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真夜中に咲くガランサス  作者: 一ノ木深緑
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第十二話 プレリュード

「PTSDってご存知ですか」

「はい。一応、心理を学んでいるので」

「今、長瀬さんはその状態にあります」

「僕がPTSDですか」

「その原因に思い当たる節はあるはずです」

「それは」

「思い出さなくて結構です。今、日本中でPTSDで苦しんでいる方が増えているようです。あんな事件を目の前で見たらどんな人間だってショックを受けます」

「これから僕はどうしたらいいですか。眠れないのはやはり辛くて、それからイライラすることも最近多いんです」

「まず、不安を抑えるお薬を出しておきますので、数週間それで様子を見ましょう」

「わかりました」

「処方箋出しておくので受付で受け取ってください」

「わかりました。ありがとうございました」長瀬誠は主治医に会釈をし、診察室を出た。


 研究室で起きた事件の後から長瀬誠は精神のバランスを崩していた。それは自分でも自分自身がおかしくなっているとわかるような状態であった。しかし、そのうち時間が経てば、元に戻るだろうと考えていたが、状況は改善するどころか、日に日に、食欲が落ち、眠れる日も少なくなり、何かのタイミングでフラッシュバックが起き、感覚が過敏になり、何気ないことでも苛つき、そして何かを破壊してしまったり、時には自分を気付けることもあった。いよいよ、どうにも自分では対処できないと諦め、自宅近くの精神科クリニックを訪れたのだ。

 研究室で起きた事件以来、長瀬はそこにいた人たちとは一切連絡を取っていなかった。だから、新里摩耶も彼女の兄も、浦沢彩月も、他の学生もその後どうなったかわからなかった。ただ、ニュースで坂垣と飯田は死亡し、新里兄妹は捕まっていないこと、そして、その日、研究室で起きた惨劇と同じ事が日本各地で起きたことも大々的にテレビなどで報道されていたのでわかっていた。その後、事件を起こした人たちは、事件後にまた誰かに危害を加えることはなかったという。

 事件を起こした人たちの内、警察に逮捕された人たち全員が犯行時の記憶がなく、彼らは精神鑑定後、謂わゆる精神病院に移送され、そこで生活をしていた。彼らの大半は日が経つに連れて元の自分に戻っていった。ただ、犯行時の記憶は一切思い出すことはなかった。

 その当時、日本中で数十万という単位のヒトが一斉に暴徒化し、他人を食ったが、警察がその事件を起こしたヒトたち全員を捕まえることは不可能であった。警察に運よく捕まらなかった者たちは血だらけの自分の姿を見て自分が何をしたかを察したが、その時の記憶は一切なかった。彼らの中には自首する者もいたが、大抵の者たちは元の生活に何事もなかったかのように戻っていた。

 テレビでは連日、犯人たちの責任能力についての議論が絶えず放送されていた。それに加えて、犯行に及んだ人たちが服用していた薬に付いても連日、メディアなどで話題に上がっていた。流通していた薬はすべて回収されたとメディアでは伝えていたが、SNS上では、その薬はまだどこかに存在し、ゾンビドラッグと呼ばれ、裏で取り引きがされているという噂も流れていた。しかし、ニュースなどでは人が人を食べた等という事件は一切報道されることはなく、ゾンビドラッグは噂に過ぎず、月日が流れるに連れ、人々は事件のことを忘れていった。時折、ニュースで事件を起こしたヒトの裁判の判決結果が伝えられたが、長瀬誠が見たニュースのすべてが無罪と伝えていた。


 長瀬誠が薬を服用し始めてから二週間が経ち、再び新高円寺にある精神科クリニックを受診していた。

「調子はいかがですか」

「何も変わっていないと思います。夜は眠れませんし、食欲もないし、ちょっとしたことで苛ついてしまうことも変わりないです。これはつまり薬が聞いていないということでしょうか」

「そうですね。そう考えるのが妥当かもしれませんね」

「違う薬を試すということは可能なのでしょうか」

「そうですね。私も様々な可能性や方向性を考えていました。長瀬さんはこれからどんな生活を望みますか」

「どんな生活」

「はい」

「できるなら病気になる前の自分になりたいですね」

「なるほど。私も前回、長瀬さんのお話しを聞いた時にそのような生活を望んでいるのではないかと思い、あの薬を処方したんです」

「でも、効かなかった」

「ええ。そこで、提案なのですが、まだ治験の段階の薬があるんですが、試してみるというのはどうでしょうか」

「どんな薬なんですか」

「SSRIつまり、選択的セロトニン再取り込み阻害薬の一種でして」

「抗うつ剤ですよね」

「はい。試していただきたい薬は従来の抗うつ剤よりも意欲を高める効果があるようです」

「意欲が高くなる」

「何かをしたいという意欲が高くなる傾向があるとこれまでの研究では明らかになっています。結果的にその意欲が生きる力となり、以前のような生き生きとした生活を送ることができるようになるということです」

「それは魅力的ですね。副作用もなにか違ったものがあるんですか」

「いえ、個人差はありますが、一般的な抗うつ剤の副作用と変わりはないと言われています」

「そうですか。先生」

「なんですか」

「その薬を飲んで、ゾンビになったりしないですよね」

「なるわけないじゃないですか。あの事件以来、更に治験は厳しく管理されるようになったんです。それにこの薬はアメリカと日本の共同開発なんです。だから心配ありませんよ」

「アメリカとの共同開発なんですね。あんな事件があったのに、アメリカもよく日本と共同開発なんてしようと思いますね」

 主治医はそれに対しては返答はしなかった。

「わかりました。その薬試してみます」

「では、こちらの書類に必要事項を記入していてください。私は薬を持ってきますから」そう言うと主治医は診察室から出て行った。

「お待たせしました。書き終わりましたか」

「これで大丈夫ですか」

「大丈夫です。じゃあこれが薬になります。二週間分入っています。夕飯の後に服薬してください。何か少しでも変化を感じたらすぐに連絡をください」

「わかりました」長瀬は主治医から薬を受け取り、鞄にしまった。

 その日の夜から長瀬は薬を服用し始めた。薬を飲んだ後、短めにお風呂に入り、お風呂から出ると水をコップ一杯だけ飲み、ベッドへ横たわった。薬の効果か、長瀬はそのまま眠りに落ちてしまった。

 夢は見なかった。目を覚ました時に久しぶりに感じる頭がすっきりしたような感覚を味わった。長瀬はベッドから降り、トイレで用を足した後、すぐに朝食の準備を始めた。長瀬は空腹を感じていた。これも久し振りに感じる感覚であった。

 長瀬は、トーストを焼き、ハムと目玉焼きをフライパンでカリカリにななるまで焼いた。その焼けた匂いで腹がぐぅと鳴った。皿にトーストと焼けたハムと目玉焼きを乗せ、テーブルへ運んだ。コップに氷を入れ、そこへコーヒーを注いだ。これで朝食の完成である。

 長瀬はテーブルに着き、出来上がった朝食を眺め、久し振りに味わう小さな幸せに喜びを感じていた。薬が効いているのだ、彼はそう思った。

 長瀬は朝食を食べ終えると、どこかへ出かけようと思った。そんな風に思うのも久しぶりだと、少し心が躍るように感じた。

 身支度を済ませ、部屋を出た長瀬は特に行く宛も考えず、散歩でもしようと阿佐ヶ谷の方へ歩き出した。住宅地を通り抜け、中杉通りに出ると、長瀬は区役所の方へ向かった。区役所まで辿り着くと、今度は青梅街道を渡り、また住宅地を練り歩き、しばらくすると善福寺緑地に出た。

 長瀬は善福寺川の川沿いにポツポツと並ぶベンチのひとつに腰掛け、川沿いを散歩したり、走っている人たちをぼんやりと眺めながらしばらそこでく過ごした。

 大学にはまだ行くことはできていなかった。今日は行くことができるかなと思ったが、自然と大学とは反対の方へ足が向いていた。大学のことを考えたり、大学へ近づいたりすると、あの日の惨状がフラッシュバックしてしまうのだ。昨日から飲み始めた薬が効いて、元の生活に戻れることを長瀬は期待していた。そして、また新里摩耶に会えることを心から願っていた。彼女は今どこにいるか、彼女だけではない、彼女の兄の新里亨、浦沢彩月もそうだ。彼女たちはいったい何をしたのか。そんなことを考えていると、不意に遠くから声をかけられた。

「おーい」と言いながら長瀬の方へ駆け寄ってきたのは高校の時の同級生で長瀬とは違う大学に通う麻田武であった。

「久し振り、長瀬おまえめっちゃ痩せたな」

「麻田か。久し振り」

「なんかいろいろ大変だったな、おまえの大学」

「まぁな。それよりこんなとこで何してんだよ、麻田は」長瀬は事件の話題を反らせた。

「何って言われても、強いて言えば暇だな。長瀬こそこんなところで何してんだよ」

「暇だよ」

「一緒じゃねぇか。じゃあさ、長瀬ん家行こうぜ」

「うち。なんでだよ」

「久し振りにやろうぜ。家にあるんだろ」

「なにをだよ」

「ボードゲームだよ」

「あー、なにを言い出すかと思えば」

 ふたりは高校時代にボードゲームにハマっていた。周りの友人たちはスマホやゲーム機で遊ぶ中、長瀬と麻田はボードゲーム同好会まで作り、熱心に様々なボードゲームを放課後を問わず、休日も夢中で遊んでいた。

「家に何ある」麻田は目に期待の色を浮かばせて聞いた。

「ガイスター」

「くぅぅ。懐いな。よし、じゃあ行こう」

「ほんとに来るのかよ」

「当たり前だろ。こんなところで偶然出会って、ボードゲームしないなんて狂ってるぜ」

「狂ってはないと思う」

「いいから行こう」

 ふたりは高校時代に熱中していたボードゲームの思い出話をしながら、長瀬の家へと向かった。

「到着」

「ここがかの有名な長瀬邸ですか。では、おじゃまいたす」

「どうぞどうぞ、ちょっと散らかってるけど」

「おい、長瀬。お前にはこれがちょっとの散らかりに見えるのか。俺にはゴミ屋敷にし見えんぞ。ゲームの前に片付けだ」そう言うと麻田はテキパキと不必要なものを遠慮なくビニール袋に押し込んでいった。長瀬もビニール袋を片手に不要なものをそこへ入れていった。三十分もすると、部屋は見事に綺麗になった。

「ありがとう、麻田」

「部屋は綺麗な方がいいだろ」

「だな」

「よし、部屋も片付いたことだし、やるか」

 ふたりは時間を忘れ、ボードゲームをしながら、お互いのこれまでの話をした。お互いというよりも長瀬が堰を切ったかのように、大学に入ってからのこと、事件のこと、病気のおと、これからかのことを麻田に話しをした。

「PTSDか。それは辛いな」

「この辛さをひとりで背負って生きていくのは本当に辛いなって最近感じることがある。でも、麻田に話しを聞いてもらったことで、少し気持ちが軽くなった気がするよ。やっぱり毎日気が滅入るから部屋に閉じこもったり、人となるべく会わないようにって思って生活をしちゃうんだよね。これはきっと自分でしか解決できないことだって思ってるところもあってさ。それが余計に殻に閉じ籠る原因でもあるってわかってるよ。でも、なんか今は麻田が話しを聞いてくれたから、何か違う自分が生まれたような感じもする。次のステップに行けるかもって」

「次のステップか、いいね。じゃあ何する」

「いや、それはまだ何かは思い付かないけどさ」

「じゃあ、一緒に行くか」

「どこに」

「アイドルのライブ」

「アイドルのライブ」

「いいぞーアイドルは。じゃあ決まりね。チケット取っておくから。ちなみにだな、日にちは二週間後だな。どうせ暇してんだろ。騙されたと思って来てみろよ」

「考えておくよ」

「詳細はLINEに送っておくから。ってことで、おれは帰るわ。もうこんな時間だし」

 時計を見ると十一時を過ぎたところだった。

「もうこんな時間か。なんか久しぶりの楽しい時間を過ごせたよ」

「俺もだ」

「じゃあ、気を付けて帰れよ」

「おう、今度はアイドルのライブでな」

「それは考えておくよ」長瀬は穏やかな笑顔で麻田を見送った。


 二週間後、長瀬は麻田に誘われたライブの前に精神科クリニックを訪れていた。

「調子はいかかですか」

「とても良い状態だと感じています」 

「詳しく聞かせていただけますか」

「夕飯の後に薬を飲んで、次の日の朝の目覚めがとても良くて、目覚めた瞬間からすっきりとしているんです。前までは寝られないことがありましたが、それもなくなって、途中で目覚めることもなくなりました。ぐっすりと眠れていると感じます。脳が休めているという感じがします。日中も活動が増えました」

「日中はどんなことをしてるんですか」

「最近は、朝起きてすぐランニングをしています。その後に朝食を食べて、少し休んだら身支度をして、出掛けています」

「どんなところに行くんですか」

「最近は福生に行きました」

「横田基地があるところですよね」

「そうです。あの辺りにはお洒落なカフェとか雑貨屋さんがあったり、昔、米兵が住んでいた住居が博物館になってたり、面白いところなんですよ。先生は行ったことありますか」

「いえ、ないですね」

「あと、僕がPTSDと診断されたことで、PTSDについて自分なりに調べたりしたんですよ。いろんな本を読んだり、映画を見たりした中で、アメリカンスナイパーっていう映画にとても興味を持ったんです。先生は見たことありますか」

「ええ、それなら。クリントイーストウッド監督の作品が好きでよく見るので、その映画ももちろん見ています。それで横田基地にも」

「それもありますね。米兵に会って戦争の話しとかを実際に聞いてみたりしたかったんですが、結局、お洒落なカフェと雑貨屋巡りで満足して帰ってきちゃいました」

「お話しを聞く限り、薬は長瀬さんに効いているようですね。このまま続けましょうか」

「そうですね。続けてみたいです」

「では、また二週間分持ってきますね」

「先生」

「なんでしょう」

「夕方くらいなると手が震えることがあるんですが、これは薬の効果が切れてしまっているという身体の合図みたいなものなのでしょうか」

「そうですね。ちょうど二十四時間が経つ頃に薬の効果が切れるというデータがあります。長瀬さんの場合は手が震えるんですね」

「はい」

「それは薬を飲めば治まりますか」 

「治まります」

「わかりました。記録しておきます」

 主治医はパソコンに何かを打ち込み終わると診察室を出て、すぐに薬を持って戻ってきた。

「では、また二週間後に来院してください」

「わかりました」

「今日はもうお帰りですか」

「いえ、これからアイドルのライブに行くんです」

「アイドルのライブですか。いいですね。時にアイドルのライブは人生を狂わせると言いますからね、長瀬さんも気をつけてください」

「そんなにどっぷりとはハマりませんよ、きっと。今日は友人に誘われて行ってくるんです」

「そうでしたか。では、楽しんで来てください」

「ありがとうございます」長瀬はそう言うと診察室を出た。

 クリニックを出ると、さっきまであった青い空は所々、灰色の雲に隠れてしまっていた。

 長瀬は新高円寺から電車を乗り継ぎ、下北沢へ向かった。

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