05『”職業”とは何か――神が定めた絶対の天命という欺瞞』エゼキエル・アルマンド著
元大神殿司祭
エゼキエル・アルマンド 著
一.宣誓
もし読者諸君が本書を手に取ったのであれば、まず最初に一つだけ断っておきたいことがある。
私は神を信じている。
今もなお信じている。
本書を理由に私を異端者と呼ぶ者が現れるだろう。
神を冒涜する書だと非難する者もいるかもしれない。
しかしそれは誤りである。
私が疑問を抱いているのは神でなく、神殿である。
そして神殿が長い年月をかけて作り上げた”職業”という制度のことである。
私は三十年以上にわたり大神殿に仕えてきた。
地方神殿の下級神官から始まり、
神託管理局書記官、司祭補佐、上級司祭を経て、
最終的には大神殿中央神託院に席を置いた。
私の職務は神託の解釈であった。
日々届けられる神託を整理し、分類し、人々へ伝える。
それが私の仕事であった。
幾万の神託を見た。
幾万の人生を見た。
そして気付いた。
我々は神の言葉を伝えているのではない、と。
神の言葉を神殿の都合のいい方向で再解釈しなおしているだけに過ぎないのだと。
昨今では”職業”とは絶対的なものとされている。
戦士。
騎士。
魔術師。
僧侶。
商人。
鍛冶師。
そして勇者。
神が定めた運命。
神が与えた使命。
神が示した未来。
人々はそう信じている。
神殿もそう教えている。
だが残念ながら、それは事実ではない。
神が与えた運命など存在しない。
神が与えた使命など存在しない。
神が示した未来など存在しない。
神は人を定義しないのだ。
”職業”とは本来、”役割”である。
それは天命ではない。
当然、呪いでもない。
人生を決定づける絶対的な判決でもない。
神託とは未来を断定するものではなく、可能性を示すものであった。
本来はその程度のものでしかなかったのである。
例えば神託が
”食物に関する才能あり”
と告げたとしよう。
それは料理人かもしれない。
農民かもしれない。
薬師かもしれない。
醸造家かもしれない。
毒物研究家かもしれない。
だが神殿はその曖昧な神託へ名前を与える。
分類を与え、明文化された”職業”を与える。
そしていつしか人々は、
その分類そのものを神の言葉だと思い込むようになった。
神は道を示した。
神殿は道を舗装した。
そこまでは良かった。
問題は、その後である。
神殿は神殿が舗装した道以外を存在しないものとして扱い始めた。
他の道を進む者は異端者であり、不徳であり、それは神意に背く反逆者であるとみなし始めたのである。
私は長年、神託院で働く中で奇妙な事例を数多く見てきた。
職業『農夫』とされた少年が後に宮廷魔術師となった。
職業『鍛冶師』とされた少女が帝国屈指の軍略家となった。
職業『盗賊』とされた男が聖人と呼ばれるまでになった。
逆に職業『聖騎士』とされた者が酒場で酔い潰れ続けた例もある。
人生は職業ほど単純ではない。
それは至極、当然の話である。
にもかかわらず、神殿は”職業”を神格化し続けた。
なぜか。
理由は単純だ。
便利だからである。
人は分類を好む。
整理された棚へ人間を並べることを好む。
理解しやすいレッテルを張りつけて人間を定義しようとする。
統治する側にとって、それは実に都合が良い。
”職業”とは神の意思ではない。
神殿の作り上げた一介の社会制度に過ぎないのである。
この一文を書いた時点で、私はおそらく大神殿から破門されるだろう。
いや、もしかすると既にされているかもしれない。
事実、原稿を預けた編集者からは、
「本当に大丈夫なんですか」と、三度も聞かれた。
それに対して私は三度とも同じ答えを返した。
「大丈夫ではない。」と。
だが、私はそれでも書かねばならなかった。
神託を受けた若者たちが、
自らの”職業”だけを理由に夢を――人生を諦める姿を、
私はあまりにも多く見てきたからである。
本書は神への反逆ではない。
神託への反逆でもない。
神託を利用し、人々を分類し、
可能性を狭めてきた者たちへの反論である。
もし読者諸君が自らの”職業”に悩み、
自らの可能性に限界を感じているのであれば、
ぜひとも読み進めてほしい。
本書はそのために書かれたのだから。
願わくば、神殿の”職業”を信じる前に自分自身を信じてほしい。
少なくとも私は、その方が神々の望みに近いと考えている。
二.職業とは何だったのか
職業の起源について語るならば、まず神話の時代まで遡らねばならない。
これは神殿に属する者であれば誰もが学ぶ内容であり、
読者諸君も一度は耳にしたことがあるだろう。
大荒廃の時代。
飢餓と争いが世界を覆い、
人々が互いに奪い合っていた時代。
その混乱を憂いた神々は地上へ降り立ち、
人々へそれぞれのに役割を与えた。
ある者には畑を耕すことを。
ある者には獣を狩ることを。
ある者には家を建てることを。
ある者には病人を癒すことを。
そうして社会は再生し、
人類は再び繁栄を取り戻した。
これが現在広く知られている”職業神話”である。
私はこの神話そのものを否定するつもりはない。
むしろ事実に近いものだったと考えている。
問題は、その解釈である。
現代人はこの神話を読む時、
神が絶対的な”職業”を与えたと考える。
しかし本当にそうだろうか。
私はそうは思わない。
例えば諸君が村を訪れたとしよう。
家屋は壊れ、食料は不足し、人々は疲弊している。
そこで諸君は村人たちを集めてこう言う。
「君は森へ行って木材を集めてくれ。」
「君は川へ行って魚を獲ってくれ。」
「君は畑を耕してくれ。」
「君は怪我人の世話をしてくれ。」
実に合理的な判断である。
そして恐らく誰も、その指示を運命とは呼ばないだろう。
神々が行ったことも本質的には同じだったのではないか。
彼らは人々を導いた。
適材適所へ配置した。
社会を再建した。
だが、それは永遠の運命を定めたという意味ではない。
その時代に必要だった”役割”を与えたに過ぎないのである。
三.”役割”はいかにして”職業”となったのか
私は職業制度そのものを否定するつもりはない。
まず最初にそのことを明確にしておきたい。
社会を運営する上で、
人々の役割を整理することは必要である。
畑を耕す者がいなければ人は飢える。
家を建てる者がいなければ人は雨露を凌げない。
病を癒やす者がいなければ人は死ぬ。
社会とは無数の”役割”によって成立している。
神々が人々へ役割を示したという神話も、
その意味では極めて合理的であるといえる。
ところが数千年という歳月は恐ろしい。
”役割”は”職業”という制度となり、
”職業”という制度は伝統となり、
伝統は教義となった。
そして遂には誰も疑わなくなった。
自分たちに与えられた”職業”は天命によって決まった運命であり、
変更することなど許されない固定概念へと変化してしまったのである。
神々が与えた”役割”が、
神殿や国家の都合の良い解釈で再構成された結果、
人々は選択肢を失ってしまい、階級は固定化されてしまったのである。
本来、
「木を切る者」
でしかなかった”役割”は、
”木こりという職業”
になった。
本来、
「傷を癒やす者」
でしかなかった”役割”は、
”治癒師という職業”
になった。
そして本来、
”その時代に必要だった人材配置”でしかなかったものは、
いつしか”神が定めた絶対の天命”へと変貌したのである。
私は神々がそこまで望んでいたとは思わない。
むしろ逆だ。
もし神話に語られる神々が本当に存在したのならば、
彼らは現代の神殿を見て首を傾げるのではないだろうか。
「私は畑を耕せと言ったのであって、農民として一生を終えろとは言っていない。」と。
神々が与えたとされる役割は、
元来極めて柔軟な概念だった。
狩猟に向いた者。
農耕に向いた者。
交渉に向いた者。
治療に向いた者。
それは言うなれば助言であり、
指針であり、社会再建のための配置計画だった。
決して人生を固定する”烙印”ではなかったのである。
四.誰が”職業”を必要としたのか
しかし社会が発展するにつれて事情が変わった。
神殿は神託を管理し始めた。
国家は人口を管理し始めた。
領主は労働力を管理し始めた。
そして人々を、労働力を分配する必要性が生まれた。
誰が農民なのか。
誰が職人なのか。
誰が兵士なのか。
誰が神官なのか。
誰が貴族なのか。
極めて実務的な問題である。
徴税のため。
徴兵のため。
労働力の把握のため。
統治のため。
職業制度はその全てを容易にした。
人々を分類し、記録し、管理し、分配する。
制度としては極めて優秀である。
あまりにも優秀だった。
本来は”役割”であったものが”職業”となった。
職業となったものが身分となった。
身分となったものが常識となった。
そして常識となったものは、やがて疑われなくなる。
かつて神々は「君は畑を耕せ」と言った。
だが現代の神殿は「お前は農民である」と言う。
この違いは決して小さくない。
前者は行動であり、
後者は存在そのものだからである。
農民は農民らしく。
職人は職人らしく。
兵士は兵士らしく。
神官は神官らしく。
人々は次第に”職業”へ人格を合わせるようになった。
本来ならば人間が先であり職業は後であるはずなのに、
いつしか職業が先になったのである。
その結果、”職業”には貴賤が生まれた。
魔術師は尊ばれる。
聖職者は敬われる。
騎士は称賛される。
一方で農民は見下され、
鉱夫は軽んじられ、
清掃夫は嘲笑される。
だが私は問いたい。
その序列を決めたのは誰なのか。
神々だろうか。
違う。
断じて違う。
神々は”役割”を与えた。
序列を与えたわけではない。
畑を耕す者がいなければ国は滅ぶ。
鉱石を掘る者がいなければ武具は作れない。
街を清潔に保つ者がいなければ疫病が広がる。
社会に不要な”役割”など存在しない。
それにもかかわらず職業へ優劣が与えられたのは、
人間が勝手に価値を付けたからである。
神々ではなく、我々自身が、である。
神々が与えた”役割”は、
人々を導くための灯火だった。
しかし神殿と国家は、
その灯火を檻へ変えてしまった。
灯火は道を照らすためにある。
人を閉じ込めるためにあるのではない。
もし神話に語られる神々が今なお天上より我々を見下ろしているのならば、
彼らはこう嘆くのではないだろうか。
「私は役割を与えたのであって、鎖を与えた覚えはない」と。
五.”職業”は誰から与えられるのか
ここで読者諸君に一つ質問したい。
結局のところ今日において”職業”を与えているのは誰であろうか。
多くの者はこう答えるだろう。
神である、と。
その答えも、もっともである。
”役割”とは永遠に続く烙印というわけではない、
というのは前述ではあるが、
結局のところ成人の儀では神託を授かるのだから、
神により授かっていると考えるのも無理からぬことであろう。
しかし残念ながら、その答えは正確ではない。
神は神官に神託を与える。
しかし人々に”職業”を与えるのは神官である。
この事実を知らぬ者は意外なほど多い。
神託の儀式に立ち会ったことのない者なら尚更だろう。
神託とは神の言葉である。
だが神の言葉は、
人間が日常的に用いる言語とは異なる。
象徴的であり、
抽象的であり、
時として極めて曖昧である。
私は神託院に所属していた頃、
こうした神託を数え切れないほど読んできた。
その大半は、現代人が想像するほど明確なものではない。
「火を扱う才あり」
「旅路に縁あり」
「人々を導く資質あり」
「金属と共に歩む者」
神託とは概ねその程度のものである。
そこから先は神官の仕事になる。
火を扱う者とは何か。
鍛冶師か。
魔術師か。
料理人か。
旅路に縁があるとは何か。
商人か。
探検家か。
船乗りか。
神託は答えを示さない。
神官が解釈する。
そして解釈された結果が”職業”として記録されるのである。
つまり厳密に言えば、
”職業”とは神から授かったものではない。
神託を解釈した神官から与えられたものなのである。
私はこれを問題視しているわけではない。
解釈そのものは必要だ。
神託をそのまま渡されても、
人々は困るだけだからである。
問題は、人々が神官の解釈を神の言葉そのものだと思い込んでいることだ。
そこには決して小さくない違いがある。
神は可能性を示す。
神官は名前を付ける。
そして人々は、その名前を運命だと信じる。
その結果、神託の内容よりも”職業”の方が神聖視されるという奇妙な状況が生まれたのである。
六.無職という”職業”は存在しない
神殿に長く勤めていると、
奇妙な相談を受けることがある。
その中でも特に多いのが、
「息子が無職でした」
というものである。
まるで病名を告げるかのような口調である。
実際、中には泣き出す親もいる。
気持ちは理解できる。
職業制度が絶対視される現代において、
それは大きな不安材料だからだ。
だが私は断言する。
無職という”職業”は存在しない。
少なくとも私が三十年間見てきた神託の中に、
そのようなものは一度たりとも存在しなかった。
神託に
”何者にもなれぬ者”
などという言葉が現れたことはない。
当然である。
そんな神託に何の意味があるというのか。
ではなぜ無職が生まれるのか。
答えは至極単純である。
神官が神託を解釈出来ていないからである。
神託が曖昧である場合。
既存の”職業分類”に当てはまらない場合。
前例が存在しない場合。
そうした時、一部の神殿では便宜上『無職』と記録することがある。
要するに、神託が存在しないのではない。
神官側が理解できていないだけなのである。
私の知る限り、
かつて『無職』と判定された者の中には、
大商会の創設者もいた。
著名な魔導学者もいた。
王国最高の建築家もいた。
彼らは無能だったのではない。
ただ、分類不能だったのである。
そして神殿は長い間、未知の神託の解釈を先送りにしてきた。
もし神託によって『無職』と告げられた者がいるならば、
私はむしろ祝福したい。
神殿の分類表に収まらなかったということだからである。
七.勇者とは
本書を書き始めてからというもの、
多くの者が私へ同じ質問を投げかけた。
「では勇者はどうなのか」と。
確かに当然の疑問である。
職業制度の正当性を語る上で、
勇者という存在を避けて通ることはできない。
むしろ勇者こそが職業制度の象徴と言ってよい。
神に選ばれし者。
世界を救う者。
魔を討つ者。
それが一般的な勇者像である。
しかし私はまず最初に一つ指摘しておきたい。
勇者は”職業”ではない。
少なくとも私はそう考えている。
もし勇者が”職業”であるならば、
勇者になるための技術体系が存在するはずである。
農夫には農耕技術がある。
鍛冶師には鍛造技術がある。
商人には商取引の技術がある。
魔術師には魔術体系がある。
では勇者には何があるのか。
何も存在しない。
勇者学は存在しない。
勇者術も存在しない。
勇者養成学校も存在しない。
勇者に関する教本も存在しない。
当然である。
勇者は”職業”ではないからだ。
では何なのか。
まず一つ目の勇者とは
称号としての勇者である。
国難へ立ち向かった者。
災厄を退けた者。
民を救った者。
偉業を成した者。
そうした人物を後世の人々が勇者と呼ぶ。
これは理解しやすいだろう。
英雄という言葉と大差ない。
二つ目の勇者とは、
国家によって選出される勇者である。
魔王出現。
魔獣災害。
異界侵攻。
世界規模の脅威。
そうした危機へ対処するため、
国家や神殿が選抜した人物へ勇者の称号を与える。
これもまた理解しるのは容易い。
言わば国家事業である。
問題は三つ目である。
”神託によって勇者と告げられる者”
私は長年、この存在について考え続けてきた。
神殿の記録を読み漁った。
歴代の神託された勇者の足跡を調べた。
神託の原文を確認した。
その結果、私はある仮説へ辿り着いた。
無論、これは私個人の推測である。
証明もできない。
神殿が認めることもないだろう。
それでも私は記しておく。
三つ目の勇者とは、
放逐されるべき異端者なのではないか。
この一文を見て怒る者もいるだろう。
私も初めてその可能性へ思い至った時、
自らの正気を疑った。
だが考えてみてほしい。
歴代の勇者と神託された者たちには奇妙な共通点がある。
彼らは例外なく突出している。
強すぎる。
賢すぎる。
影響力がありすぎる。
一人で軍隊を覆し、
一人で王国を動かし、
一人で歴史を変えうる。
もしそうした人物が一地方領主へ仕えたならどうなるか。
もしそうした人物が王位継承争いへ介入したならどうなるか。
もしそうした人物が革命を唱えたならどうなるか。
国家は揺らぐ。
秩序は崩れる。
既存の権力は脅かされる。
ならば最も合理的な方法は何か。
英雄として祭り上げることである。
使命を与えることである。
世界を救えと告げることである。
そして旅へ送り出すのである。
それも終わりの見えぬ旅路へ。
誰も文句は言わない。
むしろ称賛する。
民衆は喝采する。
神殿は祝福する。
王は支援する。
そして本人もまた喜んで旅立つ。
これほど平和的な隔離政策を私は他に知らない。
もちろん私は神殿が意図的にそうしていると断定するつもりはない。
少なくとも現時点で、その証拠は存在しない。
だが歴代勇者の記録を読むほどに、
私は奇妙な感覚へ襲われる。
勇者とは世界を救う者なのか。
それとも世界から遠ざけられる者なのか。
神殿は勇者を祝福する。
国家は勇者を称賛する。
民衆は勇者へ憧れる。
しかし誰一人として尋ねない。
なぜ勇者は旅へ出なければならないのか、と。
なぜ勇者は故郷へ留まることを許されないのか、と。
なぜ勇者だけが常に世界の外側へ押し出されるのか、と。
なぜ勇者は小人数で強大な敵に立ち向かわないとならないのか、と。
もし私の考えが間違っているなら、それに越したことはない。
心からそう願う。
だがもし正しいのだとすれば。
勇者とは神が与える最高の祝福ではない。
社会が最も扱いに困った者へ与える、最も美しい追放宣告なのかもしれない。




