最終話 感染
長瀬誠はコンビニで買ったおにぎり二つを食べ、それを食べ終えると鞄からピルケースとペットボトルの水を取り出した。ピルケースを持つ手は震えていた。薬の効果が薄れてきているのだろう。長瀬は昼間の主治医との話しを思い出していた。震える手で薬を取り出し、すぐに口の中に放り込んだ。そして、ペットボトルの水を勢いよく喉に流し込み、深く息を吐いた。
「早かったな。待ったか」
長瀬が振り返ると麻田が挨拶代わりに光らせたペンライトを振っていた。
「まぶしいよ」
「いやー、気持ちが抑え切れなくてさ。お前もそんな陰気臭い顔してても案外楽しみにしてたりしてな」茶化すように麻田は言った。
「楽しみってわけじゃないけどさ」
「けどなんだよ」
「誘ってくれてありがとな」
「なんだよ、改まって。水くせなぁ。お前のその痩せ細った身体とあの散らかった部屋を見たらなんかできねかなって思っただけだよ」
「それで、アイドル」
「そうだよ。アイドルは病んだ心に刺さるぞー。俺も幾度となくアイドルに助けられたもんだよ。アイドルは薬みたいなもんだな」
「薬ねぇ。冷たっ」長瀬の頬に一粒の雨が伝った。
ライブハウスの中はすでにに多くの客で埋め尽くされていた。長瀬と麻田は前方に行くことを諦め、ライブハウス後方の壁に寄りかかっていた。
「そういえば、今日のライブってなんてアイドル」
「言ってなかったっけ。ソルシエールってアイドルだよ」
「ソルシエール。有名なのか」
「ある意味有名ちゃ有名だな」
「ある意味ってどういうことだよ」
「お前、最近テレビとかネットとか見てないもんな。このソルシエールってアイドルのメンバーはさ、いろいろあった子たちが集まったアイドルグループなんだよ」
「なんだよ、いろいろって」
「俗に言うスキャンダルを起こした子だったり、メンバーの中に病気の子もいたりしてさ。そいう子たちが集まって再出発しようっていうコンセプトで始まったアイドルなんだよ。最近の話しなんだけどさ、もうすでにスキャンダルの噂が上がってて、メンバーのひとりのニヤちゃんて子がプロデューサーと出来てるっていうんだよ。いろいろやばいだろ」
「へぇ、そうなんだ。曰く付きのアイドルなのか」
「言い方よ。曲聞いたら絶対お前も人生変わるぞ」
「んな、大袈裟な」
長瀬が客席が隙間なく埋まっていく様子を眺めていると、ひとりの男に目が留まった。
「あ」長瀬が男を見て思わず発した。
「どうした」
「ちょっと知り合いがいたから声かけてくる」そう言うと長瀬は人混みを掻き分け、その男に近づいた。
「店長」長瀬はそう言い、男の肩を叩いた。
男は呼ばれた方へ顔を向けたが、誰に声をかけられたかわからない様子だった。
「元橋店長、僕ですよ」
元橋は長瀬の顔をじっと見つめて言った。
「長瀬! お前、体調は大丈夫なのかよ」
「やっとわかりましたか。おかげさまで良くなってきています」
「そうか、それはよかった。でもお前、めちゃめちゃ痩せてんじゃねぇか! どこいったんだよ、あのハンバーガーでできた肉はよ」そう言いながら元橋は長瀬の腹のあたりを摩った。
「ちょっとやめてくださいよ」長瀬は笑いながら言った。
「なんでこんなとこにいるんだよ。おまえ、アイドルとか聴かないだろ」
「友達に誘われて試しに来てみたんですよ」長瀬は麻田の方を見て言った。それに気づいた麻田が元橋に会釈をした。
「店長こそ、なんでアイドルのライブにいるんですか」
「聞いて驚け」
「なんですか、その得意げな憎たらしい顔は」
「ソルシエールは俺のプロデュースだ」
「え?」長瀬は目を見開き、元橋の顔を見た。
「もうひとつお前にサプライズをやろう」
「なんですか」
「ソルシエールのメンバーにあの子がいるぞ」
「あの子ってだれですか」
「新里摩耶ちゃんだよ」
長瀬はその名前を聞いた瞬間、自分の心臓に強い衝撃を感じた。そして、鼓動は早くなり、呼吸も乱れていった。元橋が何か得意げに話しているが、長瀬は何ひとつその内容は頭に入ってこなかった。
「じゃあ、おれは楽屋戻るから。楽しんでいけよ」元橋は長瀬の肩をひとつ叩くと後方のドアから出ていった。
辺りを見ると身動きが取れないほど客がライブハウスを埋め尽くしていた。どこか異様な雰囲気が会場に流れる中、会場は暗転し、低音のよく効いたSEが流れ始めた。客たちはそのビートに合わせて手拍子を始めたり、メンバーの名前を叫んだり、歓声があちらこちらで上がった。麻田も飛び跳ねながらペンライトを振り「あいかー!」と叫んでいる。
やがてSEが止まり、それと同時に客の歓声も消え、静寂が辺りを包んだ。長瀬の耳の奥底で残響が蠢いていた。
スポットライトがステージを照らすと、ステージ袖から静かに女の子たちが現れた。静寂は保たれている。長瀬の耳の中の残響は続く。
「ソルシエール、始めます」真ん中に立つ女の子がそう告げると、スピーカーからディストーションの効いたギターイントロが会場を響かせた。そこに、ドラム、ベースが重なり、最後にサイケデリックなシンセサイザーが疾走感のあるメロディーを鳴らした。
客たちはお互いに体をぶつけ合い、叫び、ペンライトを振り回している。
ステージ上の彼女たちは髪を振り乱し、激しく、可憐に舞っていた。そのアイドルの中のひとりに長瀬を蠱惑する眼差しを向ける女の子がいた。長瀬もじっとそのアイドルを見つめていた。
1曲目の演奏が終わる。
「いいだろ、ソルシエール」麻田のペンライトを握る手に力が入っていた。興奮しているのだ。
「なんか思ってたのと違って驚いてる。なんかもっとアイドルアイドルしてるのかと思ってた」
「だろ。このギャップがいいだよ」
「ニヤって子はどの子」
「あれだよ、あのショートのピンク髪の子」
長瀬は心臓をぎゅっと握り潰されるような痛みを感じた。ニヤは新里摩耶であった。
「じゃあ、早速次、新曲行きますね」そうアイドルの子が告げると、客たちは太い声を会場に響かせた。
「この曲は九十年代のメロコア 、スカコア、ハードコア、ミクスチャーが盛り上がっていたその当時に活躍されていたバンドの方が書き下ろしてくれて曲です。その当時の想いや、そういった音楽が廃れてしまった哀しさ、そして、私たちの再起にかける想いがこの曲に詰まっています。それでは聞いてください」アイドル全員がマイクを口元に近づけ、息を吸い込んで言った。
「真夜中に咲くガランサス」
スラップベースからのイントロ、そこへ四つ打ちのバスドラムが加わる。さらに、ハイハット、そしてスネアのリズムが客たちの体を揺らす。そのまま、囁くような彼女たちの歌が乗っかる。重なる音がループする。
突然、男はぐるぐると会場が回っているような感覚に陥った。
十六小節それが続き、十六小節目の最後、突如音が止まり、二分休符が入る。
パンと破裂音が鳴る。何が破裂したのかわからない。実際に何かが破裂したのか、自分の頭の中の何かが破裂したのか、長瀬は混乱していた。
客たちはお互いに体をぶつけ合ったり、肩を組んだり、手を上げて身体を揺らしたり、あちらこちらで咆哮があがっている。
そんな中、長瀬は口を大きく開け、眼は白目を向いていた。麻田は彼の様子に気づかず踊り散らかしている。
長瀬は次第に手が震え出し、頭を左右に大きく振り始めた。そして、奇声を発し、ステージ目掛けて走り出した。長瀬は客たちを突き飛ばし、柵を乗り越え、新里摩耶の前に立ちはだかった。
長瀬は一瞬だけ口角を上げた。そして次の瞬間、長瀬は新里の首元に噛みつき、首の皮を噛みちぎった。新里が持つマイクが首の皮が引きちぎられるぶちぶちぶちぶち! という耳障りな音を拾った。
新里は何が起こったのか分からず、暖かく感じる首元に手を当てた。その手を見ると、手は赤く染まり、首から肩、そして胸元へ温かい血が流れ落ちた。
長瀬は新里を見つめながら口を大きく動かし、彼女の首の皮を咀嚼していた。
彼女は我に返り、「いやー!」と叫んだ。マイクがそれを拾い、キーンとハウリング音が客たちの耳に突き刺さった。
音楽が止まり、他のアイドルたちの叫び声が連鎖する。マネージャーらしき男がステージ袖から駆け出してきて、長瀬に飛びかかった。マネージャーと長瀬はステージ上に転がり、揉み合っている。それに寡勢しようと客席にいた客たちが次々と柵を越えてステージ常に上がってくる。長瀬は客たちに羽交締めにされて身動きが取れなくなっているが、笑みを浮かべながら咀嚼を続けていた。
首の皮を噛みちぎられた新里は他のメンバーに連れられて楽屋に運ばれていた。彼女の意識は朦朧としていた。タオルで止血をするが、すぐにタオルは赤く染まっていく。客席の方で「救急車」だとか「警察」だと叫び声が聞こえる。他のアイドルたちは血で染まっていく彼女をただ見ているしかなかった。
「おい、おまえなにやってんだよ!」麻田が取り押さえられている長瀬に近づき言ったが、長瀬には彼の声が届いていないようだった。
麻田は何人もの男たちに取り押さえられ、それを振り解こうと必死にもがく長瀬をただ呆然と静観することしかできなかった。
「きゃー!」楽屋の方から複数の叫びが聞こえた。それと同時に楽屋で何かが倒れる音や「やめて!」「来ないで!」と叫ぶ女性の声がステージ上まで聞こえた。その叫び声が推しのアイドルのものだと気付いた麻田は反射的に楽屋へと駆け出していた。
「あいかちゃん!」楽屋に入るや血の臭いなのだろ、それが彼の鼻の奥を突いた。
フロアには首から血を流し倒れている女の子がいた。その血でフロアが血の沼のようになっている。その女の子は陸地に打ち上げられた魚のようにビクンビクンと身体を痙攣させていた。
「あいかちゃん!」麻田は彼女が自分の推しだということにすぐに気付くと、すぐに駆け寄り、うつ伏せになるあいかを抱き上げた。
「しっかりしてよ、あいかちゃん」彼女の首の肉は抉られ骨が見えていた。そこから止めどなく血が溢れ出る。
彼は周りを見回した。楽屋の隅で怯えている女の子たち、そして彼女たちと対峙してステージ上で長瀬に首を噛みちぎられた新里摩耶があいかの首の肉を咀嚼をしながらじっと彼女たちを見つめていた。
「どうなってんだよ」彼は目の前の不気味な光景に震えが止まらなかった。
摩耶はにたーっと笑いながら怯えるアイドルたちに近づいていった。
「来ないで!」
「摩耶ちゃんやめて、お願い!」
「どうしてこんなことするの!」
アイドルたちは目の前の恐怖によってその場から動けずただただ悲痛な言葉を摩耶に向かって叫んでいるが、彼女にはそれが面白いのか、彼女の口角は徐々に上がっていった。
麻田は首から止めどなく流れる血を流すあいかをなんとかしようと思うも、何もできずに、ただただ彼女の名前を叫んでいた。
客席の方からは男たちの怒号や悲鳴が続いていた。
こんな状況にも関わらず、麻田はなぜこんな悲惨なことになってしまっているのか考えていた。
それは、ちょうど一カ月前に遡る。麻田はカウンセリングをしてくれる精神科クリニックなどを探していたところ、自宅のポストにPTSDを専門にしている臨床心理士がいるカウンセリングルームのチラシが入っているのを見つけ、すぐに予約をしたのだった。
この頃、日本中でPTSDで苦しむ人たちが増え、病院の精神科、精神科クリニック、そしてカウンセリングルーム等の受診が難しくなっている状況だった。
そこは、高円寺のあずま通り商店街の路地を少し入ったところにある築年数四十年は経つであろうアパートの2階の一番奥の部屋にあった。部屋のドアには「カウンセリングルーム マツユキソウ」と書かれたマグネットシートが貼られてあった。
麻田がインターホンを押すと、中からドアが開き、「どうぞ」と髪の短さが印象的な女性が麻田を迎え入れてくれた。
「予約した麻田です」
「臨床心理士の柏木亜希子です」
麻田は柏木亜希子を名乗る彼女をどこかで見たことがあるか、どこかで会ったか、などと記憶の奥底を探索していたが彼女の質問にそれはかき消されてしまった。
「今日はどうされましたか」
「最近うまく眠ることができないんです。いや、眠れるんですけど、無理やり寝ているというか」
「今日はお酒は飲まれていますか」
「すみません。匂いますか」
「ええ。お酒は一日どの程度飲まれるんですか」
「朝起きてまず飲んで、一時間ぐいらいですかね、ぼーっとしてまたお酒を飲んで、お昼くらいに出かけるかってなるんです。それで、散歩とかに行くんですけど、コンビニとかを見つけると、そこに入ってお酒を買うんです。それで、それを飲みながらまた散歩をするんです。それで、今日はここに来ました。すみません」
「だいぶ飲まれてきたということになりますね」
「すみません」
「率直に申しますと、今のお話を聞く限りでは麻田さんはアルコール依存の可能性が高いと考えます」
「やっぱりそうですよね。だと思いました」
「その原因はわかりませんが、アルコール依存症を治すためには原因を探る必要があります。しかし、今の麻田さんの状態では、それを探るのは難しいと考えます。ですので、まずはアルコールを抜いてきてください。ずっととは言いません。今から明日のこの時間までお酒を飲むのを我慢してください。そして、また明日、ここへ来てください。できますか」
「頑張ってみます」
「これ、麻田さんの趣味に合うかわかりませんが、お酒を飲むことから気を逸らせるかもしれませんので、試しに持っていってください」
「なんですか、これ」
「ソルシエールというアイドルのDVDです」
「アイドルのDVD」
「アイドルにはあまり興味はありませんか」
「そうですね。世間一般的に知られているアイドルなら聞くことはありますが、ハマったりということはこれまではないですね」
「そうですか。騙されたと思って見てみてください。きっと麻田さんを元気にしてくれると思います。アイドルは薬みたいなものですから」
「薬ですか。わかりました。気が向いたら見てみます」
「では、また明日」
麻田はカウンセリングルームを出ると自宅へまっすぐ戻ることにした。自宅へ戻る途中には当然のようにコンビニやスーパー、そして酒屋もある。しかし、麻田は店の前を通る度に俯き、拳をぎゅっと握って「明日まで禁酒、明日まで飲酒」と囁くようにそれを唱えながら店の前を通り過ぎていった。
漸く自宅に着くと、麻田は冷蔵庫を開けた。もちろん、冷蔵庫の中にはキンキンに冷えた酒が何本も入っていた。麻田はそれらを取り出し、キッチンへも持っていくと、プルタブを開け、中身を流しに捨て始めた。「明日まで禁酒」とまた唱えながら、すべの酒をキッチンへと流した。
明日のカウンセリングまであと二十三時間かと麻田は思うと手が震え始めた。
麻田は気を紛らわすために本を読むことにした。本棚を眺め、最近ネットで購入し読み始めたばかりの本を手にした。麻田はその本の「私と兄は生きる屍」というタイトルに惹かれ、購入をした。
内容は、私(彼女)が兄の自殺現場を見てしまいPTSDになってしまったというところから話は始まる。なぜ、彼女の兄は自殺をしなければいけなかったのか。彼女はその真相を兄の婚約者と共に探り、真実へとたどり着いたという。約一年前に日本中が地獄と化したあの日に彼女もゾンビとなり、復讐を遂げたのだ。ゾンビ化した人たちは全員、その時、つまり人を食っている時の記憶は一切ないという。彼女も同じように復讐を遂げている時の記憶は一切なかった。だからその描写は書かれていなかった。しかし、麻田はその日、人が人を食う現場に居合わせていたこともあり、その描写が本の中になくとも彼はその様子を思い浮かべることは容易であった。麻田はその時の記憶を思い出すと、激しい動悸に襲われたり、吐き気を催したりすることがあった。
麻田は本を読むことを一旦止め、柏木亜希子から渡されたDVDを見ることにした。嫌な気持ちを吹っ飛ばしてくれるのではないだろうかと麻田は期待をしながらDVDを再生した。
DVDはソルシエールのライブ映像が収録されたものだった。
ライブが始まり、すぐに麻田は彼女たちのパフォーマンスに釘付けとなった。特に麻田が目を引いたのは、中山あいかというメンバーだった。メンバー5人の中でも飛びぬけて目立つ子でもあった。どうしても中山あいかに目がいってしまうのだ。彼女を見続けていくうちに、いつの間にか、麻田の心の隙間に彼女がすっぽりと入り込んでいた。1時間程度のライブ映像だったが、麻田はすっかり中山あいか、そしてソルシエールのファンとなっていた。
ライブ映像が終わり、彼の心臓の鼓動はドラムロールが鳴っているようなそんな今までに経験したことの感情が湧き出そうとしていた。
麻田は夜風に当たって落ち着こうと散歩に出ることにした。部屋を出ると、もうすぐ陽が暮れる時間だというのに熱い空気が彼の呼吸を苦しくさせた。アパートを出てすぐに自動販売機で炭酸水を買って、喉を潤した。本当はキンキンに冷えたビールかハイボールで流し込みたいところだが麻田は、もう一口炭酸水を喉に流し込んで我慢をした。
麻田の散歩コースはいつも決まっている。善福寺緑地公園の善福寺川沿いを歩き、和田堀公園を通り過ぎ、大宮八幡宮でお参りをして帰ってくる。時間にして三十分程度の散歩コースだ。
麻田はスマホを取り出し、音楽配信サービスアプリを立ち上げた。そして、ソルシエールと検索し、彼女たちの曲のタイトルが画面に出てくると適当に一曲再生をし、その後はランダム再生で歩きながら彼女たちの曲に酔いしれた。
いつものように散歩コースを歩いていると、善福寺緑地公園の川沿いのベンチに行き交う人々や川の流れを物憂げに見つめる青年に目が止まった。彼は高校の時の同級生だった長瀬誠だった。麻田はイヤホンを一旦外し、彼に声をかけようと思ったが、声をかけることを止め、イヤホンをまた付け散歩を続けた。久しぶりに見た、長瀬はやせ細り、自分と同じ何か重たいものを抱えているようにも思えた。
大宮八幡宮でお参りをし、来た道を戻ると、まだ長瀬は同じベンチに腰かけていた。麻田は遠くから彼を眺め、再び歩き出し、自宅へと戻った。
麻田は少しだけ気持ちが落ち着いたと感じ、本の続きを読むことにした。
彼女は復讐を無事遂げることができたことを、その現場に居合わせた婚約者から聞かされた。それを聞いた彼女は心から安堵した。そして、心に痞えていた何かが取れたようにも思えた。しかし、その痞えていたものすべてが取れたと彼女は思えなかった。まだ、自分の中に異物がある。しかし、それはなにかわからない。彼女はその異物は何なのかを抱えながらどこかで暮らしている。そこで本は終わった。
窓の外はしっかりと暗くなっていた。時計を見ると、十一時を少し過ぎたところだった。
麻田はまだ眠気を感じていなかった。いつもならこの時間にビールとチューハイを数本開け、いつの間にか寝てしまっているというのが常だった。しかし、今日はそうもいかず、腹を満たせば眠くなるだろうと、カップラーメンを食べ、ベッドで横になりながらユーチューブでソルシエールの動画を見ることにした。自分でも不思議だなと感じるのは、なぜアイドルを見ていると心が落ち着くのだろうということだ。特に推しのアイドルの歌って踊る姿、特に中身がなく、つたない彼女たちのトークを見ていても心が安らぐのだ。
いつの間にか麻田は眠りに落ちていた。目が覚めるとカーテンの隙間から太陽の光が漏れていた。慌てて時計を見ると、まだ朝の6時であった。麻田は起き上がり、水道の水をコップ一杯飲んだ。アルコールが体内にない状態で朝を迎えるのはいつぶりだろうかと麻田を考えていた。身体はいつもより軽く感じた。
お昼前、麻田はカウンセリングルームマツユキソウへと向かった。
「ここにいるということは約束を守れたということですね」
「そうなりますね」
「昨日はどのように過ごされたんですか」
「昨日は、お酒の代わりにたくさん炭酸水を飲みました。それから本を読んで、先生に借りたDVDを見て、散歩に行きました。先生」
「なんでしょう」
「ソルシエール、最高ですね」
「そうでしょ。女性の私でもファンになってしまうくらい彼女たちは魅力的なんですよ。特にニヤは私の推しなんです」
「へえ、そうなんですね。先生はライブとかには行かれたりしないんですか」
「私は映像の中にいる彼女たちで十分です」
「そうですか。僕はライブに行きたいって思いました。生で彼女たちを見てみたいです」
「いいじゃないですか。是非行ってきて感想を聞かせてください」
「でも、ひとりで行くのはちょっと勇気がいりますね」
「どなたか友達を誘って行けばいいのではないですか」
「友達ですか。あ、先生、昨日、昔の友人を見かけたんです」
「お話はされたんですか」
「いえ、なんか声をかける勇気がなくて」
「どうしてですか」
「わかりません。長瀬、あ、彼は長瀬誠って名前なんですけど、彼とは高校の時の同級生で、仲が良かったんですよ。でも昨日、彼が病んでるというか、もしかしたら僕と同じようなことで悩んでいるのかなって見えたんです。先生だったら同じ状況なら声をかけていましたか」
「どうでしょうね。今の自分の状況を隠したいと思うなら声をかけないでしょうね」
「あー、それかもしれませね。僕が彼に声をかけなかったのは」
「でも、もし同じ悩みを抱えていたとするなら、その悩みを共有したいと思う気持ちもありますね」
「共有ですか」
「ええ。同じ悩みを持つもの同士でお互いの悩みを聞き合うんです。ピアサポートというものなんですけどね」
「ピアサポート」
「同じような立場の人がお互いを助け合うんです。同じような立場だから、お互いの痛みや何を求めているかということがわかるんです。今度また彼と会ったら話かけてみたらどうですか」
「そうですね。ピアサポート。いいですね、それ」
「そして、その長瀬誠さんとソルシエールのライブに行ったらいいと思いますよ」
「DVDであれだけ僕を元気にさせてくれたんですもんね。これは誘うしかないですね」
「是非誘ってあげてください」
さっきまで、男たちの怒鳴り声や悲鳴が聞こえていた客席はいつのまにか何の音も聞こえなくなっていた。
麻田は、暴動は収まったのだと思った。その瞬間、新里摩耶と睨み合っていたアイドルたちが悲鳴をあげた。
楽屋の入口から顔や身体を血だらけにした男たちが雪崩れ込んできて、ソルシエールのメンバーたちを襲ったのだ。彼女たちの血が天井や壁に飛び散りに楽屋を真っ赤に染めていく。そして、血しぶきが上がる度に彼女たちの悲鳴が徐々に小さくなっていき、肉を引きちぎる音、その肉を咀嚼する音だけが聞こえていた。
麻田は絶望を感じていた。死がそこまで来ていることを感じていた。もっと生きたかった。そんなことを考えていると、右腕に激しい痛みを感じた。その右腕を見ると、中山あいかが麻田の腕に噛みついていた。そして、一瞬にして右腕の肉を嚙みちぎった。麻田はその痛みからくる怒りで反射的に彼女を蹴り飛ばした。蹴り飛ばされた彼女は、麻田の方を向いてにたーっと笑っていた。
麻田は頭の中、いやそれだけではない、体中が怒りという感情で浸食されていくように感じた。そして、「人を食いたい」と思うのだった。




