仮面夫婦
家に帰ると、気の利く家令とにこやかな家族に出迎えられる。
そんな日々に憧れる時期も、確かにあった。うちの両親は、貴族の中でも珍しく恋愛結婚だったらしい。自分の子どもの頃などは、しばらく父親が家を空けただけで、熱烈に母親が出迎える。ちょっと過剰な出迎え方は、こちらが恥ずかしくなるものだったが、友人宅へ泊まるまではどの家でも当たり前なのだと思っていた。「年頃の息子の前で、あからさまにいちゃつかないでほしい」と、よく呆れたものだ。
だから、友だち宅で出迎え方法をみて首をかしげた。
「お前の母親は、帰ってきた父親に抱き着いたりしないんだな」
「はぁ?普通あんなもんだろう。そもそも、家の両親が抱き合ってる姿なんて、見たことないぜ」
「そうなのかっ?」
友人の言葉は衝撃的だった。
母親とはいつも茶会や買い物に忙しいもので、出来立てのクッキーの香りはしないものらしい。おまけに、ボタンを繕ったり娘の髪をすすんで結ったりもしない。それを聞かされて初めて、父親のことはなんでもしたがる母親の異質さを実感した。おまけに言うと、貴族だった母親は相当努力して、身の回りのことをできるようになったらしい。父親だってそんな母親に理解があるし、よその貴族のように愛人の一人もいない。ちょっと抜けているところもある両親だが、領民にも慕われている尊敬できる人たちだ。
子どもの頃は当たり前のように、自分もいつかは両親のような結婚をするのだと思っていたのが、叶わぬ夢だと諦めることにした。
✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾
友人と家で酒を飲み、気分が良くなったから外で飲み直そうという話になった。
若干渋られたが、この男もなじみにしていた店の名を出せば友人の顔も変わった。
「今晩は、話題の歌姫が歌うらしいぞ」
「嗚呼。たしか天使の子守唄とか、言われている歌をさえずる歌姫だったかな?」
「そうそう。舞台にその娘が立つと、あまりの心地よさに眠る客が続出するとか」
「それは歌姫として、誉められているのか分からないな」
「そうだろう?ましてや、店としても金を落とす客が寝てたんじゃあ、商売にならないだろうに」
「ちょっとは、興味が沸いたかい?」
「……君も、大概策士だな」
「ほら、つべこべ言ってないで、馬車を用意させているから行くぞ」
正直なことを言えば、店で一夜の相手を見つけられれば僥倖といった気持ちだが、友人はそこまで付き合ってくれる気はないらしい。まぁ、なじみの店で困ることもないし、いざとなれば相手を用意するのも難しくはない。今はとりあえず、生まれたての歌姫を拝みにこの家を出ることが重要だ。
家令が「ご用意が出来ました」と、呼びに来たことでようやく友人が重い腰を上げる。
わずかに潜められた顔は連日の外泊を責めているが、声に出さない小言にまで耳を傾けていたら、耳がいくつあっても足りはしないと無視をする。
「あーあ、お宅の家令が呆れているぞ」
「僕は渡り鳥のようなものだからね。過ごしやすい場所を求めて、あちこち飛び回っているのさ」
「昔は、両親みたいに温かい家庭を築くんだって、可愛かったのになぁ」
「可愛らしい僕の夢は、君のお蔭で現実的なものに変わったんだよ」
「俺は逆に、お前んちの両親の影響であーんなに可愛い嫁さんをゲットできたのになぁ」
「……惚気なら店についてから聞いてやるから、早く帽子をかぶってくれ」
こちらはいつでも出かけられるように、ステッキまで持って用意しているのに、目の前の男はなかなか足をすすめようとしない。
どうやらこの男は、妊娠で里帰りした奥さんのいない家に帰りたくないらしい。けれど店に行けば、一夜の夢を売る花たちが寄ってくることは必須だし、極力危ない橋は渡りたくないのだろう。何も無理に友人を巻き込むつもりはないが、散々のろけを聞かされたこちらとしては、ちょっとくらい付き合って欲しいものだ。
「―――お出かけですか?」
「やぁ、奥さん。長くお邪魔して、申し訳ありませんね」
出迎え時、友人に挨拶して以降、ずっと別室にいた妻が玄関ホールまでやってきた。
幾らなんでも、これから別の女性に会いに行くのを見られると気まずいものがある。何も普段と変わらないつもりでいるが、知らず緊張していたのに気付いたのだろう。友人が「こんな時間に出掛けようとするなんて、旦那を叱りつけたりしないのですか?」なんて余分なことを口にした。
あからさまにこちらを二やついてみてくるから、本当に頭に来てしまう。
「なにも、毎日のことではないし、男には社交も重要な仕事だからな」
そんな言い訳が、つい口をついて出る。
物言いたげに見られたことはあっても、一度も止められたことはない。
ましてや、行先も聞かれたことはないのだから、余計な事を言ってくれるなと男を睨みつける。そんな願いは、違った形で破られることになる。
「―――別に、この人がどこで誰と何をしようと、興味ありません」
「そうかい」
思わぬ聞いた答えが、想像以上にうれしくないものだったと眉をあげる。
友人にそそのかされたといえ、聴きたくない答えを聞いてしまった。いくら恋愛結婚ではないとはいえ、ここまで己のパートナーに無関心でいられるものなのか。
別段期待していたわけではないのだが、何かもやもやするものが残る。
その日は、苛立ちもそのままに、友人をつき合わせて、酒樽を抱えながら酒場で夜を明かした。
不愉快な思いをしてから日が経ち、再び友人が家の屋敷を訪れた。
「この前、酒樽を抱えながらもう二度とおまえとは飲まないっと、言われた気がするのは僕の気のせいだったかな?」
嫌味交じりに酒を注いでやると、タイミングよくつまみを持った侍従がやってくる。
すっと出て行こうとした背中に、追加は不要だと告げて暇を出す。これで、誰に邪魔されることもなく差しで飲むことが出来る。
この前に、この男のせいで一夜の相手を得損ねた恨みを、つらつらと述べた。
「そもそも、僕たちのような貴族は跡取りをつくることを推奨されこそ、責められる謂れはないね」
だから、君のほうが異質なんだと、続けようとした言葉は、「そんなこと言って、他所にばかりばら蒔いて、奥方との仲が冷めきったままなら、『政略結婚』の意味が半減するじゃないか」と言われ黙りこむ。
政略結婚をした夫婦でも、子が出来て情が沸いたというものや、ある種の協力態勢ができた者もいる。 それを考えると、まだ新婚と言っても良い僕の行いは、誉められたものではないだろう。
「別に、仲が冷め切っているわけじゃないさ」
そもそも、冷めるほどの熱など初めからなかった。
一目見て、この女性となら例え政略結婚でもうまくやっていけると思った。それなのに、相手は常にこちらに興味などない様子で、淡々としている。これならば、一夜の相手の方がよっぽど感情を向けてくれるではないかと思ったところで、独りよがりな努力はやめてしまおうと考えたのだ。
だから、繰り返す夜遊びも、少しでも妻が慣れないこの屋敷でのびのびと過ごせるように考えた結果であり、いやいや好きでもない夫に気を使わないで済むのだから彼女にしてもプラスになるはずだ。
「君たち夫婦は、本当に不思議だな」
「そうか?別に一般的な、貴族の夫婦だと思うんだが」
「……そもそも、君たちが『一般的な夫婦』というものを本当に知っているのかと、問いただしたいくらいなのだが」
黙って秘蔵の酒を戸棚から取り出す男に、「どうして隠していた、それを知ってるんだ」と、問いかけた俺は悪くないはずだ。琥珀色に透けるそれは美しく、大事にちまちま飲んでいたそれをガブガブ流す首に、掴みかからなかった俺は相当我慢強い人間だと思う。
「ブランデーひとつで、ガタガタいうなよ」
「……それは、今じゃ市場に出回っていない代物で、コネを使って何とか数年越しに手に入れたんだがな」
怒りも冷めやらぬまま、グラスを無言で突き出す。
このままでは、本当にこの男にすべて瓶を開けられかねない。トクトクと注がれる量は多く、普段飲む量の倍はありそうだ。
「まさか、この酒をこんな飲み方する日が来るとは……」
「なんだ。いつも花たちには気前よく払っているくせに、友人に酒の一つも気持ちよく振舞えないのか?」
「その酒を次、手に入れられる手筈が整ったころには、虫より小さな呼吸になっているかもしれないがね」
散々零した嫌味も、「それなら、少しでも君より長生きしてその酒を頂こう。これは絶品だな」なんて軽く笑い飛ばされため息を吐いた。
―――それから、幾夜も重ねて夜遊びはますます激しくなった。
妻との会話も次第になくなり、虚しさだけが募っていく。貴族の義務だなどと言って、パーティの同伴としてしか行動を共にしない。そんな日々に耐え切れず、ある日とうとう見送りに来た彼女へ問いかけた。
「君は、本当に僕がどこで何をしているのか気にならないのか?」
「別に、貴方がどこで誰と何をしようと、興味ありません」
「そうかい」
それは、ただのお決まりの会話のはずだ。
そうだというのに、どうしてこんなに胸がいけ好かないもので満たされているのか。こういう気分の時は、ブランデーを飲むに限るというのに。先日友人がガブ飲みしてくれたおかげで、後残すところわずかだ。
あんな量では到底どうにかできるものではないし、むしゃくしゃした気分のままに飲み干すには惜しすぎる。外に飲みに行ってもいいが、何時も付き合わせる友人は「嫁さんの実家に行くから、しばらく付き合えない」とデレデレ笑っていたから無理だろう。この前の仕返しに、思いっきり飲んで焦らせてやろうと思ったのにと内心舌打ちする。
だから、思わずこぼれ出た愚痴も致し方がないことだった。
「君が俺に無関心なことなんて、今に始まったことじゃないしな」
我ながら、皮肉めいた言い回しになったと焦ってしまう。
これでは、母親に構われたがる甘ったれ坊主のようではないか。そんな無様な姿は許せないと、貴族の矜持ががなり立てる。なんとか態勢を立てなおそうと、首元のタイを触るが、逆に乱れて苛立つ。ひそかに焦りを募らせる俺に、意外な言葉が返ったのはそんな時だった。
「私は……別に貴方に関して、無関心であったつもりはありませんが」
いっそあきれ果てる言い分に、思わず毒気を抜かれてしまう。
彼女が俺に関心がないことなんて、明白だ。
「じゃあ何故、いつもどこに行くのか?と尋ねないんだ」
「尋ねれば、お答えいただけたのですか?」
真っ直ぐな瞳を見つめ続けられず、とっさに目をそらした俺は悪くないと思う。
何せ、深夜の帰宅理由には、新婚の友人に言わせれば「家を追い出されかねない所業」も含まれているのだ。独身時代から世話になっている店とは、頻度こそ減ったとはいえ未だ馴染のままで。こと貴族間では珍しくないとはいえ、決して褒められた行先じゃないこと位理解してる。
なかには、堂々と店から買い上げた女を愛人として囲ったり、跡取りを増やす手段とする者もいることにはいる。だが、俺自身はそんな事する気はさらさらないし、必要以上に争いの火種を増やしてまで、家の存続を誓うほどの家系でもない。第一、俺の両親も祖父母も貴族の中では珍しく恋愛結婚で、紆余曲折あった結果、大恋愛の末結ばれたのだと武勇伝のように語るのが好きな人たちだ。
今ではみな面倒事は俺たちに任せ、田舎に引っ込んでいちゃいちゃしているのだからいいご身分だ。他所の家ではやれ姑にいびられただの、跡取りを沢山作れと干渉してきて煩わしいだの良く聞く話なのに、そういったこととは無縁の家なのだ。
「私たちは政略結婚なのですから、私は良き妻としてあろうと努めてきました」
「あ、あぁそうだな」
確かに彼女は、庭のデザインを考えたり、次に伯爵邸で開催されるパーティ用の衣装をそろえたりと、忙しそうだった。流行に乗り遅れたとなっては、貴族の中で浮いてしまう。そういった、俺の足りない情報を収集しようとしてくれるのは、妻である彼女しかできない部分であった。
「なのにあなたは、よその女に不穏の種を撒いてばかりで、当主としての役目も果たそうとしない」
「…………」
彼女にしては、珍しくあからさまな表現に目を丸くする。
これまで、こんな風に責められたことはないし、ともすれば何を考えているのかわからないとすら思っていた。そんな彼女が。あの、いつでも冷静で、『貴婦人の鑑』とまで言われている彼女が、忌々しそうに眉を寄せているさまにうっかり喜んでしまいそうだ。
さんざん、「お前にはもったいない人だ」や、「彼女を見習ったらどうだ」なんて口を酸っぱく言われてきたが、一皮むけば、彼女もしょせん庶民の女と同じではないか。こちらが散々まぶしく思ってそらしてきた目が、ようやくクリアになった気がした。
「君は、意外と俺を好いてくれていたんだな……」
「私を何だと、思っていたんですか」
思い切り睨まれてしまったが、なんてことはない。
これは、女性がよくする表情だ。……そう、それは『嫉妬』と呼ばれる、相手に好意がなければおおよそ向けられることのない、眼差しなのだとよく知っていた。
「本当は、私だって、旦那さまのご両親に憧れていたのに……」
「……っ!」
まさか友人だけではなく、他の貴族たちにも『両親の仲睦ましい様子』が噂されているとは考えてなかったという思いより、彼女の発言に衝撃を受ける。
今までずっと答えの出なかった問いに、答えが出た瞬間に、すとんと落ちる感覚がした。
それは、甘酸っぱくて自分ではどうすることもできない。
今更『妻に』感じるには、到底遅すぎる気恥しい感覚。
「とりあえず、一度殴らせて頂いて宜しいでしょうか?」
「いや、宜しくないからなっ?そもそも、その鉄の扇なんてどこで手に入れたんだ!」
「…………」
「ぎゃあー」
次話は、吟遊詩人がある家族と出会って、色々な意味で肝を冷やすお話です。