エピローグ
天空人の社会はかつての貴族のそれとよく似ている。彼ら自身は富と力を得た者の振る舞いは似てくるのだ、とでも嘯くかもしれないし、口さがない者、あるいは彼らを妬む者は、種族としての伝統が浅い劣等感の裏返しだ、と揶揄するかもしれない。
とにかく、かつて地球で栄えた数多の王朝さながらの文化が、月面においても――多少なりとも形を変えつつ――また花開いている。
華やかな社交界の賑わいや盛んな慈善事業はもちろんのこと。例えば乗馬の代わりにホバークラフトで静かの海を駆けることもあるし、種々のスポーツ競技は無重力空間で踊るように楽しむものへと進化している。
もっとも、再現が難しい習慣も当然のことながら存在する。紙を使うやり取りなどはその最たるものだろう。何しろ月面では木材は貴重だし、嵩張る紙の媒体を保管できる空間は例えようもなく贅沢なのだから。
古の王侯が蔵書を知識のためというよりは財力と権力のために誇示したのとおなじ構図が、図らずもこの現代に甦ったことになる。サロンに集う紳士たちがアクセサリーのように携えていた新聞などの類も、電子媒体になって久しい。
それでも社交界の醜聞は相変わらずゴシップ紙を賑わせるているし、紙面――この言い方自体がひどく古びたものなのだが――の目立つ場所に広告を載せるのがステータスになるのも変わらない。
広告といっても企業の製品を宣伝するためのものではない。誰と誰の結婚だとか婚約とか、何がしかの記念の会だとか。要は天空人の名士の影響力や人望を誇示するためのものだ。招待状の意匠や材質に趣向を凝らすことはできなくなっても、否、電子媒体だからこそ、天空人たちは競って音や立体動画を駆使した奇抜な広告を打ち合うのだ。
そんな音と光の氾濫の中にあって、その広告はひどく素っ気ないものだった。視覚や聴覚に訴える演出は皆無で、ありふれた斜体の字体で簡単に事実を伝えるだけのもの。記事を囲む装飾こそ薔薇だったが、華やかな印象とも無縁だった。何しろその記事はある人物の訃報を報せるもので、文字も装飾も黒一色だったのだ。
著名な人物の訃報ということでもなく、大規模な催しがあるということでもなかったから、その記事に目を留めた者は多くなかった。死者の名を読むところまで進んだ者も、それがどのような人物かを知る者は更にごく限られていた。その人物が社交界で活躍したのは、もう昔と言って良い時代のことだったから。
そのわずかな者たちは、訃報を読んで目を瞠り目を疑って短い文を繰り返しなぞっただろう。記された享年からして、その人物が召されること自体は驚くべきことでもさほど悲しむべきことでもなかったが――その広告を掲載させた人物が問題だった。
どのような運命の悪戯によって、彼が彼女の最期に関わることになったのか。
ごく狭い範囲にではあったが噂と憶測が駆け巡り、ふたりと同様に老いた者たちにかつての日々を懐かしませた。ことに、天空人の社交界で薔薇のごとくに咲き誇った彼女のことを。
枯れ果てたと揶揄された彼女の花が、ついに落ちたのか。彼女の最期はどのようなものだったのだろう。彼は、その時に立ち会ったのだろうか。そこに交わされた言葉はあったのだろうか。
彼の執念を嗤う者もいたし、彼女の意固地さを憐れむ者もいた。記事上の姓名からして、ふたりが結婚していたのではないことは明らかで、だからこそ様々な仮説が飛び交った。
その記事は彼の勝利の宣言だったのかもしれないし、生きている間は彼女がとうとう屈しなかったという証だったのかもしれない。――そうではなくて何らかの想いの結実だと読んだのは、ふたりを知るわずかな者の中でもさらにどれだけいただろうか。
いずれにしても、彼女と彼の本心を知る者はいなかった。余人に心の底をさらけ出すには、彼女はあまりに誇り高く、彼はあまりに不器用だった。
ふたりの想いを知る者は誰もいない。あるいは彼ならば何かしらの分析を提供することができたかもしれないけれど、誰も彼に尋ねることには思い至らなかった。それに、彼の記憶も既に無に帰しているだろう。主を失ったアンドロイドは、その秘密を守るためにあらゆる記録を抹消されるものだから。
精緻な造りの一点もののアンドロイドは、骨董品として好事家がこぞって求めるものではあるが、それはいわば魂を失くした肉体だけ。長年に渡って積み重なった回路の軋みが、最期に彼に何をさせたか言わせたか――それもまた、ゼロと一との狭間に消えた。
どこかのガラスケースの中で微笑む彼の美貌は変わらない。アンドロイドの表情など作られたもの、その場に応じて算出された最適の感情――のようなもの――を浮かべるだけだ。その微笑みを見て何らかの意味を見出す者も、もういないのだろう。
残ったのは彼ひとり。その彼に残された日々も、人間の平均寿命を考えればもうわずかだ。砂時計の砂は確実に落ち続けて間もなく尽きる。そして彼も地上から去った時、彼らの想いは今度こそ永遠に明かされない秘密として消える。
彼女と彼と――もしかしたら――彼がいたことの名残となるのは、ただひとつの墓標。緑が茂る――天空人でさえも永久の眠りに際しては地球の大地を忍ぶから――墓地で、薔薇に囲まれ佇むそれは、雨の降らない月面にあっては決して朽ちることも苔むすこともない。偶然にでも目を留める者がいたならば、その一角が花も木々も墓石も美しく調和するように心が砕かれていることに気付くだろうか。そして、そこに眠る人や墓を作らせた者の心に思いを馳せることもあるだろうか。
冷たく滑らかな大理石に刻まれた名前は、エレオノーラ・デュケ。碑文は故人を忍ぶものや讃えるものではなく、短くひと言。
――私の、永遠の。