日常と惨劇の境目
一人になったアルは何度も涙を流し、衝動に任せて草や体をかきむしった。それが終わると今度はどうしようもない虚脱感に襲われ、トカゲの死体と泉を眺め続けた。
結局、アルがおぼつかない足取りで村へ戻ってきたのは日が暮れ始めた頃だった。
夜にはまだ早いにも関わらず、村は息を潜めるように静まりかえっていた。外には誰一人として出歩いている者はいない。
だがアルの家へ近づくなり、家の玄関からラナとクライブが姿を見せた。クライブの怪我は真新しい布で止血されており、ラナが彼を支えている。
クライブの険しい表情とラナの心配した表情から、二人ともアルの帰りを待っていたことがうかがえた。
「早く中へ入れ! ここもいつ襲われるかわからないんだぞ!」
クライブの叫びを聞いても、アルの足取りは変わらない。
ようやくアルが家の中に入ると、クライブは壊れるような勢いで扉を閉めきる。そして鍵代わりの棒や家具で、扉を固定した。
「大丈夫か? 怪我してないよな」
「……それより父さんは?」
たずねたクライブではなく、ラナが家の奥を指し示す。そこには、寝かせられた父親の死体と死体をじっと見続ける母親がいた。母親の頬に涙の跡を残っているのを見つけてしまい、アルはまた泣きたくなってくる。
しかし涙が流れる前に、クライブでもラナでもない声が奥から聞こえてきた。
「戻ってこれたか。ここまで誰にも会わなかったみたいだな」
声がしたほうにはダルドがいた。そばにある机には狩猟用の鉈と弓矢、小瓶が置かれていた。
「……はい、会いませんでした」
「ならば、もう少し猶予があるというわけだ」
そう言うなり、ダルドは質問を拒むかのように作業を再開する。彼は矢のやじりを慎重な手付きで小瓶の液体に浸していた。
ダルドに話しかける勇気がないアルは、代わりにクライブとラナに質問する。
「……どうしてラナやダルドさんがうちにいるの?」
「ラナがうちを心配してくれたんだよ。親父は死んで、俺はこの足だからな。ありがたいだろ?」
あてつけがましい言葉はクライブが答える。
そこへ作業していたダルドが顔を動かさず、話に入ってきた。
「それに聞かなければならないことがあってな。アル、光の鏡でなにをした。魔物が現れたのには相応の理由があるはずだ」
「……やっぱり、あれは魔物なんですか」
「他になにがある。銀髪もそう言っていただろう」
魔王の配下であり、人類の天敵である魔物。それが自分の世界に現れたことを、アルは心のどこかで認めたくなくなかった。だがダルドはそれを許さず、現実を直視させてくる。
「セリアさん……、いえ、銀髪の人は剣を探しにこの村へ来てたんです。それで探すのを手伝うため、僕が光の鏡へ潜りました。銀髪の人は泳げなかったので」
「……潜っただと! 貴様、自分がなにをしたかわかっているのか! あの泉はエスト様が作ったのだぞ!」
今まで物静かだったダルドが激昂し、大声を上げた。矢や瓶を放り出して、アルへ詰め寄ってくる祖父にラナは体をすくみあがる。
「魔物が現れたのは貴様のせいだったのか! おそらく泉には魔物が封印されていたに違いない! 水路のせいで弱まっていた封印を、お前が解いてしまったのだ!」
「待てよ。なんでアルのせいなんだ」
好き勝手に持論を作り、叫ぶダルド。それに異論を唱えたのはラナに支えられているクライブだった。
「銀髪は魔王や死神の前兆なんだろ。普通、疑うならそっちだろうが」
「だったら、その銀髪に協力したせいに違いない! いずれにしろ、すぐに他の人間とも相談せねばならん! アル、貴様も一緒に来い!」
ダルドが呆然としているアルの腕を掴み、連れて行こうとする。
奥の部屋から嗚咽が聞こえてきたのは、その直後だった。声を押し殺して泣いているのは、父親の亡骸に寄り添っていたアルの母親だった。
「親父が死んだばかりだってわからないのか? 騒ぐならどっか行けよ」
ばつが悪くなったダルドに、冷めきったクライブの声が追い打ちをかける。
「……とにかく、この問題は放置しておけん。明日にでもアルも交えて話し合う。わかったな」
アルから手を離すと、捨て台詞を残してダルドは外へ出て行った。
それを見届けたクライブは大きく長いため息を吐く。それから優しげな顔で、アルヘ奥の部屋を指差した。
「アルも聞いただろ。明日の朝も面倒なことになりそうなんだ。早く休んどけ」
「……クライブはどうなんだよ。お父さんが死んだのは僕のせいだって思ってるの?」
実際、アルは父親が死んだのは自分のせいだと思い始めていた。 そしてアルの父親は、クライブにとってもかけがえのない父親であった。なのにクライブが自分を気遣ってくれることを、アルは違和感を感じていていた。
その違和感は正しかった。
「……いちいち聞くなよ」
激情のこもった言葉のと共にクライブの笑顔が剥がれ落ちていく。だがそれも一瞬のことで、クライブはすぐに新しい笑顔でそれを覆い隠した。
「寝とけ。母さんは俺が面倒を見る」
アルは頷くしかなった。
奥の部屋で一人になると、アルは布団も敷かずに横になった。
そのアルを追いかけて、ラナも奥の部屋へ入ってくる。扉を閉めたことを確認すると、彼女はアルへ詰め寄った。
「……みんなの迷惑になるって私、言ったよね?」
「……うん、ラナの言うとおりだった」
ラナは最初、アルを問い詰めてやろうと考えていた。
だが死体となったアルのおじさん。ただ泣くばかりのおばさん。怖くなってしまったクライブと自分の祖父。どこにも日常のない光景を目の当たりにし、いつの間にか追求の言葉は懇願に変わっていた。
「だったらお願いだから、これ以上変なことしないで。私達なんかじゃ、もうどうにもできない問題なんだから」
「……わかった。勝手なことはしないようにする」
「約束だからね。ちゃんと覚えておいてね」
「……うん」
まだ不安そうだったものの、ラナは部屋の扉を開ける。しかしアルが床の上で丸まるのを見て、慌てて部屋の中に戻ってきた。
「ちょっと! ちゃんと布団で寝なさいよ」
「……いいよ、このままで」
「ああもう! 私が敷いてあげるからどきなさい!」
動かないアルをどかし、ラナは空いたスペースにテキパキと布団を広げた。
「……ありがとう、ラナ」
「今回だけだからね!」
自分の甘さが恥ずかしいのか、去り際にアルの頬をつねってからラナは部屋を出ていった。
一人になったアルは布団に潜り、目を閉じる。すべて夢であってほしいと願いながら。
だが、いつまでも聞こえてくる母親の嗚咽がアルの願いを否定し続けた。
アルが眠りについた頃、ある村人は必死に街道を走っていた。すでに太陽が沈んで辺りは暗くなっているが、村人は速度を落とそうとしない。
何故なら彼は、銀髪の女性が現れたことを領主に伝えるという役目を担っているからだ。自分が遅れれば、それだけ村の人間が危険になることを彼は十分承知していた。
その苦労も報われ、村人の前に領主が住む城が見えてきた。すでに周りは暗闇に包まれていたが、かかり火の光が城の輪郭を映し出している。
目的地を見た村人は奮い立ち、今までよりも速度を上げて城へ走っていく。
そんな彼もあと少しで気がつくはずだ。
城を包む暗闇の中で魔物達が息を潜め、襲撃の合図を待っていていることに。
アルが最初に見たのは、窓から差し込む太陽の光だった。いつもと同じ光景に、ついアルは今日の手伝いや狩りの修行について考えてしまう。
だがすぐに昨日の出来事を思い出して、胸に穴が開くような痛みを覚えた。
逃げ出したくなる衝動に耐え、アルは何度もためらいつつ扉を開ける。昨日と同じ、父親の亡骸と離れない母親がいた。
朝食を並べていた手を止め、ラナが挨拶してくる。
「おはよう。ちゃんと眠れた?」
「……うん、それよりクライブの怪我はどうなの」
「それが……」
ラナが話す前に、当の本人であるクライブがやってきた。アルが寝ている間に作ったのか、彼は木製の杖を手に一人で歩いていた。 だがアルとラナのところに辿り着くこともできず、バランスを崩してしまう。慌ててラナが駆け寄らなければ、そのまま倒れていたのは明白だった。
「……やっぱり無理だよ。家にいたほうがいいって」
「杖にまだ慣れてないだけだ。それにな、アル一人で集会所に行かせられるか」
ラナの支えを拒み、なおもクライブは一人で立ち上がろうとする。だが所詮は無理をしているだけで、またすぐにバランスを崩してしまった。倒れそうになるクライブを今度はアルも支えた。
「ラナの言うとおりだよ。それにさ、クライブまで来たらラナや母さんを守る人がいなくなるだろ」
「……わかってるよ」
アルの言葉は建前で、ただ安静にしていることだけを求めていることはクライブもわかっていた。クライブは悔しそうな顔でアルとラナに支えられ、テーブルまで歩いていった。
テーブルの前には、一人先に朝食を食べ終えたダルドがいた。弓の点検をおこなっている彼は、クライブを助けようとする素振りを少しも見せていなかった。
「アル。朝食が終わったら集会所へ行くぞ。他の皆も来る」
「はい」
おそらくその場にアルの味方はいないだろう。だからこそ、クライブは無理をしてでもついていこうとしたのだ。
不安になってきたラナが顔を寄せ、自分の祖父には聞こえない音量でアルにたずねる。
「……クライブの代わりについていってあげようか?」
「……いいよ。クライブや母さんと違って、これは僕のせいなんだし」
「……アルがそう言うなら、それでいいけど。だったらせめてたくさん食べていきなさい。昨日からなにも食べていないんでしょ?」
「……ごめん。あんまり食欲ない」
少しでも励まそうと作った料理を無視し、アルはパンとスープにだけ手をつける。その二つも半分残して立ち上がった。
「準備できました」
「そうか」
ダルドも点検していた弓矢を背中に携えて立ち上がる。
同時に、朝食を食べていたクライブが顔を上げた。
「気をつけろよ。なにかあったら、すぐ俺のところへ逃げてこい」
クライブの表情は怒りや憎しみではなく、アルを心配しているものだった。いつもの表情と父親のような言葉に、アルは自然と笑顔になる。
だが二人の感傷をダルドは理解できない。立ち止まったアルの手を引っ張り、むりやり外へ連れ出していく。
「もたもたするな。さっさと行くぞ」
「……二人とも母さんのこと、頼むね」
最後まで他人の心配をするアルを、不安げなラナや悔しそうなクライブが見送った。
ただし、アルの母親だけは目もくれず、じっと父親の亡骸を見つめていた。
「……銀髪の人は剣を探していたって言いましたよね。心当たりとかありますか?」
「ないな」
突き放すような返事に、アルは言葉を続けることができない。ダルドの態度は頑なを通り越して、拒絶に近かった。
これも自分のせいだと諦めたアルは気まずい雰囲気のまま、水路のそばを歩き続ける。
だが道の途中で水路の端に転がっていた物が、アルの足を止めた。
「すいません。ちょっとだけ待ってもらっていいですか? すぐ戻ってきますから」
返事を待たずにアルは道を逸れ、草むらの中へ足を踏み入れる。
アルが水路のそばで見つけたのは、クライブと共に水路から引き上げたあの箱だった。
箱があるなら近くに錆びた棒もあるはず。
そう思って草むらを掻き分けた瞬間、アルの目の前にあの錆びた棒が現れた。探し始めると同時に見つけられたことにアルは狼狽する。
何故か、この棒が探すのを待っていたかのような気がした。
「どこへいく! 貴様、逃げるつもりか!?」
そこへダルドが草むらを掻き分けて、アルに詰め寄ってきた。振り返るアルを逃がさないよう腕を掴む。
そんなダルドに、アルは拾った棒を差し出した。
「これも前に話しましたよね、水路から箱を引き揚げたって。その中身がこれなんです。もしかして光の鏡に関係してたりしませんか?」
「……」
ダルドは目を細め、真っ黒に錆びた棒を凝視する。が、すぐに怒りに満ちた表情へ変わった。
「だったらこれがなにか教えてやろう。誰かが捨てたゴミだ! わるあがきもいい加減にしろ!」
そういうなり、アルを掴んだまま歩き出した。
引きずられていく中で、アルはゴミ扱いされた真っ黒な棒を確かめる。
どこを見てもダルドやクライブの言うとおり、ゴミ以上のものではなかった。なのに今もこの棒が気になっており、捨てることもできない。
その理由すらわからないことが、アルをざわつかせていた。
(セリアさんはこの棒をどう判断するんだろうか。自分が気になっている理由を教えてくれるのか。それとも、クライブやダルドさんと同じようにゴミ扱いするんだろうか)
考えるにつれて、この棒をセリアに見せてみたいという欲求がアルの中に芽生えてくる。ただし、勝手なことはしないでと、ラナに釘を刺されていることを忘れたわけでもない。
アルは錆びた棒を捨てられないまま、集会所に辿り着いてしまった。
朝早いせいか、今日の集会所には村長と彼の従者以外誰もいなかった。
「来たか。アル、お前はここに座りなさい」
挨拶も父親の死を悔やむこともせず、村長は自分の隣に座るよう指示してくる。だが指示をしなくても、腕を掴んでいるダルドが強制的にアルを村長の隣へ座らせた。
誰も錆びた棒など見向きもしなかった。
そして時間がたつにつれ、集会所に大人達が集まりだす。集まる大人達の中には、光の鏡で見かけた人間が大勢いた。彼らの敵意や呆れた目をアルは黙って受け止める。
席の大部分が埋まると、村長はもったいぶった様子で告げた。
「怪我人以外は集まったようだな。では始めようか」
大人達が頷いたことを確認し、村長が話を続ける。
「今日集まってもらったのは光の鏡で起こったことについて、そしてこれからどうするかについてだ。光の泉に現れた生き物は魔物の一種族で間違いないだろう。ダルドも同意見だったからな」
「じゃあ、俺達はどうなるんだ!? 森へ入れなくなったら、木の実も毛皮も木材だって取れなくなるんだぞ!」
「それより村のすぐ近くまで魔物がきたことのほうが問題だろうが! 村の中に入ってきたらどうなるかわかってるのか!?」
話は広まりきっているのか、魔物と聞いても誰も驚かなかった。その代わり、彼らは思ったことをそのまま叫び始める。魔物に怯えているのは誰の目にも明らかだった。
「だいたい、なんでこんなところに魔物が現れるんだよ! 銀髪のせいなのか!? それとも光の鏡に水路を作ったせいなのか!?」
「あれはウルバスの命令でしょ! だいたい、アルのやったことに比べれば、たいしたことないわよ!」
大人達の視線が一斉にアルへ注がれた。狂気すら含んでいる多数の眼差しにアルは後ずさりしてしまう。が、尻込みするアルを村長は皆の前へ突き出した。
「そのとおり。アルが光の鏡に潜った直後に魔物は現れた。しかも、潜ったのは銀髪のためにだ。やはり、魔物が現れたのはアルのせいだろう」
アルのせいだと村長が言い切った後、今度はダルドが立ち上がった。あらかじめ打ち合わせをしていたような、芝居がかった動きだった。
「これは村に伝わる話だがな。昔にも光の鏡に悪戯をした罰当たりな子供がいたらしい。その直後、銀髪の人間と魔物が村を襲ったそうだ」
ダルドの話に村人が静まり返った。
「困り果てた村人はその子供を光の鏡に沈め、生贄として捧げた。すると銀髪の人間と魔物は幻のようにどこかへ消えてしまった。おそらく、生贄を捧げたことでエスト様の怒りが静まったのだろう」
ダルドの話が終わっても、村人達は口を開こうとしなかった。代わりに、他人の腹を探り合うように顔を見合わせる。多くの人々が、子供を生贄に捧げることにためらいを覚えていた。
それを読み取った村長がだぶつくあごを撫で、沈黙を破る。
「やはり子供を犠牲にしたくはないか。だとすると、この村を捨ててよそへ逃げることも覚悟せねばならんな」
それは独り言を装った、人を誘導するための言葉だった。村を捨てるという言葉が村人に現状を認識させ、ためらいにひびをいれる。そのひびから本音が静かに漏れ出した。
「……だったらやるしかないよな」
「……これから冬なんだもの。村を捨てたりしたら、みんな死ぬことになるのよ」
「むしろ、アル一人で済むなら安いもんなんだ」
「それにアルのせいでジャイルが死んでいるんだ! 父親殺しの責任を取らせるべきだ!」
一度漏れ出た本音がためらいを砕くまで時間はかからなかった。そんな村人に対し、村長は落ち着くように制止する。そうなるように仕向けたにもかからず。
「落ち着くのだ。まだアルの意向を聞いていない。子供に無理強いするのも酷だろう」
人達の目がアルに集中する。
「それでアル。生贄の話を聞いてお前はどう思った?」
その上で、村長はアルにたずねた。
躊躇をなくした者は、聞く必要はない、こうなったのもアルのせいだと騒ぎ立てた。
それに対し、躊躇をまだ残している者は静かに成り行きを見守った。ただし、彼らはアルを生贄にすることを止めようともしない。村と生活を捨てるくらいなら子供一人くらい殺してもいい、という冷徹な計算を打ち立てていた。
「本当に……、僕が生贄になれば、魔物はいなくなるんですか?」
「そうだ。エスト様の怒りを鎮めるにはもうこれしかない」
ダルドもまた、アルの背中をむりやり押していく。決心ではなく、大人達の強要がアルの口を開かせた。
「……わかりました」
「アルもわかってくれたようだぞ。では、急いで必要な準備をするとしよう。ぐずぐずしていると、また魔物が襲ってくるからな」
アルの考えが変わらないうちに、村長が逃げ道を塞いでいく。
「とにかくアルを光の鏡に捧げればいいんじゃないんですか?」
「いや、生贄となる者には真っ白な衣服を着せなければならず、一緒に酒の入った樽と流水花の束を沈めなければならんのだ。酒の種類は問わないので女達が衣服を作り、男が流水花を集めにいく。異論はないな」
「流水花なら簡単だな。一日かからないで集まるだろ」
「なら服のほうを急がないといけないわね。まずは手分けして生地になりそうなものを集めましょう」
誰もがアルと目を合わせずに話を進めていき、集会所から出ていく。そんな姿にアルは、自分がこの村の人間ではないかのような錯覚を感じていた。
だが外へ出ていったはずの男達は、すぐに青い顔をして集会所へ戻ってきた。
その中心には、集会場を出たときにはいなかった血まみれの村人がいる。セリアのことを領主に知らせようとしたあの村人だった。
「……魔物がすぐ近くまで来てるぞ! 村の中をうかがっていた!」
村人達の叫びに村長とダルドの顔が青くなった。
そこへ今度は女達が集会所へ戻ってきた。全員息を荒げ、興奮した様子だった。
「なんで魔物が来てるの!? 私達、怒りを鎮めようとしているのに!?」
「領主へ知らせにいったこいつの後を追ってきたんだよ! こういう時はどうすりゃいいんだ、ダルドさん!? 他へ知らせるって決めたのはあんただろ!」
「とにかく怪我人や子供達をここへ集めろ! それと武器やバリケードになりそうな物もだ!」
ダルドの指示を聞いても村人は動こうとはしなかった。魔物がいるのに外へ出るのはごめんだったし、指示に従ったところでどれほどの効果があるのか疑問だったからだ。
中年の女性が卑屈げに笑いながらダルドへ近づく。
「ねぇ、アルを生贄に捧げれば魔物は消えるんでしょ。こうなったら格好なんて気にしないで、アルを光の鏡に沈めてみない?」
「……そのアルを誰が光の鏡まで連れていくのだ? お前が連れていってくれるのか?」
賛同しようとしていた村人達が固まり、一瞬で静まりかえった。そして、提案した女性に期待と無理強いの目が集まる。
「……い、いやよ! なんで私にやらせようとするの!? 男達がやればいいでしょ!」
中年の女性は泣きわめき、腕を振り回して周囲に当たり散らした。彼女に押し付られないことを悟った村人が次の生贄を探す。
彼らが次に矛先を向けたのは、村の中心的人物であるダルドだった。
「生贄を提案したのもあんた、領主へ知らせるよう命令したのもあんたなんだ。言いだしっぺの責任をとるべきだろ。弓を使えるんだから魔、物なんて蹴散らせるだし」
「いいだろう! だがその間、村を守るのは貴様達の役目だからな!」
ダルドが弓を手に立ち上がろうとするのを、慌てて周りの人間が押し留めた。彼の他に、魔物から守ってくれる人間がいないことを悟ったのだ。
「待ってくれ! やっぱり女達にでもやらせりゃいいんだ! 俺達は光の鏡で銀髪と戦っているんだから!」
「捕まえられなかったくせに、なに言っているのよ! 普段偉そうにしているんだから、こういうときくらい体張りなさいよ!」
自分が助かるため、自分以外の人間を生贄にするため、村人は金切り声で罵りあう。
もし彼らが生贄など選んでいなかったら、力を合わせるという雰囲気ができていたかもしれない。だが彼らは、自分達のためにアルを犠牲にすることを選んだ。その選択が彼らをより利己的にする。
誘導した村長は自分に矛先が向かないように、隅のほうで息を潜めていた。
この場にいる人間のほとんどは自分が助かるためだけに全力を尽くしていた。例外はダルドと生贄に選ばれたアルくらいだった。
勝手なことはしないという約束を、アルは忘れていなかった。だから魔物と聞いたとき、家に残っているクライブやラナ、そして母親のことが思い浮かんでもその場を動こうとはしなかった
しかし自分のことしか考えていない村人達の姿が、アルの嫌悪感と焦燥をかきたてる。
ついにアルは耐え切れなくなり、自分の意思で立ち上がった。
「すいません。ちょっとクライブやラナに魔物のこと、知らせてきます」
「なにを言って……。おい、アル!」
慌てて捕まえようとしてきた村長や従者をアルは振り切る。そのまま、怒鳴りあっているダルドと村人達の間をすり抜けて外へ飛び出した。
「アルが逃げ出したぞ! 誰か捕まえろ!」
「だったらお前が行け! ついでに泉まで連れていけよ!」
アルの耳にまで届いていた村長の叫び声も、すぐに喧騒で聞こえなくなった。
集会所を出たアルは全力で自分の家へと走る。集会所以外の建物は静まり返っており、魔物が迫っていることを知らないように見えた。
そして道半ばまで来たとき、アルの目が魔物の姿をとらえた。
魔物の数はたった一匹で、街道に続いている道から村の中をうかがっていた。中へ入ろうという気配はなく、アルと目が合ってもその場を動かない。
だが目が合った瞬間、アルには魔物が笑ったような気がした。
「魔物だ! すぐそこまで魔物が来てる! みんな逃げろ!」
全身が凍りつくような悪寒を感じたアルは声の限り叫ぶ。叫びを聞いた村人達が家の窓や玄関から顔を出し始めた。
全力で走り、全力で叫んだアルを出迎えたのはラナだった。警告が聞こえていたらしく、倒れこみそうなアルを捕まえて質問してくる。
「魔物って言ってたけど本当なの?」
「本当、だよ。もう村の入り口まで、来てる。早く逃げないと」
入り口まで来てるという言葉を聞いた途端、ラナの唇が小刻みに震えだした。
「……どうするの。クライブやおばさんだっているのに」
「……連れ出すしかない。クライブ、聞こえているだろ!?」
「聞いてたよ、くそっ! 俺よりも母さんをなんとかしないと!」
叫び返すクライブは、不慣れな杖を使ってでも母親の元へ向かっていた。急いでアルもラナもその後を追う。
子供達の言葉が聞こえていないのか、母親はいつもと同じように夫の亡骸を見つめていた。
「母さん、ここにいちゃ駄目だ! 魔物がすぐそこまで来てるんだよ!」
アルが言い聞かせつつ、亡骸から母親をひき離そうとする。だがひき離そうとした途端、母親は半狂乱となってアル達を叩いた。父親の死体にすがりつき、絶対に離れまいと子供達をにらみつける。
「アルが言っていることは本当なんだって! 早く逃げないと……」
「……魔物が侵入してきたぞ! 街道のほうからだ!」
外から聞こえてきた誰かの叫びによって、続きが補われた。説得の時間がないことを悟ったクライブは、すがりついている母親の体を掴む。太腿の痛みなど気にしている場合ではなかった。
「こうなったら、むりやりにでも母さんを連れていくぞ! ラナも手伝ってくれ!」
アルもラナも頷き、暴れ狂う母親へ手を伸ばす。
その瞬間だった。家の壁となっているレンガがアルに向かって吹き飛んできたのは。
飛んできたレンガの破片に、アル達は後ろへ下がる。
混乱と痛みに揺れる視界で、アルは壊れた壁の穴から異形の生物が入ってくるのを見た。
視界が正常に戻っていくのに合わせ、異形な生物は斧を持った魔物へと姿を変えていく。もしアルに見分けることができたのなら、入り口で目が合った魔物だと気づいただろう。
「母さん! 逃げて!」
クライブの声に呼応するかのように、巨大な斧が振り上げられる。 母親は自分と伴侶の邪魔する者がいなくなったことに、死者の笑みを浮かべていた。
その笑みが真っ二つに割れた。
父親の死を間近で経験していたアルは、母親の死を瞬時に理解した。同時に今、自分がやらなければならないことも理解する。
父親の死が生みだし、母親の死によって広がった心の傷から目に向けている時間はない。呆然としているラナとクライブの手を引っ張った。
「二人とも見ていちゃ駄目だ! 早く逃げないと!」
玄関から外へ逃げていくアル達を、魔物はすぐには追わず愉快そうに辺りを見回した。
アル達が外へ出たとき、すでに十匹近い魔物が村の中で暴れていた。奴らは次々と家の壁を叩き壊し、中へ侵入していく。逆に追い立てられた人々が家から飛びだしてきていた。
抵抗したり、魔物へ近づいた者はすべてアルの母親と同じように殺された。
「……私達も殺されるの?」
「まだ決まったわけじゃない。魔物がこないところへ行けば……!」
「だからその魔物がこないところはどこ!? どこへ行けばいいの!?」
ラナがアルに対してパニックをぶつけている間にも、街道から新手が現れている。
さらには、アルの家に開いた壁から母親を殺した魔物が出てきたアル達を見定めると血まみれの斧をふりかざして近づいてきた。
「二人とも先に逃げろ! 絶対後ろを振り返るなよ!」
「クライブ!?」
クライブが反転し、二人が逃げるための時間を稼ごうとする。
だが彼の意に反し、アルはクライブを止めようと追いかけた。振り下ろされようとする斧の前にクライブとアルがいるのを見て、ラナは目をつむる。
そこへ一本の矢が飛んできた。矢は魔物の右肩へ刺さり、振り下ろされる直前だった斧が手からこぼれ落ちる。そうかと思うと魔物は痙攣し始め、体中に青黒い斑点が浮かび上がった。
ただ痙攣は長く続かず、静まった頃には魔物は死体となっていた。
毒矢を放ったのはラナの祖父であり、アルの師匠でもあったダルドだった。
「大丈夫か、ラナ!」
「……おじいちゃん!」
駆け寄ってきた自分の孫をダルドは強く抱きしめた。
「怖い思いをしただろう。だが、もう大丈夫だ。すぐに魔物は消えてなくなるからな」
「本当に……?」
「ああ、おじいちゃんを信じろ」
自分の孫を離し、ダルドはアルへ目を向けた。
「アル、準備している時間がないのはわかるだろう。今すぐ、光の鏡へ向かうぞ」
「ダルドさんだけでですか? 集会所の人達はどうしたんです」
「魔物が侵入したと聞いて逃げ出した。役に立たんから、むしろ好都合だがな。……だから、クライブもここに置いていくぞ」
「……ッ!」
ダルドの言葉に、アルとラナの表情が硬直した。
だがアルはすぐにダルドを睨み返し、クライブを支えようする。
その助力を当のクライブが振り払った。
「他人のことなんて気にしている場合じゃないだろ。俺のことは俺でなんとかするから、さっさと行けよ」
「アル、何が一番重要なのかよく考えろ。クライブの一人のために、村を犠牲にするつもりか」
一緒にいると、アルはまた危険をかえりみずに助けようとするかもしれない。
そう思ったクライブはぞんざいな口調で追い払おうとし、ダルドは冷静な言葉で説得しようとする。だがそれらはすべて、アルの決心にひびを入れることもできなかった。
「絶対嫌です! クライブを見捨てるくらいなら、僕もここで死んだほうがマシです!」
叫んだアルはしつこくクライブの体を支えようとする。その後ろからは、次の魔物が迫っていた。
対してダルドは弓矢の狙いをつけるだけに留め、自発的にアルが見捨てるのを待ち続ける。だが魔物の影に覆われても、アルはクライブのそばから離れようとしなかった。
結局、先に耐えられなくなったのはダルドのほうだった。毒矢を放ち、アルとクライブを殺す直前だった二匹目を死体へ変えた。
死んだことを確認した後、不本意であることを隠そうとしないまま、ダルドはアルの提案を受け入れる。
「いいだろう。だが運ぶのはお前だからな」
「……ありがとうございます」
アルは疲れた体を奮い立たせ、クライブを支えて歩き始める。
その途中、アルにだけ聞こえる声でクライブが話しかけてきた。
「……死んでたらどうすんだ。俺の代わりになったって、ただの無駄死になんだぞ」
「わかってるよ、そんなこと。……だけどさ、もう家族はクライブだけしかいないんだ。僕の言いたいことだってわかるだろ」
「……当たり前だろうが」
その返事を皮切りに、クライブの表情が暗く歪んでいった。
「……でもよ、父さんの代わりになるのは俺の役目のはずだったんだ。母さんだって俺が守らなきゃいけなかったのに……」
クライブの震えた声を間近で聞きながら、アルは考える。
もし自分が生贄になるとわかったら、クライブはなんて言うだろうか。このまま泉へ連れていくことは、本当はとても残酷なことなのかもしれない。
それでもアルはクライブに生きていてほしかった。
「わ、私も手伝うから」
いてもたってもいられなくなったラナがダルドから離れ、アルと一緒にクライブを支え始める。
四人はそのまま、光の鏡がある森の中へ入った。
森の中には、アル達以外にも多くの村人達が逃げ込んでいた。街道の反対に森があるため、魔物から逃げていると必然的にここへ来ることになるのだ。当然、村人を追いかける魔物達も森の中へ侵入してきた。
「こっちへ来るな! 来るなといっているだろうが! ここにはアルがいるのだぞ!」
叫びながらダルドは鉈を振り回す。だがダルドの周りにいる村長を含めた村人達は誰も離れようとしない。
魔物の前には木槌や包丁などまったく役に立たなかった。唯一通用するのは、悪女草の毒を塗ったダルドの弓矢だけだ。結果、自分だけは助かりたい村人達がダルドの周りに集まり、魔物達もそれを釣られてくる。
そのせいで毒矢の本数がどんどん減っていき、そのたびに魔物達の目が剣呑さを増していった。
「……もう矢がなくなるよ」
「心配するな。光の鏡まであと少しだ」
「……行ってどうするの? おじいちゃん、近づくことも禁止してたのに」
「説明している暇はない! 走れ!」
急き立てられ、アル達が泉へ走る。そんな彼らを追わせまいと、ダルドは毒矢を使い果たすつもりで魔物を食い止めにかかった。
やがて、走り続けたアル達の前に光の鏡が現れた。
セリアを案内したときから、泉はなにも変わっていない。ただセリアの姿がどこにもないだけだ。
ここまで走り続けたラナとクライブは辿り着くなり、その場に座り込んでしまう。
アルもまた、頭の中に響くくらい鼓動の音が大きくなっていた。それが疲労のせいなのか、生贄の時が近づいているせいなのか、アルには判別がつかない。
だがどこからともなく聞こえてくる悲鳴と足音が、役目を果たせとアルをせきたてていた。
二人から離れ、アルは一人で光の鏡へと歩き始める。
疲れきったクライブの声が後ろから聞こえてきた。
「……それでアル。ここからどうするんだ」
「もうクライブは休んでていいよ。後は僕が生贄になるだけだから」
振り向かずに、歩みを止めずに答える。振り向いたら止まってしまいそうだった。
「生贄? いや、ちょっと待て、アル……」
「待てない。そうしないと魔物は消えないんだから」
「だから待てって! アル、いったいなんなんだ!」
「そのままの意味だよ。……クライブ、ラナのことさ。僕の代わりに守ってあげてね」
自分にはもう泳ぐ体力も残っていない。失敗することはないはずだ。
アルは目をつぶり、覚悟を決めて泉へ踏み出そうとする。
だが体が泉へ落下する直前、背後からラナの声が聞こえてきた。
「アル! 手! 手を見て!」
「……手?」
思わずアルが目を開けたのは、ラナの言葉があまりに場違いだったからだ。ラナの口調はアルを思いとどまらせるものではなく、背後にいる幽霊を知らせるようなものに近かった。
そして自分の手を確認した途端、アルは最後の一歩のことも忘れてその場に立ちつくしてしまう。
そこにあったのは錆びた棒、のはずだった。
絶えず命の危険にさらされ続けていたせいで、アルはこの棒のことをすっかり忘れていた。いや、あるいは何かの作用によって忘れさせられていたのかもしれない。
自分の手の中にある棒が黒い炎をまとっていることに、アルは今まで気がつかなかったからだ。
動転したアルは泉へ黒く燃える棒を投げ捨てる。しかし、投げ捨てられた棒は様々な法則を無視して、アルの目の前で停止した。
次の瞬間、棒にまとわりついていた炎が光の鏡へと伸びた。水に触れているにも関わらず、炎は消える様子はない。それどころか脈動を繰り返し、一層大きく色濃くなっていく。
それに引き換え、炎が脈動するたびに泉の水かさは減っていった。
まるで泉の生命を炎が吸っているかのようだった。
ほどなくして泉の水は吸いつくされた。代わりに闇のように濃くなった炎が、アルのすぐそばで浮かんでいる。
なんの前触れもなくその黒い炎を突き破り、一本の剣がアルの前に落ちてきた。地面に突き立ったその剣はセリアが探している剣と同じ形をしていた。
「……アル、大丈夫?」
沈黙を破ったラナの言葉にアルは我に返った。
夢から覚めるように黒い炎は消えていた。ただし枯れ果てた泉と目の前にある剣が、夢ではないことを物語っている。
しばらくしてアルは、泉が枯れてしまったせいで生贄になれないことに気がついた。
「……どうしよ。泉の水がなくなっちゃったんだけど」
アルはたずねるものの、クライブやラナに答えられるはずがない。
枯れた泉の中へ身投げすれば、生贄となるのだろうか。
だが底は浅く、落ちても死ねるようには思えない。露となった泉の底には鎖があるだけで、白骨のような生贄の跡はどこにもなかった。
どうすればいいのかわからないまま悲鳴と足音が近づき、ダルドと村人、それに魔物がアル達に追いついた。
矢を撃ちつくしたダルドは鉈を向け、魔物達を牽制していた。その後ろにはひとかたまりとなった村長達が隠れている。
一方、魔物達は一人も逃がすつもりはないようだった。ダルド達を取り囲み、徐々に包囲を縮めていた。
「アル、なにをしている! ためらえばそれだけ犠牲が増えていくのだぞ!」
「じゃあ、どうしろっていうんですか! 泉に沈むのが生贄なんでしょう!?」
「……こ、これは」
泉が枯れ果てていることにダルドは絶句する。それは殺し合いにおいて致命的な隙でもあった。
隙とみた魔物は突進し、持っていた大鎚を薙ぎ払う。巨大な塊が直撃し、ダルドの頭は潰れた肉塊となって地面へ落ちた。
「……おじいちゃん? おじいちゃん! おじいちゃんっ!」
「ダルドのじいさんはもう駄目だ! くそっ! アル、頼むからラナを連れていってくれ!」
祖父の頭を追いかけようとするラナにクライブはすがりつき、押し留める。
唯一の脅威を打ち倒したことに魔物達は勝利の雄たけびをあげた。そして口元を歪め、盾を失った村人達へ襲いかかる。
アルの目の前で虐殺が始まった。
逃げようとする従者の首が飛んだ。
命乞いをするおばさんが踏み潰された。
目を閉じ、恐怖に震えている子供の体が捻じ切られた。
魔物達は明らかに殺戮を楽しんでいた。枯れた泉が村人の血でを染められていく。
地面に刺さった剣が血に呼応し、黒く輝き始めた。
笑い出したお姉さんが、動かなくなるまで殴られた。
ダルドさんの死体が八つ裂きにされた。
お父さんもあいつらに殺された。
お母さんもあいつらに殺された。
クライブはラナを抱きしめ、自分の体を盾にする。大鎚を持った魔物がなぶるように二人へ近づいていた。
多くの死を見たアルは、クライブとラナの死を簡単に想像できた。
絶叫を上げ、アルは目の前にある剣を引き抜いた。掴んだ瞬間に焼けるような痛みが伝わってきたが、構いはしない。
自分の背丈ほどもある黒い剣をもって、ラナとクライブを殺そうとする魔物へ斬りかかる。
その動きは素人同然で、魔物は余裕の笑みすら浮かべて剣を防御しようとする
が、黒い剣は一瞬すら止まらなかった。
大鎚も、魔物の腕も、魔物の体も、さえぎる物すべてが両断される。両断された魔物は黒い炎によって燃え上がり、灰の山へと変わっていった。
同時に、右手の刺すような痛みが激痛へと変わった。
呼応するかのようにアルの絶叫が大きくなり、残りの魔物へ斬りかかっていく。
その姿に、魔物達の顔から遊びの笑みが消えた。消えた直後に、魔物達は黒い炎にのみこまれた。
アルが剣を振り回すたび、触れてもいないのに魔物の体が黒い炎で燃え上がっていく。魔物達を焼きつくし、灰へと変わるまで黒い炎は絶対に消えなかった。
一方で村長を始めとした生き残っている村人達は、目の前で起きている異変から必死に逃げようとしていた。その努力もむなしく、村人達が黒い炎にのみこまれていった
黒い炎は魔物も人間も死体も区別しなかった。
アルが剣を振るたびにどれかが焼きつくされ、灰へ変わっていく。
最初の魔物が灰となってから、すべての魔物と村人、そして死体が焼きつくされるまで三十秒もかからなかった。
虐殺を終えたアルは、幽鬼のような足取りでクライブとラナの姿を探しまわった。
クライブとラナは灰の中で抱き合い、アルを見つめたまま震えていた。無事なのはクライブとラナの二人だけだった。
「……よかった」
直後にアルは剣を落とし、灰の中へ倒れこんでしまう。体も心もずっと前に限界をこえていた。
倒れたアルを見て、クライブとラナは我に返る。
だがアルの右手を見た途端、助け起こそうとした二人の手が止まった。




