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‘あ・り・す’  作者: みやしん
■Channel 1 Shamash:
8/52

■Scene 7 運命【Destiny】

 自分に向けられて伸ばされた手。助けを求める手を掴むことが出来なかった。彼の呼ぶ声に答えることが出来なかった……

 気がついたとき、華蓮は自分の部屋のベットの中にいた。そこは蛍光灯の明かりで満たされクーラーが程良く利いて湿気もない。

 だから最初全ての事は夢だと思ったのだ。

 真夏の昼間を涼しい自分の部屋でうたた寝し、そこでかいま見た夢だと。

 それを現実に引き戻したのは百合だった。

「……気が付いたか?」

 枕元に百合の顔がある。普段冷静な姉が見せる心配そうに自分を見る顔。

 ずっと昔に同じような表情を見たことがある。あれは確か……

 そう、スイミングスクールに通い初めの競技会、足がつっておぼれかけ気を失い家にかつぎ込まれた時だ。

 なぜ姉はその時と同じ表情をする。

「百合姉ぇ……」

「溺れたんだよ、幹ヶ原池で」

 姉の言い方は淡々としていた。それ故に自分の身に降りかかった事が認識しずらい。事実そのままを突きつけられ心が承諾するのを拒んでいる。

 だが事実は事実。自分が溺れたこと、そして……

「草薙くん!」

 華蓮は飛び起きた。そしてすがるように姉を見た。

 百合は首を振る。

「まだ見つかっていないよ」

 華蓮は残酷なほど冷静な姉の言葉に感謝していた。丸め込まれ遠回しに言われた方が自分を失うかもしれないからだ。


  §


 草薙剛史の行方が判らなくなっている。

 それが現実の事と思い知らされたのは翌日、幹ヶ原池公園に栄子とともに出向いた時だった。

 天気は皮肉なくらいの快晴で池の側でたたずむ二人の真上に、真夏の太陽が照りつけている。

 吹き出す汗、蒸し返す熱せられた空気、それにめまいさえ覚えそうだった。

 池は一時的に水をさらい底にたまった泥をかき分ける作業をしていたが、朝から正午まで四時間近くの捜査の結果、見つかったのは剛史の物と思われる右足のスニーカー、そして華蓮の物と思われる左足のスニーカーだけだった。

 昨日華蓮と剛史が池に落ちたという証拠である。

〈あの中に…… 草薙くんが〉

 確かに池の底に現れた真っ黒な渦、そこに引き込まれそこから放たれた光によって水晶がくだけ、華蓮の身体が押し上げられた。

 記憶は曖昧、夢であればどれほど気が楽であろうか。

 だが今、自分が手にしている水晶のかけら……それを見るたびに現実に引き戻される。

 気を失いながら堅く閉じた手のひらに残っていたのが、まるで涙のような形の水晶である。

 わずかに蒼みを帯びたそれ、亀裂が幾重にも入り透明感はもうない。

 現場に西村和美が居た。

 和美は挨拶もなく、いつもの笑顔も無く、華蓮を見つけるなり彼女の頬を平手で叩いた。

 一瞬目の前に火花が走った華蓮、彼女が再び和美の顔を見たとき、大きなそして綺麗な瞳から涙が流れ続けていた。

「どうして、どうしてあなたが助けられなかったの!」

 華蓮は何も言えずただうつむく。追い打ちをかけるように和美は叫んだ。

「人魚姫なんでしょう、水の中なら大丈夫なんでしょう? どうして剛史くんを引き上げてくれなかったの!」

「ごめんなさい……」

「謝ってもすまないわよ!」

「待てよ、西村!」

 割って入ったのは栄子だ。

「草薙を助けられなかったのはあたしも同じだ。華蓮を責めるのならあたしの頬も叩いたらどうだ?」

「いいんだよ、栄子」

「よくない……西村」

 栄子は再度和美を見た。

「あんたが悔しがるのも判るけど華蓮だって」

「判ってるわよ! でも……」

 和美はそれ以上言葉をつなげられなかったようだ。顔を手で隠すと華蓮と栄子に背を向けた。

「西村さん」

 その背中に華蓮の小さな声が。

「……ごめんなさい」

「もう謝らないで」

 和美は振り向かず、そのまま逃げるようにその場を去った。

 彼女の小さな背中を見て華蓮は『草薙剛史がいなくなった』という事実を実感したのだった。


  §


 西の空が燃えている。

 華蓮は一日がこんなにも長いものとは思わなかった。そして自分の周りにこんな風景があることを忘れていた。

 練習には参加できずもちろん泳ぐこともできない。

 かといって家に帰る気分にもならず、校庭で運動部の練習を見ていることも、商店街に出かけて時間をつぶすことも出来なかった。

 夕刻、彼女は校舎の屋上から沈みかけた太陽を見ていた。夕日の照り返しに風景の色彩がオレンジに統一されている。

 いつも見慣れたブルーの世界に比べれば、暖かさを感じさせるはずの色合いが逆の感情を起こさせるのはなぜだろう。

 自分の右手を見る。

〈……人魚姫〉

 自分はそう呼ばれていたのに、そう呼ばれることを言葉で否定しておきながら内心喜んでいたのに。

 水の中であれば自分は完璧だと思っていたのに。

〈だがわたしは〉

 強く握り締めた手のひらは、自分一人の分の体温しか感じられない。

「華蓮……」

 その声が聞こえなかったわけではないが、彼女は振り返らなかった。

 声をかけた主もそれを気にせず華蓮の影に、自分の長い影を重ねる。

 栄子は華蓮と一メートルほど間をあけ金網越しの夕日を見ていた。

 言葉は何も出ない。わずかに吹く風がふたりの長い髪を揺らしていた。

「西村の事さ……」

「判ってる。しょうがないよ」

 華蓮は栄子の言葉を途中で遮りゆっくりと顔を向けた。強がって微笑んで見せてもごまかせる相手ではない。だから何も表情を作らなかった。

「西村さんに叩かれたこと……怒ってもないし、わたしは何も言えない」

「西村はさ、華蓮が草薙を助けられなかった事だけが悔しかったんじゃないんだよ。だから別れ際にあんな事を言ったんだ」

「どういう事?」

「きっと西村は本当に恋人になれなかったのさ」

 華蓮は力なく笑う。心から笑えないのに栄子の言葉があまりに滑稽に聞こえたのだ。

「そんな事ないよ。草薙くんが女の子を名前で呼ぶの、西村さんだけなんだよ。だからきっと……」

 自虐的とも言えるそれに栄子はある物を差し出し華蓮に答えた。

 それはスケッチブック。

 竜虎の店先で雨宿りをしたとき、剛史の脇腹から抜き取った物。自分のベストをカバー代わりにかぶせた物である。

「それが何」

「中を見てみろよ」

「知ってるわ。西村さんの絵が描いてあるから」

 華蓮がそう答えたにも関わらず栄子はそれを彼女の前に差し出す。

「何よ、どうしてそんなにそれを押しつけるの?」

「いいから中を見ろよ」

 華蓮はスケッチブックを受け取った。

 華蓮の嫌がることを栄子は押しつけたりしない。そんな彼女だから他に言いたいことがあるのだろう。

 華蓮は表紙をめくった。

 夕日に赤く染められた画用紙の中に水着姿の和美が居る。

 栄子に文句を言おうとしたが彼女は穏やかな目で華蓮を見ていた。ページをめくれと切れ長の中にある瞳が語っている。

 華蓮はおそるおそるページをめくる。数枚の白紙のページの後に現れたのは。

〈わたし……〉

 制服姿の華蓮が居た。肩にカバンをぶら下げてこちらに向かい笑っている華蓮。

「それだけじゃないぜ」

 栄子の声に操られるように次のページをめくる。

 竜虎でかき氷を食べる華蓮、真夏の太陽の下でその日差しを腕で遮る華蓮、学校の中庭でサンドイッチを摘む華蓮……

 スケッチブックに書かれた人物、それは全て華蓮だった。

 どれも彼女の微笑む姿だ。それらのどの絵も最初にある和美の絵に比べて細かく、そして優しく描かれていた。

「……こ、こんな絵描いてるなんてストーカーと同じじゃない」

「そうかもな。でもあいつはその中のたった一人の女の子の姿しか見ていなかったんじゃないのか?」

「……違うよ」

「華蓮、おまえさ……」

 栄子は文句を言おうとしたのだろう。しかしそれは出来なかった。

 すぐそばに居た小さな女の子はスケッチブックを閉じてそれを胸で抱き締めていた。

 肩を小さく震わせそれに誰かの体温を思い出すように。

「……違うよ」

 震える自分の身体。

 見せたくなかった本当の絵。だからなおさら自分の周りを染めるオレンジ色が、辛く悲しく彼女を傷つけるのだ。


  §


 家に帰った華蓮は、夕食に手を付けることなく自分の部屋に引きこもっていた。

 二人の姉が一回ずつ彼女の部屋の外から呼びかける。

 蘭は、

「おかず、食べちゃうよ」

 百合は、

「あんたの好きなグラタンだよ」

 そう、いつもと変わらない言葉をかけてくれた。

 だがそれに答えることができない。

 机の上の涙の形をした水晶、それをただじっと見ていたのだ。

 試しにそれ越しにベットの上のトールを見てみた。だが無数の亀裂の走るそれが見せたのは、いくつにも分割されたぬいぐるみのトールの姿であり、立って笑うウサギの姿ではない。

 この間見た嘘が現実なら、現実だって嘘になりそうなものなのに。

 水晶が砕けたことが現実なら、彼が消えてしまったことを嘘に出来るかもしれないのに。

 自分を取り巻く不思議の全て、それが幻になれば彼は帰ってくるのだろうか。

 彼が帰ってきた瞬間にそれも幻になってしまうのではないか。

 瞳を上げるとそこには額縁に納まった絵がある。

 彼が書いてくれた自分。

 誕生日のプレゼントにと無理矢理取り上げた彼の絵。右下に日付とサインが入っている。

〈……何を考えたらいいんだろう〉

 何を考えても無駄。

 考えつくことは同じ。そしてそれは考えたくない事。

 ドアをノックする音がする。華蓮はそれに答えなかった。聞こえなかったわけではない。

 再度ノックする音。華蓮はドアを見たがまた何も言わない。

「華蓮、入るわよ」

 今度は声だった。その声の後にすぐドアが開いた。

 トレイを抱えて入ってきたのは華蓮の母親、蓮美はすみだった。

 華蓮の部屋のドアには鍵があったが普段それを使わない。蘭も百合も部屋の中に居ようが居まいがきちんと鍵をかけているのに比べ、あまりに不用心といえるが姉たちは末娘だからと納得している。

「ママ……」

「おなか空いてるでしょう」

 蓮美は微笑みドアを閉じる。

「……いらない」

「そう言うと思ったわ。でも冷めない内に食べてね」

 姉妹の中で華蓮は一番母親に似ていた。大きな瞳、ちょっとたれ気味の目尻、なにより童顔。

 とても二十二才の長女を筆頭に三人の娘がいる母親には見えなかった。

 夏に入ってすぐ髪を短く切ってしまったが、伸ばすと癖毛がウエーブを作り、ますます華蓮と見分けが付かなくなる。

 トレイの上に乗っているのはグラタンの皿、そこから焦げたチーズの香ばしいにおいが華蓮の鼻腔をくすぐる。

「……食べたくない」

 そうは言ったものの次の瞬間に小さく鳴ったお腹。華蓮は顔を真っ赤にして顔を背けた。

「身体は正直でしょう。さあ、食べなさい」

 蓮美はトレイを華蓮の座っている机の上にそっと置いた。そしてベットに腰掛けトールを膝の上に乗せた。

「トールもずいぶん薄汚れたのね」

「……うん」

「でも、洗ったりするのは嫌なんでしょう?」

 華蓮は無言で答えた。

 ウサギは水に付けると死んでしまう、子供の頃に見たテレビでそんな事を言っていた。

 華蓮はそれを信じトールが家に来て以来、ウエットティッシュで軽く拭くことはあるが、湯船に付けて洗ったことはない。

「温かいうちの方が美味しいわよ」

「……きっと何を食べても美味しくない」

「ママに話してくれる?」

 華蓮がイスを回転させてゆっくり振り向くとベットの上、トールを抱きかかえて優しく自分を見つめる母親の姿があった。

「……助けられなかった」

「誰を?」

「草薙くん」

 蓮美は何も言わずただうなづくだけだ。

「草薙くんはわたしを助けようとして池の中に落ちて、わたしはあいつを助けようと思って池に飛び込んだのに……あいつの手を捕まえることが出来なかった」

「でも、華蓮もおぼれかけたのよ。あなたの責任ではないはずでしょう」

「違うわ、わたしが助けなければいけなかったの!」

「何故?」

「見たから、草薙くんが溺れる姿を見ていて、泳いじゃダメだっていったのにわたしが襲われたら、あいつが……」

 華蓮はイスに座ったままうつぶせる。イスがぎしぎしと悲鳴を上げた。

「泳げないって言ってたのに、自分で判っているはずなのに!」

「……あなたはその男の子が好きなの?」

 さりげない母親の一言、華蓮は顔を赤らめて蓮美を見た。

「そ、そういうんじゃなくてただ草薙くんはわたしと……」

「華蓮」

 それまで静かで優しかった蓮美の声が変わった。声だけでなくその表情も。

「今この場所で自分を偽る必要はないのよ」

「べ、別に偽ってなんか」

「いい、偽りの言葉で自分をごまかしてはだめ。その言葉はいつか本当になって自分に降りかかるわ。その時になって後悔するのは華蓮なのよ」

 華蓮は拳を握り締めそして震えていた。

 わずかに動く唇、声にならない呻きのようなそれは。蓮美の耳にやっと聞こえるような言葉。

「……好き」

 その言葉と同時に関を切った涙が華蓮の頬に流れる。

 公園で自分を叩いた和美のように嗚咽を繰り返しながら止まらない涙、剛史が居なくなったときから感じていた感情のはずなのに。

「わたし……草薙くんの事が好きなの」

 悲しさ寂しさ助けられなかったという思い、指切りが出来なかったという思い、スケッチブックの中の自分を見たときに彼は自分の事を見ていたというのに。

「どうして……居なくなったの? わたし、わたし、好きなのに……」

「華蓮……」

「ママ!」

 華蓮は席を立って母親の胸の中に飛び込んだ。

 涙が流れ続けた。強がってそれでいて怖くて見ることが出来なかった自分の本心にふれ、もう一人では居られない。

「華蓮……聞いて」

 母親の温かい手のひらが優しく華蓮の背中をなでていた。

「もし、その男の子があなたの運命の人だとしたら、きっともう一度巡り逢うことができるわ」

「運命の……人?」

「そう。たとえどんな事があってもお互いを思い合う絆を切る事なんて、神様だってできやしないの。でもね、それは願うだけではだめなのよ」

 華蓮はゆっくりと顔を上げた。

「もう一度逢えると信じること、そして逢うために努力すること。あなたは小さな頃からなんでも一生懸命やってきたでしょう。だからきっとその男の子とも出逢う事が出来るわ。だって……」

「だって?」

「ママだってどんな男の子か見てみたいから。人魚姫のボーイフレンドがどんな子かね……連れてきてくれるでしょう?」

 うなづく華蓮。蓮美は華蓮の頭をなでた。

「その子にこんな悲しい顔を見せないためにも、今のうちに泣いておしまいなさい。そして……自分の運命を信じるのよ」

 その言葉とともに再度わき出す涙。

 今このときそれを押さえる必要は無かった。

〈きっと逢える……逢ってみせる〉

 机の上で華蓮の涙とともに光る水晶。

 ドアの外で声を殺しじっと中の様子を見る二人の姉。

 そしてトール。

 華蓮はいくつもの心に囲まれ泣き続けた。


■Scene 8 旅立【Departure】に続く

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