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‘あ・り・す’  作者: みやしん
■ Channel 3 Ninib:
25/52

■Scene 24 選択【Choice】

 いつの間にか……そんな表現がぴったりであろう。

 今し方目の前でハルワタートとタルウィが新たに開かれたチャンネルに落ちるところを見たはずなのに、いま華蓮は何もない空間に居た。

〈……ハルワタートとタルウィはどこにいったの?〉

 華蓮の問いかける先は当然トールである。

 しかし、いくら待っても彼からの返事は帰ってこない。

〈トール、どこかに居るんでしょう?〉

 せかしたところで返事は帰ってこない。いま、ここに居るのは自分一人なのだろうか?

 ついさっきまで、あの二人を心配していた華蓮だが、それが一段落すると次に自分の所在が不安になった。

 何も無い空間……それは『真っ黒な空間』というわけではないのだ。

 視覚や聴覚で認識することができない空間。何かを見て何かを聞いているはずなのにその意味を求めることができない。

 強いて色を付ければ灰色であり、強いて音色を求めればノイズである。

 何も存在しない空間……それは言い換えれば、自分が存在しないかもしれないという不安。時間が無意味なここで、華蓮はハルワタートの残したいくつかの言葉を思い出していた。

 彼女は選択の資格がないと言っていた。

 選択――何度も出てくる、『最期の選択』という言葉。

 彼女は死んでしまったのだろうか。

 好きになりかけていたタルウィの手にかかって……あの巨大な剣で胸を貫かれれば、生きていると考える方が無理がある。

 だがあの時、ハルワタートの表情は落ち着いていた。

 苦悶でも怒りでも悲しみでもなく、安らいだ表情。

 それを間近で見ていたため自分はついに悲鳴を上げることは無かった。

 望んでいたのだろうか、彼女が何度も言うとおり。

 では、それほどまでに避けた、『最期の選択』とはいったい。

『あなたはもう一つの橋を渡らなければならない』

 声が聞こえてきた。その声の直後、華蓮の視界が開けた。


  §


 駅前通りから少し歩く。

 商業地と住宅地の境目にこの近隣では一番の規模を誇る、立科[たてしな]総合病院がある。

 九月のとある非。時間は丁度正午、通りを抜けてここに飛び込んだ背広姿の男性が居た。

 背は高くしかも細身。玄関に頭をぶつけるのではないかと思えるがそこはそれ、彼もよく心得ているのだろう。

 自然とお辞儀をして中に入るとそのまま総合案内カウンターに直行した。

 息も絶え絶えに、それでもややずれた眼鏡とネクタイを直し受付嬢のそばに近づいた。

「何でしょう」

「え、ええと……美咲蓮美の夫ですが……」

「ああ、はい、二階の西側ですよ」

〈パパ……〉

 そう、それは華蓮の父親、美咲敬一郎である。

 若作りというわけではないのだが蓮美ほどではないにせよとても若く見えた。

 髪を短く刈り込み微笑む姿もすがすがしいスポーツ青年風なのだが、運動全般はまるっきり苦手である。

 彼はその言葉を待たずに階段に向かって早歩きした。

 この用件でこの病院を訪れるのは三回目であり何となく慣れているのかもしれない。

 早歩きも一回目に思いっきり走って、看護士に怒られていらい気をつけているのだ。

 二階にあがって産婦人科のプレートを見つけ、何となくなじみになりつつある看護士の姿が目に入る。

「あ、あの……」

「あら美咲さん。今日は遅かったのね」

 看護士は彼の姿を見て微笑んでいた。

「それで、蓮美は……」

「ええ、つい今し方生まれましたよ。母子ともに元気で奥さんによく似た女の子です」

「お、女の子ですか」

 敬一郎の僅かな表情の変化も見過ごさないのはベテラン看護士のなせる技だろう。

「なんですか。元気なお子さんが誕生したのにその顔は! 女の子だと何か不満でも?」

「い、いえ、そんなことは決して……」

 苦笑いを浮かべ看護士に案内されて敬一郎は病室に入ると、ベットの上で上半身を起こしていた蓮美が待っていた。

〈ママだ……全然変わらない〉

 幾分、ほんの少しだけ今より歳をとっているように見えるのは、ついさっき大事業をなしえたからだろう。

 だが、敬一郎の顔を見て微笑むと、いつもの童顔に戻ったように思えた。

「士長さんに怒られたんでしょ。その顔を見ると判るわ」

「はは……まあしょうがないさ。女の子だったんだって?」

「そうよ。とっても元気な子。予定より一ヶ月も早かったから心配だったけど取り越し苦労だったみたい」

「もう見たのか?」

「生まれた直後にね。元気でも少し体重が少ないから今は新生児室にいるわ」

「そうか」

 敬一郎はそういったあと小さくため息をついた。

「……やっぱり男の子の方が良かったかしら?」

「そうじゃないけど」

「ホントに?」

「……ちょっとだけ残念かな。ここは最後まで性別を教えてくれないから」

「わたしはその方がいいけどね」

「問題は名前だなあ」

 敬一郎は差し出された蓮美の右手をそっと握り締めた。

「もしかしたら女の子の名前は考えてなかったの?」

「いや、そんな事は無いけど。男の子なら龍之介[りゅうのすけ]ってつけようと考えていたからね」

 それを聞いて蓮美は小声で笑った。

「ずいぶんと古い名前ね」

「ぼくさ、芥川龍之介の小説が好きなんだよ。だから運動ができなくてもおもしろい小説を書くような人物になってほしくてね」

「そうね。あなたの遺伝子ではスポーツマンはちょっと無理かも」

「ひ、酷いなあ。ぼくだって努力しているんだよ」

「判っているわ。それで女の子の名前は?」

「そうだなあ」

 敬一郎は口元をゆるめたまま目を閉じてこういった。

「カレン」

「あら、今度は花の名前では無いのね」

「いいや。カは豪華の華、レンは君の名前から蓮。それで華蓮だ」

「華蓮……いい名前ね」

〈わたしの名前……〉

 二人は顔を見合わせて微笑んだ。


  §


「華蓮をスイミングスクールに?」

 七段飾りの前に華蓮はきちんと正座してじっとおひな様を見ていた。

 その横では蘭と百合がひなあられの取り合いをしている。そんな姉妹を見ながら敬一郎は蓮美の提案に声をあげて驚いていた。

「そう……あの子そんなに身体が丈夫な方ではないでしょう。それで立科さんに相談したら水泳させてみたらどうかって」

 蓮美はエプロンをはずしテーブルについた。

 立科とは例の総合病院の経営者だ。そこの医院長婦人は蓮美の知り合いだった。

 蓮美の提案に敬一郎の表情は少し暗い。

「水泳か……でも、華蓮は泳げるのかな?」

「大丈夫よ。最初から何十メートルも泳がせる訳ではないし。紹介されたスイミングスクールだって水泳選手を育てるためのものではないから」

「……うん、ぼくは反対しないけど、華蓮がイヤがったらすぐに辞めさせるんだぞ」

「ふふ。あなたったら華蓮の事になるといつでもそうね」

 華蓮は両親がそんな会話をしているなんてちっとも気にせずただじっとおひな様を見ていた。

 六才の時、蓮美の両親が姉妹のためにと買ってくれた物だ。

 実のところ、華蓮の小学校入学祝いである。

〈あの時、きれいだなって思っていたの〉

 背後で姉たちが騒ごうと蓮美が呼ぼうともただじっと。

 真っ白な顔は色白だった自分とそっくりだった。

 そんな事は関係なしにじっと見ていた。


  §


 スイミングスクールに通って半年ほど。

 華蓮の様子を見に来た蓮美にそのときのコーチは上気して華蓮の才能を説明した。

「今までどこかのスクールに通っていたんでしょう?」

「いえ……」

「それでは奥さんか旦那さんが水泳選手だとか?」

「それは無いですね。わたしは浮かぶのがやっとですし、主人はほとんど泳げませんから。そんなに華蓮は泳げるんですか?」

 蓮美の何気ない質問にコーチは驚いて見せた。

「泳げるなんてもんじゃありませんよ。まだ小学校一年生なのに高学年組と試合しても十分通用する速さです」

「まあ」

 まるで他人事のような蓮美の驚き。その声を聞いたのだろうか、華蓮はプールの中から飛び跳ねて、

「ママー」

 笑顔で大きく蓮美に手をふった。

〈そう、このときは自分がどうしてこんなに泳げるのか、そんな事もかまわず水と遊んでいたの〉

 人魚……いつの間にか華蓮はそう呼ばれていた。

 でも……

「華蓮、華蓮、しっかりしろ!」

 敬一郎の声。いつもは冷静の見本のような父親が目を見開いて自分の事を見ていた。

 小学校二年生の夏、スイミングスクールでのこと。

 両親も姉妹も応援に駆けつけてきた練習試合の途中、ターンのところで華蓮の両足がつった。

 泳ぐどころかプールに立ち上がることもできない。その異常をいち早く見つけたのは敬一郎だった。

 コーチよりも早く着衣も気にせずに自分は泳げないくせにプールに飛び込んで、華蓮の身体を抱き上げた。

 自分はおぼれたなんて意識はなく、気がつけば父親の大きな腕の中にいた。

 安心感、そんな物かもしれない。

 だからだろうか。

 おぼれたにもかかわらず恐怖感を覚えることも無く、自分は水泳を続けている。


  §


「この子、すごいタイムだなあ」

 慧香中学に入学し水泳部に入った華蓮は、部室に張り出されていた一〇〇メートル自由形のベストタイムを見てため息をつく。

 小学校四年生になり、よりレベルの高いスイミングスクールに変わっても、彼女は相変わらず人魚姫と言われ続けた。

 コーチとしてはより高学年の生徒と練習をさせたがるのだが華蓮も相手もどことなく嫌がる。

 相手にしてみるとどうしてこんなに小柄な少女に勝てないのか、メンタル面に響いてしまう。そんな彼女等(たまに彼ら)の姿を見て喜ぶほど華蓮も単純では無かった。

 華蓮にとって水泳は楽しいことなのだ。もし誰かと一緒に泳いだとしても自分と楽しい時間を過ごせたらと思う。

 水泳の才能はあっても競争の資質に欠けていたのだろう。

 そんな中、一人の天才少女のあだ名を耳にしていた。

 飛び魚の娘。

 華蓮とは別のスイミングスクールに通う同じ都市の女の子。周りでは人魚姫と飛び魚の娘とどちらが速いのかとうわさになっている。

 結局対外試合は行われないまま二人は慧香中学で対面することになった。

 自分よりはるかに長身で水泳選手らしく鍛えられた身体。飛び込む姿も泳ぎ方もターンも、そして最後のゴールタッチも優雅に見えた。

 そして自分より一秒は速いタイム。それを見た時はただ感心した。

 それが飛び魚の娘、北川栄子を初めて意識した時だった。

 そんな飛び魚の娘が、夏休みを開けると部室に来なくなった。

 慧香中学も屋外プールしか無かったので、専門施設で練習しているのだろうと思った華蓮だったが、耳に入ってきたのは意外な話だった。

 栄子が街中の不良を束ねて暴れまくっている。

 華蓮は信じなかった。悪質なウワサだと思った。

 しかし学園祭の日、華蓮は目撃することになる。

 一年生の展示物を荒らして回る栄子の姿を。その顔つきは今まで見てきた水泳選手のそれでは無くなっていた。

 何が彼女を変えたか判らない。しかしウワサは本当だったのだ。

〈あの子とだったらもっと楽しく泳げたかもしれないのに〉

 どことなく失望した華蓮。彼女はそれでも水泳を続けたが、栄子は学校からも問題児として扱われた。

 そして中学二年生の夏。

 部室に向かう華蓮はプールの様子を見ている栄子の後ろ姿を見た。

 もしかして部活を争うと言うのか。

 だが栄子の後ろ姿は「慧香中の栄子さん」と呼ばれた不良のそれでは無く、スターターの音に無条件に反射する水泳選手のそれだった。

〈もしかして泳ぎたいのかな〉

 その時は声をかけることが出来なかった。

 ただ思うところがあって、水泳部の友人にこう話しかけた。

「北川さんとわたし、一〇〇メートル自由形だったらどっちが速いと思う?」

 北川栄子の話題は水泳部においてタブーである。しかもタイムの話となるとなおさらだ。

 ちなみに華蓮のタイムは着実に良くなっていて栄子のそれよりわずかに上だった。

「今だったらわたしの方が北川さんより速いと思うな」

 友人はぎこちなくうなづいたが華蓮のそんな話が伝わるのは速かった。

 翌日、華蓮の狙い通り栄子はやってきた。

「へえ、『慧香中の人魚姫』っていうからどんなヤツかと思ったらただのガキじゃねえか。だいぶいい気になっているってきいたけど、これが相手じゃなあ」

〈わたし、水泳で彼女に勝てるかな〉

 その時初めて、華蓮は勝負に勝ってみたいと思ったのだ。


  §


「やった、ついに勝ったぞ!」

 一〇〇メートル自由形、いつもの華蓮と栄子の勝負も二年目にさしかかった中学三年生の夏。

 ついに栄子は華蓮より早くゴールすることができた。

 飛び跳ねんばかりに喜ぶ栄子。

 きっといつかはこんな日が来るだろうと華蓮は予想していた。

「それで……わたしは裸で校庭一周しなくちゃいけないの?」

 覚悟を決めてそう言うと、待ってましたとばかりに栄子が笑う。

「そんなもんで済むと思ってるのか! いったい今までいくらおごらされたと思ってるんだ!」

「いくらって……」

「今日こそおまえのおごりだからな、ハーゲンダッツ!」

 うれしそうな栄子の顔を見て華蓮もほほえんでしまった。

「いいわよ……約束だからね」

「オウ!」

「その代わり今日は一個だけよ」

「判ってるって、明日も明後日も勝ってやる!」

 この時から二人は本当の友達になったのかもしれない。


  §


「なあ、この問題判るか?」

 クーラーの利いた華蓮の部屋。

 ガラス製のテーブルの上にお菓子と炭酸と教科書にノート。

 そう、あれは去年の夏のこと。華蓮の横にいるのは栄子。八月もそろそろ終わり、二人して遊びすぎて、練習しすぎて、真っ白なのは華蓮のハダと二人の宿題だった。

「ええと……なんで数学をわたしに聞くのよ!」

「じゃあ、だれに聞けばいいんだよ」

 二人で考えれば何とかなるかもしれないと思ったけど、結局どうにもならず二人で同じ問題で頭をかき上げるだけ。

「ああん、もう。全然進まない!」

「こういうときはあれだ、気分転換だぜ」

 栄子はそういってカバンの中からテレビゲームのパッケージを取りだした。

 栄子お気に入りの格闘ゲームだ。

 それをあきれて見るのは華蓮だ。

「ちょっと。昨日もそう言って全然宿題進まなかったわよ」

「だからさ、今日は試合数決めておけばいいんだよ」

 といいつつも栄子はゲーム機を引っ張り出して準備する。

 それこそ勝手知ったる悪友の部屋だ。

「んっもう、しょうがないわねえ」

 そういいつつも二プレイヤー側のコントローラーを握り締める華蓮。

「いい、三試合だからね。それが終わったら宿題するわよ」

「判ってるって」

 実はちっとも判っていない二人。

 結局、勝った負けたを繰り返し夕食まで数十試合を繰り返した。

〈どうしてこんな物を見せるの!〉

 華蓮は叫ぶ。しかし解答はない。

〈どうして!〉


  §


「どうして!」

 その声は実体を伴っていた。

 発した声を音として自分の耳で感じることができる。まるで幽霊のようだった自分の存在感をはっきりつかむことが出来た。

 わずかに波立つ水面の上一メートルほどに、華蓮の身体はふわふわと浮かんでいた。

 ニニブの世界と同じ暗黒の空間。何のあかりも見あたらないくせに自分の身体をはっきり見ることができる。

 そして眼前にいる二人の女性。

 亜美と由実にそっくりな彼女たちがお互いの杖を自分に向けて差し出していた。

 その杖の先に球状のあかりがともりそこに何かが浮かんでいた。

 華蓮から向かって左のあかりにはネボの世界のハルワタートが、向かって右のあかりには慧香学園のプールではしゃぐ、華蓮の姿が。

「あなたは選ばなければならない」

「この二つの橋から一つの道を」

 目の前の姉妹の言葉の意味をつかむのにそう時間は必要無かった。

「……そのどちらかに正解があるっていうの?」

「そうではない。あなたが選ぶ道は常に真実であり」

「選ばれない道は虚実にすぎない」

 そうだ、彼女たちの言うとおり正誤ではない。

 選択せよと言っているのだ。

 ネボの世界のハルワタートとして生きるか、それともシャマシュの華蓮として生きるか。

 だが、華蓮として生きてもそこに草薙剛史の姿は無いのだろう。

 ハルワタートとしての道を選んでも、今の華蓮の記憶にある両親や姉やそして学友の姿はない。

「……これが『最期の選択』だって言うの?」

「そうではない。これは道を決める物」

「二つの橋から‘あ・り・す’様の道を」

 二つの光を浴びながら華蓮は腕組みしてゆっくりと目を閉じた。

 無音である。

 呼吸音も鼓動すらも聞こえない。波の音も光の揺らめく音も、華蓮の衣擦れも聞こえない。

 静寂の中、時間さえもその存在を忘れていた。

 誰も動かない、誰もしゃべらない。それが止め絵だと言っても誰もが信じたであろう。

 それほど華蓮は考えていた。

 何度かトールを呼ぼうと思った。しかし彼の気配はここにない。

 すべて自分が決定しなければいけないのだろう。

 今まで歩んできた二つの橋、そのうちのどちらかを選べ、というのなら……

 華蓮は腕組みを解いてゆっくりと瞼を開いた。

「わたしは……どちらも選ばないわ」

 透き通る声でそう言ったのである。

 その答えに動揺とは無縁の存在に思えた目の前の二人の顔に、焦りの表情が見えた。

「……だが、あなたは今見た二つの橋から選ばなければいけない」

「真実と虚実を選ばなければいけない」

「……わたしにとっては二つとも真実。もし、選ばれなかった世界が虚実になるなら、どちらも選ばない」

「しかし……」

「二つとも、わたしにとっては過去の出来事よ。だからわたしは未来を選ぶわ」

「未来……」

 二人の差し出していた杖から二つの橋で見た映像が消えた。

「わたしにとって二つとも大切な世界よ。ママだってパパだって、蘭姉ぇも百合姉ぇも、栄子もみんなも、アールマティももう一人のエーコも……そして、草薙君も大切な存在よ。誰一人切り捨てる事なんてできないわ」

 目の前の姉妹の杖はいつの間にかだらんと下がっていた。

「二つのうち、どちらかを選択すればそちらは確実に残るのかもしれないけど……わたしは欲張りだからどちらも選択する。そのためにわたしは旅を続けるのだから」

『それでよいのですね、ネボの‘あ・り・す’』

 もう一つの声が響いた。

 三人が存在する世界の全方向から響く。深みがあってそれでいて優しさを感じる女性の声だ。

「……その声は、ニニブの‘あ・り・す’?」

『そうです……』

「姿を見せて」

『残念ながらわたしにあなたのような姿は存在しません。ニニブの‘あ・り・す’は観念的存在なのです』

 そのはっきりとした意味は判らなかった。

『あなたは二つの橋を選択しなかった……それは、より過酷な道を選択したのかもしれませんよ』

「構わないわ!」

『のちのち、後悔するかもしれませんよ』

「……そのときに後悔すればいいんでしょ」

 そう言って華蓮は笑って見せた。

「学校のプールにできた穴に飛び込んだ時から、きっと覚悟はできていたんだと思うわ。だからわたしは先に進むの!」

『判りました……ネボの‘あ・り・す’よ、水晶を差し出しなさい』

 華蓮は言われるままに胸元から水晶を取り出した。

『ニニブの力を取り入れたそれは、ネルガルへの道を開くでしょう』

 真っ暗な空間が黄金色に輝いた。

 ただし、まぶしさは感じず、あらゆる方向から金色の光の線が華蓮の水晶に飛び込んで来のが見えた。

 まばゆい光がやむとまた元の真っ暗な空間に戻る。

 華蓮の水晶だけが淡い黄色に輝いていた。

「……教えてニニブの‘あ・り・す’。わたしの選択って間違っているのかな?」

『それはこれから先あなたが見つめていく物』

「そうよね……答えは自分で求めないとダメなんだ」

『あなたは強い‘あ・り・す’ですね』

 華蓮は束ねた髪をいじりながら苦笑いをした。

「……そうでもないわ。ただ意地っ張りなだけかもしれない」

『ネボの‘あ・り・す’に祝福を』

 その言葉とともに意識が切れた。


  §


「……姫、姫っ!」

 何度か身体を揺すられてゆっくりと目を開くとそこに、自分を心配そうに見つめる栄子の顔があった。

 ただ、視線を彼女の首から下に移動すると、普段着とは思えない服装だった。

〈栄子……変な格好〉

「姫、お気づきですか?」

〈それにどうしてわたしの事を姫って呼ぶの? いつもの通り華蓮って呼んでよ〉

 うつろな視線を移動するとそこには自分を見つめる男性が一人。

 そしてローブをかぶった女の子が二人。さらに赤い瞳のウサギが一匹。

 ただしそのウサギは後ろ足で直立していた。

「ようやくご帰還ですな‘あ・り・す’様」

〈‘あ・り・す’?〉

 言葉を操る不思議なウサギ。彼の名前はトール。それは、‘あ・り・す’に従うものと言う代名詞。そして、その‘あ・り・す’こそがわたし。

「帰ってきたの?」

「そうですよ。‘あ・り・す’様は二つの橋を越え、そしてここに戻ってきたのです」

 華蓮はゆっくりと上半身を起こした。

 彼女が無事な様子を見て安堵のため息をついたのは栄子――いや、ネボの衛兵、エーコである。

「姫、ご無事ですか?」

「……無事よ。でも、その姫って呼ばれ方は抵抗があるなあ」

「どういうことです」

「ついさっきまであっちの世界の栄子に逢っていたからね」

 華蓮はすっと立ち上がり傍らに控えている二人の女の子を見た。

「……あなた達のことはなんと呼べばいいのかしら?」

「わたしたちに名前は無く」

「わたしたちに個性はありません」

 その答えに華蓮は首を左右に振って見せた。

「わたしの居た世界ではね、あなた達にそっくりな姉妹がいたの。亜美と由美っていうんだけど……顔立ちはそっくりでも性格が全然違っていてね」

 二人は華蓮の言葉をただ黙って聞いていた。

「でも、不思議なんだ……二人を同時に見る事が無かった。だからこうして二人を見ているとなんだかうれしいな」

「わたしたちは……」

「違う、たちはいらないよ。二人で一人じゃなくて一人ずつなんだから」

 華蓮の胸元の水晶が金色に輝いている。

「‘あ・り・す’様。そろそろ次の世界へのチャンネルが開くようです」

「もうここともお別れなんだねトール」

 水晶が点滅しそのたびに光輪が飛び出して華蓮とエーコと、マナフとトールそれにカズミを取り囲んで回転を始めた。

 旅立ちである。

「……アミ、それにユミ……名前が判らないからそう呼ぶけど、あなたたちの事も忘れないよ。この世界の事も」

「‘あ・り・す’様」

「……わたしは美咲華蓮。だれもそう呼んでくれないけど」

 旅の仲間を包んだ光輪が一気に収縮した。

 瞬きの間にその姿は消えていた。


  §


「……姉さん」

 取り残された二人の少女の内一人がこうつぶやいた。

 本来ならそれを諫めるはずのもう一人は、旅の一行が消えた空間をただ見つめていた。

「‘あ・り・す’様はわたしたちの名前を知っていた」

「それは‘あ・り・す’様だから」

「でも、二つの橋を越えていきながら、どちらも選択していない」

「……選択できなかったのかもしれない、弱い証」

「違う……弱いからではない」

 その時、無表情に見えた姉が妹に微笑みかけたのだ。

「わたしたちに個性は無かったはず。でも、いつの間にか考えが異なっていた」

「……‘あ・り・す’様は知っていたのね」

 二人はそろって杖を天に掲げた。

「‘あ・り・す’様の行く先に祝福を」

 それは、姉妹がお互いを意識せずに初めて重なった言葉かもしれない。


■Channel 4 Nergal:

■Scene 25 魔剣【Sword】に続く


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