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第二十九章 帰る

春はまだ遠かった。

椿の花が一輪だけ咲いていた。

沈帰塵は庭に立っていた。

老婦人が縁側へ出てくる。

今日は足取りが軽かった。

「また来ていましたね。」

沈帰塵は少し笑った。

「はい。」

老婦人は椿を見つめた。

「昔も、この花を見た気がするの。」

「そうですか。」

「ずっと昔。」

沈帰塵は何も言わなかった。

老婦人は続けた。

「中国の人だった。」

「若かった。」

「曾祖父と一緒によく来ていた。」

沈帰塵は静かに聞いていた。

「石舞台へ行く人だった。」

「何かを探していた。」

「でも最後には、見つかったと言って笑っていた。」

風が吹いた。

椿が揺れる。

沈帰塵は空を見上げた。

一千三百年前。

阿倍仲麻呂は帰国できなかった。

奈良へ戻ったのは、

荷物だけだった。

書物。

手紙。

欠けた玉。

珠。

それだけが海を渡った。

人は帰れなかった。

だから因縁だけが残った。

沈帰塵は、その因縁を追い続けた。

長安で。

敦煌で。

洛陽で。

何百年も。

答えは見つからなかった。

答えは、

日本に残されていた。

人ではなく。

遺されたものの中に。

老婦人が言った。

「思い出したの。」

「何をですか。」

「ありがとう、って。」

「その中国の人が言ったの。」

「帰れなくても、大丈夫だって。」

沈帰塵は目を閉じた。

ようやく、

終わった。

探していたものは、

鉄箱ではなかった。

断玉でもなかった。

石舞台でもない。

帰れなかった人の思いだった。

それが、

奈良に残っていた。

高田は今日も若草山へ登っている。

清乃は曾祖父のノートを読み続けている。

店の猫は、

いつもの石段で眠っている。

山も。

川も。

石舞台も。

何も変わらない。

変わらないものが、

誰かに守られてきた。

沈帰塵は珠を手首へ巻いた。

冷たかった。

だが、

もう重くはなかった。

彼は門を開ける。

振り返らない。

奈良の町をゆっくり歩き始めた。

風が吹く。

どこかで鈴が鳴った気がした。

彼は小さく笑った。

歩き続ける。

今度は、

探すためではなく。

生きるために。


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