婚約破棄?
「はあ」
公爵令嬢であるデイジーの気の抜けた返事が、公爵家の広間を抜けていった。
メソメソと泣き真似をするデイジーの義妹、その肩を抱くデイジーの婚約者。
小柄で華奢、守ってあげたくなるような容姿のレナは桃色のカールした髪を揺らし、苺のような濃紅の瞳を潤ませている。
どことなく満足気な義母とは逆に、今にも卒倒しそうに真っ青な父親……アンブロッサム公爵とデイジーの実弟であるジューダス。
『どちらに婿入りしてもいいだろう』と言うのがデイジーの婚約者ヴィータの言い分である。
「レナとヴィータが結婚したいなら、そうしたらいいわ」
「デイジー……なんと優しい。だが完璧な君は僕には眩しすぎたんだ……真水のなかに魚が住めないように」
(浮気した挙句に何をわけの分からないことを……レナが濁った泥水だといいたいわけ?)
うっとりとヴィータの腕にすがるレナ。
あなた、悪口言われてるわよ……と言いたげにデイジーの柳眉がわずかに動いたが、それだけだった。
感極まってがっくりと膝をついたヴィータを尻目に、デイジーは夏の陽光のように眩しく爽やかな笑顔を浮かべ淡々と告げた。
「婚約破棄、承りましたわ」
直後にデイジーに見つめられた公爵は後退りをし、こくこくと頷いた。
「ふふふ、お父様。あとはよしなに……ね?」
小柄なレナとは違い、スラリと背の高い美女であるデイジーは颯爽とその場を後にした。
残されたのは高価そうな残り香、そして期待した修羅場が起きず拍子抜けした様子のレナとヴィータ。
真っ青な公爵とその嫡男。
機嫌がいいのは後妻であるレナの母親、セーラ夫人だけである。
「父上、これは早急に」
「ああ、私がやはりバカだった……」
公爵が慌てて執務室に下がり、セーラ夫人が勝利を確信したかのように微笑んだ。
「ふふ、わたくしが言ったとおりになったでしょう? これで公爵家の跡取りはレナになるわ」
「そ、そうね! ヴィータと結婚するのは私だもの」
「ああ、次期公爵はレナ。第一王子たる、この僕は王位を継ぐから──何も問題はない!」
「そんなわけないでしょ」
柱の陰にいたジューダスが呆れたように呟いた。
確かにデイジーが後継者であるのは周知の事実だが、まだその下に実弟の自分がいる。
その自分がアンブロッサム縁の者をとりあえず娶れば、デイジーが産む娘が爵位を継ぐまでの繋ぎになるというのに?
(婿入りして、王になるっておかしいんじゃ……)
公爵家の血筋でもなんでもない連れ子のレナが跡目を継ぐなんて考えは、一体どこから湧いてきたのだろうか。
数年前に父親が平民と再婚すると言い出した時、十二歳になったばかりのジューダスはさして不思議に思わなかった。
むしろ美人の義母と超絶可愛い妹が出来て嬉しかったくらいだ。
だが、後妻と連れ子が来てから半年くらい経った頃、デイジーが屋敷中に妙な魔道具を仕込み始めた。
不思議なことにものすごく可愛く見えていた義妹は、それを機にそこらにいる平民と変わらぬ程度の容貌になった。
可愛らしくはあったが。
ちなみに義母に関してはあまり変わった様子はなく、美人のままだった。
『レナの無意識な魅了です。レナの母親にも効果の恩恵があったようですわね?』
デイジーが淡々と告げた言葉は、公爵と嫡男を正面から殴りつけた。
公爵の再婚は、レナ自身の魅了とその影響を受けたセーラによるものだったのだ。
とはいえ一度結婚してしまったからには、夫人によほどの瑕疵がないと離縁は難しい。
セーラ夫人は金遣いも荒く、好きなものを我慢する性格ではない。
ではそれを理由に──と親子で数年分の帳簿をひっくり返したが、平民が思いつく贅沢などたかが知れていた。
セーラ夫人は豪遊をしているように見えて、そうでもなかった。
宝石よりギラギラするガラス宝石の方が好きなようだったし、シルクより綿の肌触りを好んでいる。
セーラ夫人出入りの商人もデイジーが選定した商人で、お値打ち価格が売りの商会だ。
もちろんレナも不満を漏らしながらも母親と同じ商人を使っている。
その商会であれば、お会計は公爵家持ちであったからだ。
食材こそ贅沢なものを選んでいたものの、貧乏時代を思い出すと言って残すのが苦痛な様子。
結果、食事量がかなり抑ええられている。
……むしろ公爵家の財政は無駄な出費が減っていた。
余談だが、ジューダスが三歳の時に亡くなった生母の前女公爵のサマードレス一着の方がセーラ夫人の一年の生活費より高かった。
「セーラは酒場の女給だったからなぁ……」
逃げるように執務室へ駆け込んだ公爵が遠い目をして呟いた。
それを追ってきた息子が被せるようにため息をつき、そっと扉の鍵をかけた。
「釣り銭とチップの暗算は早かったんだが……」
「計算はできても継承の優先順位は分かんないんですかね……」
「いや、ちゃんと言ってあるんだよ。我が家は特殊な事情により、完全に母系継承だって」
「まさかあの人たち、母系って娘が継ぐものって単純に考えてはいないでしょうね?」
「ないだろう? アンブロッサムの血が一滴も入ってない娘が、どうやって跡目を取るっていうんだ」
「説明しましたか」
「した……いや、どうだったかな。いや、説明しなくてもわかるだろ、普通」
「精霊に関しても?」
「は? そんなの国中の人間が知ってるだろ」
ジューダスはため息をついた。
勘違いチームも間違いなくアホだが、父親もかなり戦犯な匂いがする。
「姉上に確認しよう、うん」
姉と同じ紺色のまつ毛が美しい顔に影を落とす。
公爵家の嫡男は、執務室の机から背表紙の擦り切れた絵本を手に取った。
『王国と唯一のピンキー』
この国に生まれ育った者ならば、誰でも知っている初代聖女と精霊物語の絵本だ。
(知らないものなどいない……貴族には)
だが、字の読めない平民や移民だったら?
そう問う息子に、間延びした呑気な口調で王弟でもある無邪気な父親が言った。
「いや、ピンキーは口伝でもよく話されてる物語だぞ?」
ジューダスは小さく息を吐き、全てにおいて完璧で麗しい姉の部屋へと向かった。




