎがある時に紋章を描き、何万倍、何億倍ものエネルギー爆発を繰り返した。
そしてそれが、この世界の創生の始まりだった。そう解釈すれば、神話の中のお話も、辻褄が合うのでは無かろうか。




