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新藤真悠は殺さない  作者: さいこ
出会いはアーモンドの香り
2/18

とびきりの理系音痴

 僕はそっと、ノートパソコンを閉じた。


 先程まで白い画面に映っていた黒い文字列は、結局僕に何か有益な情報を与えることの無いままであった。

 今日もダメだったな。ふうっと無念をため息にして吐き出し、新鮮な空気の代わりにマグカップのカフェオレを飲み込む。すっかりぬるくなってしまったカフェオレが、何の成果も得られなかった僕を慰めるように優しく喉を流れていく。


 かれこれ数日、仕事帰りや休日の空いた時間に、こうしてノートパソコンと向き合い、難解な文字列や意味の分からない図や謎の式とにらめっこしていたのだが、どうやらまるで無駄だったようだ。


 誰か詳しい人でもいればなあ。


 僕は目頭をギュッと押しながら、強ばった筋肉と心をギシギシと試運転させるように伸びをした。首や背中の骨がコキコキと音を立てる。そのままちらりと部屋の壁にかかった時計を見やると、明るい水色の時計の針は、午後五時半を意味する配置にいた。

 岡本との約束の時間に間に合うには、そろそろ仕度を始めなければいけない。


 僕は着替えを済ませ、適当な荷物の入ったカバンを引っ掛けて家を出た。




「おう、おつかれ」


 約束の場所であるいつもの居酒屋に着くと、カウンター席に座っている岡本がこちらに向かって手をあげた。テーブルの上にあるジョッキにはビールが六割ほど入っており、お通しの皿にはすでに箸が乗っていた。どうやら先に飲み始めていたようだが、そのことを何ら悪びれる様子もなく、へらへらと笑っている。


 ……いや、急にこいつが礼儀正しくなっていたら速やかに受診を勧めるのだが。


「なんだ、もう飲んでいるのか」

 僕は着てきた春物のコートを椅子の背にかけながら言った。


「こまけぇことはいいじゃんかよ、河野。お前も生でいいよな?」

 やはりなんの悪びれもないようだ。まあ、そこが彼の持ち味でもあるということもできる。こういうところがどうにも憎めないのだ。


「うん、まったく調子の良いやつだな……」

 僕がややあきれ気味にそう言うと、彼はまた人懐っこい笑みを浮かべて、もうひと口ビールを飲んだ。テーブルの上にやや雑におろされたジョッキの中には、もう半分ほどしかビールが入っていない。


 岡本は高校時代から仲の良い友人だ。かれこれ高校を卒業してからまるまる七年ほど経とうとしているが、未だにこうして飲みに行く。そして飲みに行くときは、お互いの家から近くて安いという理由で決まってこの大衆居酒屋に来る。

 一緒に居酒屋で飲む程度の約束で大したおしゃれをする必要もない相手であり、先についたからと自分だけとっととビールを飲み始めてしまえるような相手である。


 彼は高校の頃からバドミントン一筋で、勉強はさっぱりだった。しかし、誰かと仲良くなる技術は一級品で、彼よりも良い意味で馴れ馴れしい人を僕は今のところ知らない。今は確か専門学校を出て保育士をやっているのだったか。


「仕事はどう? 相変わらず大変なの?」

 運ばれてきたおしぼりで両手をぬぐいながら訊ねてみた。


「そりゃあもう、相変わらず重労働よ。子供ってホントにエネルギッシュだよな」

 岡本は軽く笑ってそう答えると、グイッとジョッキをあおった。ごとりとテーブルの上に戻されたジョッキの壁に泡が伝って落ちていく。


「本当によく飲むな……僕から見るとお前も充分エネルギッシュなんだけどな」

 空のジョッキを名残惜しそうに覗く岡本が元気な子供たちに振り回されるなんて、僕にはちょっと想像ができない。


 むしろその逞しい腕で子供たちを文字通り物理的に振り回していそうだ。


「いーや、子供たちは段違いだって。毎日ドタバタだよ……あ、お姉ちゃん生の中ジョッキもう一杯」

 彼はしみじみ言ったと思えば、追加のつまみと僕のビールを運んできた店員さんにさらりとおかわりを頼んだ。


「そんで、逆にお前の方はどう?」

「僕は相変わらず本屋だよ。大変なこともあるけど、ゆっくりしたもんだよ」


 僕は大学を出てから、馴染みの本屋さんに雇ってもらった。大して大きい店ではないが、品揃えにセンスがあり、兼ねてより愛用していた本屋さんだ。足しげく通っていたから、店長さんも僕のことを覚えていてくれたので、スムーズに話が進んだものだった。


「いやいや、そっちはまあいいとしてよ」

 岡本は枝豆をピコっと出して食べ、飲み込むまで少し間をとって言った。


「あのほら、書き物の方だよ。また新作を書き進めてるんだろ?」

「あぁ、そっちね……」


 書き物の方、というのは僕の書く推理小説の話に間違いなかった。高校の頃から活字中毒で、特に推理小説ジャンキーだった僕は、本屋で働きながら推理小説を書き進めているのだ。書いた作品は彼のような友人に見せたり、インターネットで掲載したり、賞に応募してみたりもする。


 岡本はもともと読書をほとんどしないが、嬉しいことに僕の書く話だけは面白がって読んでくれる。彼曰く、ファンなのだそうだ。


「そっちは少し行き詰まっちゃってさ……毒薬トリックを書きたいんだけど、生憎毒や薬の知識がなくてね……」

 今度は僕が枝豆をつまみながら言った。


 もともと僕は筆が遅い方だが、今回は特別に行き詰っていた。大学は文学部に進み、理系科目を忌避するように生きてきたので、高校までに習った化学や生物の知識なんてとうの昔に風化し、塵埃と化してどこかに吹き飛ばされてしまっているのだ。本やウェブサイトをあさって調べようにも、脳が理科系の文字列をシャットアウトしてしまい、まともに読み込むことができない。


「誰か詳しい人に教えてもらえれば捗るんだけど……誰かいい人知らない?」

「毒や薬ねぇ……」

 岡本は柄にもなく何か考えるように少し遠くを見て呟いた。


 岡本のほうも、理科系どころか体育と家庭科以外の科目で平均以上の成績をとっているのを見たことがないので、駄目元で言ってみたつもりだったが、そういえば岡本は同学年にも先輩後輩にも信じられないくらい友達や知り合いが多い。


「あいつに聞いてみたらどうかな?」

 彼は遠くを見たまま、またつぶやいた。


「あいつ?」

 どうやら誰か心当たりがあったらしい。

 僕が質問を返すと、彼の焦点が手前に戻ってくる。


「新藤ってやつ知らないか? 高校の同級生の」

「シンドウ……?」


 知らない名前だと思った。僕は岡本と違って、高校の頃から社交性があるとは言えなかったし、高校の同級生だけでも三百人くらいいる上、名前を覚えるのが苦手ときている。心当たりがないのも無理はなかった。


「あれ、知らないか。あいつよく図書室行ってたから、てっきりお前と顔見知りかと思ってたんだけど……」

 岡本はエイヒレを咀嚼しながら、アドバイザーになりそうだという彼女のことを教えてくれた。

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