第6楽章-闇は産声を上げる
グランヴェル魔法学院、高等舎。
放課後の校舎には、授業を終えた生徒たちの声が響いていた。
廊下を行き交う生徒たち。談笑しながら階段を下りていく者たち。図書館棟へ向かう者たち。
それぞれが思い思いの時間を過ごすなか、シアン・ロザリンド・ラオメデイアは、一人の少年を探していた。
ペルシモン。
幼い頃から知る、かけがえのない友人。
かつてはアズールと三人で過ごすことが当たり前だった。それなのに、今の彼は、二人との関わりを頑なに拒もうとしている。
シアンには、その理由がわからなかった。
いや、正確には、いくつかの理由を想像することはできた。
家柄の違い。クラスの違い。実力への劣等感。
しかし、それらを理解したつもりになるだけで、彼の本心を知ったことにはならない。
だからこそ、直接話を聞きたかった。
彼が何を考えているのか。
何に苦しんでいるのか。
そして、なぜ自分たちを遠ざけようとするのか。
それを知らないまま、以前のような関係に戻ることなどできない。
シアンは校舎の裏手へと足を向けた。
そこには、授業で使用する訓練場とは別に、生徒たちが個人の鍛錬に使用するための小さな練習区画が設けられている。
人通りは少なく、静かな場所だった。
その一角から、魔力の揺らぎが感じられた。
シアンは足を止める。
聞き覚えのある魔力だった。
「……ペル?」
練習区画の中央に、一人の少年が立っていた。
漆黒の制服をまとい、両手を前方へと掲げている。
その周囲には、紅蓮の魔力が渦巻いていた。
ペルシモンは、何度も魔法を放っていた。
炎が生まれ、標的へと向かう。しかし、軌道がぶれる。標的を外れた炎が地面を焦がし、勢いを失って霧散していく。
それでも彼は、手を止めなかった。
再び魔力を集め、同じように魔法を放つ。
また外れる。
ペルシモンは悔しそうに顔を歪めた。
「……くそっ」
小さく吐き捨て、両手を握り締める。
火力ならば、自信があった。
けれど、狙った場所へ正確に魔法を放つことができない。
力を込めれば込めるほど、魔力の制御は難しくなる。抑え込もうとすれば、今度は魔法そのものが不安定になる。
何度も繰り返してきた失敗だった。
それでも、諦めるわけにはいかなかった。
自分には、まだ足りないものがある。
その事実を認めたうえで、少しずつでも前へ進むしかない。
ペルシモンは深く息を吸い、再び魔力を練り上げた。
だが、そのときだった。
集束した魔力が、不自然な揺らぎを見せた。
「……っ!」
炎が膨れ上がる。
制御しようとした魔力が、彼の意図に反して暴れ始めた。
紅蓮の奔流が渦を巻き、周囲の空気を震わせる。
ペルシモンは必死に魔力を抑え込もうとした。
しかし、一度均衡を失った魔法は、容易には制御を取り戻さなかった。
炎が弾け、練習区画の防護結界へと叩きつけられる。
結界が大きく揺らいだ。
その瞬間。
「――光よ、覆え。滅せよ。」
澄んだ声が響いた。
ペルシモンが振り向くより早く、眩い光が練習区画を満たした。
シアンの放った光魔法が、暴走した炎を包み込む。
光は炎を押さえつけるのではなく、その魔力の流れを捉え、乱れた力を一つずつ打ち消していった。
激しく渦巻いていた炎が、次第に勢いを失っていく。
やがて、最後の火の粉が空中に消えた。
静寂が戻る。
シアンはゆっくりと手を下ろした。
「……危ないところでしたね」
彼女はペルシモンへと歩み寄ろうとした。
しかし、彼は俯いたまま、動かなかった。
両手は強く握り締められている。
肩が、かすかに震えていた。
「ペル……?」
シアンが声をかける。
ペルシモンは、しばらく何も言わなかった。
やがて、絞り出すような声が落ちた。
「……ごめん」
それだけだった。
彼は顔を上げなかった。
シアンには、その言葉の意味がわからなかった。
暴走した魔法を止めてもらったことへの謝罪なのだろうか。
それとも、また助けられてしまったことへの申し訳なさなのだろうか。
あるいは、アストラクラスの人間である彼女に、自分の魔法を相殺させてしまったことが苦痛なのだろうか。
シアンは口を開きかけた。
「ペル、私は――」
「……もういいから」
ペルシモンは、それ以上何も言わず、彼女の横を通り過ぎた。
シアンは、咄嗟に手を伸ばしかけた。
けれど、その手は途中で止まった。
ペルシモンの背中が、遠ざかっていく。
その背中は、悔しさを押し殺しているようにも、悲しみを抱えているようにも見えた。
また助けてもらってしまった。
アストラクラスのシアンに。
自分が手を借りることなど、あってはならないと思っている相手に。
そして、テッラにいる無能な自分のために、彼女の力を使わせてしまった。
ペルシモンの胸中には、そんな思いが渦巻いていた。
シアンは、それを知らない。
けれど、彼が今、ひどく傷ついていることだけは伝わってきた。
「……ペル」
もう一度、名を呼ぶ。
返事はなかった。
追いかければ、引き止めることはできたかもしれない。
何かを尋ねることも、伝えることもできたかもしれない。
しかし、シアンは動けなかった。
悔しそうで、悲しそうなその背中を見て、追いかけることができなくなってしまったのだ。
彼女は、ただ立ち尽くしていた。
静かな練習区画に、春の風が吹き抜ける。
その風は、何事もなかったかのように、シアンの金色の髪を揺らしていった。
*
一方、その頃。
アズール・カリュケ・ペルディータは、生徒会室からアストラクラスの教室へと戻ってきた。
学院の制度や待遇に関する資料を調べていたものの、書類だけではわからないことが多い。
実際に学院で学ぶ生徒たちが、何を感じ、何を考えているのか。
その声を聞く必要がある。
アズールは、そう考えていた。
教室の扉へ近づくにつれ、内部から賑やかな声が聞こえてくる。
「だから、俺より火力あったぞ!」
「いや、でも制御は全然できてなかっただろ」
「それはそうだけどさ。あの威力は普通じゃないって!」
どうやら、何かの議論をしているらしい。
アズールは扉の前で足を止め、しばらく耳を傾けた。
「ていうか、俺、正直あいつらのこと見下してたんだよな……テッラだからって」
「……俺もだ」
「でも、見下すこと自体が違うんだよな。上手く言えないけどさ」
その言葉に、別の生徒が応じる。
「そもそも、俺たちアストラとルナより下のクラスにいるんだから、実力差があるのはわかるんだよ。クラス分け自体は、必要なのかもしれない」
「だけど、なんで待遇まで違ってくるんだ?」
教室の中に、考え込むような沈黙が落ちた。
「授業の難易度が違うのはわかるよ。能力に合わせた授業を受ける必要があるんだろうし。でも、施設の利用まで制限する必要はあるのか?」
「それに、俺たちがアストラにいるのだって、学院の評価基準によるものだろ。じゃあ、その基準は本当に公平なのか?」
「……考えたこともなかったな」
アズールは、静かに目を細めた。
彼らは、自分たちがアストラクラスに所属していることを当然のように受け入れてきた。
上位クラスであることに誇りを持ち、与えられた待遇を当たり前のものとして享受してきた。
それが間違っていると、誰かに教えられたわけではない。
ただ、今まで疑問を抱く機会がなかったのだ。
ペルシモンの魔法を目の当たりにしたことで、その当然が揺らいだ。
自分たちが知らなかっただけで、ほかのクラスにも優れた能力を持つ生徒がいる。
自分たちが当然だと思っていた待遇も、ほかの生徒たちにとっては、そうではないのかもしれない。
アズールは、そっと扉を開けた。
「白熱しているな」
その声に、教室中の生徒たちが一斉に振り向いた。
「アズール!」
「いつからそこに?」
「今来たところだ」
アズールは教室の中へと歩みを進めた。
そして、集まっている生徒たちを見渡す。
「ちょうどいい。俺からも聞きたいことがある」
生徒たちの表情が、自然と引き締まった。
「今の学院の制度と待遇に、疑問や意見がある者はいるか?」
問いかけは、簡潔だった。
しかし、その言葉が意味するものは小さくない。
アズールは、生徒たちの反応を待った。
最初に手を挙げたのは、先ほどまで議論していた男子生徒だった。
「……俺は、疑問がある」
「聞かせてくれ」
「まず、クラス分け自体は必要だと思う。魔法の制御が得意な奴もいれば、威力に優れた奴もいる。それぞれの能力に合わせて授業をするのは、合理的だと思うんだ」
アズールは頷いた。
「だが、クラスが違うというだけで、施設の利用や費用まで差がつくのは、どうしてなんだ?」
「ほかには?」
「俺も気になっている。学院は、俺たちをどういう基準で評価しているんだ? 魔法の威力、制御、精度……それらをどんな割合で評価して、クラスを決めているんだ?」
「私も、そこが知りたいわ」
女子生徒が続いた。
「評価基準が明確でないまま、私たちは自分たちが上位クラスにふさわしいと思っている。でも、何をもってふさわしいと判断されているのか、詳しく知らないのよ」
「なるほど」
アズールは手元のノートを開き、意見を書き留めた。
「ほかには?」
「俺は……テッラの連中を見下していたこと自体、間違っていたと思う」
別の男子生徒が、気まずそうに口を開いた。
「テッラだから能力が低い。そう決めつけていた。でも、ペルシモンの魔法を見て、そんな簡単な話じゃないってわかったんだ」
「そのとおりだな」
アズールは、彼の言葉を否定しなかった。
「ただし、ペルシモンの火力が高かったという事実だけで、学院の評価が誤っていると断定することもできない。総合的な能力を判断するためには、ほかの要素も確認する必要がある」
「わかってる。だからこそ、評価基準を知りたいんだ」
「……そうか」
アズールは頷き、再びノートへ目を落とした。
その後も、生徒たちは次々と意見を述べた。
待遇の格差に疑問を持つ者。
評価基準の透明性を求める者。
クラス分けの必要性は認めながらも、施設利用の制限には納得できないと考える者。
一方で、現在の制度には合理的な理由があるはずだと主張する者もいた。
「学院が長年続けてきた制度なんだ。俺たちが知らないだけで、何か理由があるのかもしれない」
「それはそうだ。だからこそ、調べる必要があるんじゃないか?」
「……確かに」
賛成もあれば、反対もある。
すぐに結論が出るような議論ではなかった。
それでも、アズールは誰の言葉も遮らなかった。
意見を述べる者がいれば、最後まで聞く。
疑問を口にする者がいれば、その内容を確認する。
反対意見が出れば、それもまた記録する。
彼は、一人ひとりの声を丁寧に受け止めていた。
やがて、ひと通りの意見が出揃うと、アズールはノートを閉じた。
「ありがとう。今日聞いた意見は、すべて記録しておく」
彼は教室を見渡した。
「俺たちは、まだ学院の制度について十分な情報を持っていない。だから、今の段階で結論を出すつもりはない」
生徒たちは、静かに耳を傾けていた。
「ただ、疑問を抱いたのなら、その疑問を放置する必要もない。何が正しいのか、何が問題なのか。それを確かめることから始めよう」
アズールの言葉に、何人もの生徒が頷いた。
教室の空気は、先ほどまでとは少し違っていた。
彼らは、ただ不満を口にしているのではない。
自分たちが当たり前だと思っていたものを、自分たちの頭で考え始めていた。
その小さな変化を、アズールは確かに感じ取っていた。
*
同じ頃、ルナクラスでも、ある動きが始まっていた。
教室の前方に立っていたのは、ルナクラス首席のタイリアンだった。
普段は穏やかな教室に、今日はいつもとは違う緊張感が漂っている。
タイリアンは、集まった生徒たちを見渡した。
「今日は、少し聞きたいことがある」
生徒たちが顔を上げる。
「今の学院の制度や待遇について、疑問に思っていることはないか?」
唐突な問いかけだった。
しかし、タイリアンの表情は真剣だった。
「クラス分けそのものについて、俺は一定の合理性があると思っている。魔法の習熟度や制御能力に差があるなら、それぞれに合った教育を受けることは大切だろう」
彼は一度、言葉を切った。
「だが、クラスによって待遇まで違うことについては、疑問がある。そこで、みんなの意見を聞きたい」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、一人の女子生徒が手を挙げた。
「……私は、クラスが分かれること自体は理解できるわ。でも、待遇まで差別化されるのはおかしいと思う」
「具体的には?」
「授業の内容や難易度を変えるのは、能力に応じた教育をするためでしょう? それならわかる。でも、施設を使えるかどうか、どんな設備を利用できるかまで違うのは、別の問題じゃないかしら」
タイリアンは頷き、手元の紙に記録した。
「ほかには?」
「評価基準が知りたい」
男子生徒が口を開いた。
「俺たちはルナに所属しているけど、何をどれだけ評価されて、このクラスに入ったのか、詳しいことは知らない。魔法の威力なのか、制御能力なのか、それとも総合的な成績なのか」
「確かに。評価の基準が明確でなければ、自分たちがどこを伸ばせばいいのかもわかりにくいな」
「それに、もし評価基準が明確だったとしても、クラスによる待遇の差まで正当化できるとは限らないと思う」
別の生徒が続けた。
「評価と待遇は、分けて考えるべきなんじゃないかな」
「……俺も、そう思う」
タイリアンは静かに頷いた。
その後も、さまざまな意見が上がった。
現在の制度を支持する者もいた。
学院の伝統には意味があるはずだと考える者もいた。
しかし、その一方で、評価基準の透明性や、施設利用の公平性について疑問を持つ者も少なくなかった。
タイリアンは、そのすべてに耳を傾けた。
自分と意見が異なる者の言葉も、途中で遮ることはしない。
発言の内容を確認し、必要に応じて質問を重ね、論点を整理していく。
首席としての立場を振りかざすことなく、一人の生徒として、仲間たちの考えを受け止めていた。
やがて、議論がひと段落すると、タイリアンは記録した紙を見つめた。
「……ありがとう。みんなの意見は、よくわかった」
彼は顔を上げた。
「今の段階では、制度が正しいのか、誤っているのか、俺にも断言できない。ただ、疑問を持つこと自体は、決して悪いことじゃないと思う」
生徒たちは静かに頷いた。
「だからこそ、何が問題なのかを整理して、事実を確かめていこう。誰かの意見だけで判断するのではなく、いろいろな立場の声を聞いたうえで考えたい」
タイリアンは、手元の紙を丁寧にまとめた。
ルナクラスの中でも、少しずつ何かが動き始めていた。
*
そして、テッラクラス。
その教室には、いつもとは違う緊張が漂っていた。
教壇に立っているのは、シアン・ロザリンド・ラオメデイア。
白と金の制服に身を包み、金色の髪を肩から流した少女は、教室に集まった生徒たちを静かに見渡していた。
誰もが戸惑っていた。
アストラクラスの生徒。
それも、ラオメデイア公爵家の令嬢が、なぜ自分たちの教室にいるのか。
彼女が何をしに来たのか。
誰も、すぐには理解できなかった。
シアンは、そんな生徒たちの様子を見つめていた。
本当は、ペルシモンに話を聞くために来たはずだった。
けれど、先ほどの練習区画での出来事が、頭から離れなかった。
彼は、なぜあんなにも自分を拒絶するのだろう。
なぜ、助けられたことを申し訳ないと思わなければならないのだろう。
そして、彼が抱えているものは、本当に彼一人の問題なのだろうか。
もし、同じような思いを抱えている生徒がほかにもいるのなら。
自分は、その声を聞く必要があるのではないか。
そう考えたのだった。
シアンは一歩、前へ出た。
「突然お邪魔して、ごめんなさい」
穏やかな声だった。
「今日は、皆さんに聞きたいことがあって来ました」
生徒たちは、黙って彼女を見つめている。
「今の学院の制度や待遇について、不満に思っていることはありますか?」
誰も答えなかった。
教室に沈黙が落ちる。
シアンは、少しだけ眉を下げた。
彼らが何も感じていないとは思えなかった。
けれど、目の前にいるのは、アストラクラスの生徒だ。
公爵家の令嬢であり、光属性魔法の使い手として知られる人物。
その圧倒的な存在を前にして、簡単に本音を口にできるはずもなかった。
誰かが口を開きかけても、すぐに閉じてしまう。
隣の生徒と視線を交わしても、結局、何も言えない。
シアンは、その様子を見て、ゆっくりと息を吸った。
「……無理もありませんね」
彼女は教壇に手を置いた。
「私はアストラクラスの生徒です。皆さんから見れば、立場も待遇も違う人間でしょう」
生徒たちの表情が、わずかに動いた。
「けれど、私は、その前に一人の魔法師であり、人間です」
シアンは、まっすぐに彼らを見つめた。
「あなたたちと同じよ」
その言葉は、静かに教室へと広がっていった。
「私にも、わからないことがあります。できないこともあります。誰かに助けてもらうことだってあります」
彼女は、先ほどのペルシモンの背中を思い出していた。
「だから、皆さんの気持ちを最初から理解しているなどとは言いません。皆さんが何を感じ、何に困り、何を望んでいるのか。私は、それを知りたいのです」
シアンは一度、言葉を切った。
「どうか、聞かせてください」
長い沈黙が続いた。
しかし、今度の沈黙は、先ほどまでとは少し違っていた。
生徒たちは、互いの顔を見合わせていた。
言ってもいいのだろうか。
本当に、自分たちの声を聞いてもらえるのだろうか。
そんな戸惑いが、教室の中を漂っていた。
やがて、一人の生徒が、恐る恐る手を挙げた。
「……俺は、待遇に不満がある」
小さな声だった。
けれど、その言葉をきっかけに、別の生徒も口を開いた。
「私も。授業料が免除されないのは、家の事情もあるから仕方ないと思っていたけど……」
「施設の利用制限も、おかしいと思う」
「俺たちだって、学びたいことがあるんだ」
ぽつり、ぽつりと声が上がり始める。
最初は遠慮がちだった。
しかし、誰かが発言するたびに、別の誰かが自分の思いを口にするようになった。
「クラス分けは、わかるんだ。俺たちに足りないものがあることも、わかってる」
「でも、だからって、学ぶ機会まで制限されるのはおかしいと思う」
「俺たちは、もっと強くなりたいんだ。もっと学んで、できることを増やしたいんだよ」
シアンは、誰の言葉も遮らずに聞いていた。
手元のノートに、ひとつずつ記録していく。
不満。
疑問。
要望。
そして、これまで誰にも言えなかった思い。
その一つひとつを、丁寧に書き留めていった。
そのときだった。
「……なあ」
低い声が、教室に響いた。
シアンが顔を上げる。
教室の後方に、一人の少年が立っていた。
漆黒の制服。
紅蓮の魔力を宿す少年。
ペルシモンだった。
彼は、拳を強く握り締めていた。
「俺たちは確かにステラクラスにすら入れてない。まだ課題だってある」
その声は、最初こそ静かだった。
けれど、言葉を重ねるごとに、押し殺していた感情が滲み出していく。
「でもよ、シアンが一人の魔法師だって言うなら、俺たちだって魔法師だろうが!」
教室が静まり返った。
ペルシモンは、まっすぐにシアンを見つめていた。
「クラス分けされてるのはわかるぜ。俺たちに足りないものがあることだって、わかってる!」
彼の声が、教室に響く。
「だったら、もっと学ばせてくれよ! もっと鍛錬させてくれよ! 俺たちだって、強くなりたいんだ!」
拳が震えていた。
それでも、彼は言葉を止めなかった。
「だからといって、待遇にまで差別化されるのはおかしいだろ!」
その声には、悔しさがあった。
怒りがあった。
そして、長い間、胸の奥に押し込めてきた思いがあった。
「図書館棟すら入れないなんてよ、学ぶ機会を学院側が潰してるだけじゃねえか!」
誰も、何も言わなかった。
ペルシモンは息を荒げていた。
普段の彼なら、こんなふうに人前で声を荒らげることはなかっただろう。
自分の実力不足を認め、悔しさを押し殺し、誰にも頼らずに鍛錬を続けてきた。
それでも、どれだけ努力しても、越えられない壁がある。
もし、その壁が自分の実力だけでなく、学院の制度によっても作られているのだとしたら。
それを、黙って受け入れることなどできなかった。
シアンは、ペルシモンを見つめていた。
先ほど、練習区画で見た背中。
悔しそうで、悲しそうで、今にも崩れてしまいそうだった背中。
その少年が今、自分の言葉で思いを訴えている。
シアンは、ゆっくりと頷いた。
「……そうですね」
静かな声だった。
「あなたの言うとおりです」
ペルシモンが、わずかに目を見開いた。
「クラス分けと、学ぶ機会を制限することは、同じではありません。皆さんの能力に課題があるのなら、それを補うための教育こそ、必要なはずです」
シアンは、手元のノートへ視線を落とした。
「今の制度が本当に皆さんの成長を支えているのか。施設の利用制限が必要なのか。私は、きちんと調べる必要があると思います」
彼女は、ペルシモンの言葉を、一つひとつノートに書き留めていった。
図書館棟の利用制限。
学習機会の格差。
能力を伸ばすための環境。
そして、テッラクラスの生徒たちが抱える、切実な願い。
そのどれもが、決して軽いものではなかった。
シアンは顔を上げた。
「皆さんの声を、確かに受け取りました」
その言葉に、テッラクラスの生徒たちは静かに息を呑んだ。
自分たちの言葉が、初めて誰かに届いた。
そう感じた者もいたのかもしれない。
ペルシモンは、強く握り締めていた拳を、ゆっくりと緩めた。
胸の奥に溜まっていたものが、すべて消えたわけではない。
自分の実力不足は、今も変わらない。
学院の制度が、明日すぐに変わるわけでもない。
それでも。
自分たちの声を、聞いてくれる人がいた。
それだけで、ほんの少しだけ、何かが変わったような気がした。
ペルシモンは、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……シアン、ありがとう」
シアンは、ノートに目を落としたままだった。
しかし、その言葉は確かに、彼女の耳へ届いていた。
彼女は、ほんのわずかに顔を上げた。
ペルシモンと視線が交わる。
ほんの一瞬。
それだけで、二人は何かを確かめ合ったようだった。
シアンは、何も言わなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
*
その日の夕刻。
アストラクラスでは、アズールが生徒たちの意見を整理していた。
ルナクラスでは、タイリアンが集めた声をまとめていた。
そして、テッラクラスでは、シアンが一冊のノートに生徒たちの本音を書き留めていた。
三つの場所。
三つの立場。
三つの異なる視点。
それぞれが見ている景色は違う。
アストラの生徒たちは、自分たちが当然のように享受してきた待遇に疑問を抱き始めていた。
ルナの生徒たちは、クラス分けの合理性と待遇格差の正当性を分けて考え始めていた。
テッラの生徒たちは、これまで口にできなかった不満や願いを、自分たちの言葉で語り始めていた。
その声の中には、共通するものがあった。
なぜ、クラスが違うだけで待遇まで変わるのか。
何を基準に、能力を評価しているのか。
そして、自分たちが学び、成長するために必要な機会は、本当に公平に与えられているのか。
まだ、答えは出ていない。
学院の制度が正しいのか、誤っているのか。
どこを変えるべきなのか。
そのために、何が必要なのか。
誰も、すべてを理解しているわけではなかった。
けれど、少なくとも彼らは、疑問を抱くことをやめなかった。
誰かが決めたことだからと、ただ受け入れるのではなく。
自分たちの目で見て、自分たちの頭で考え、自分たちの言葉で語る。
その小さな一歩が、三つのクラスで同時に踏み出されていた。
そして、その中心には、三人の姿があった。
アズール・カリュケ・ペルディータ。
タイリアン・プロメテウス・シャルナク。
シアン・ロザリンド・ラオメデイア。
彼らは、それぞれの場所で、誰かの聲に耳を傾けた。
その聲は、まだ小さい。
けれど、確かに存在していた。
誰かの悔しさ。
誰かの疑問。
誰かの願い。
それらは、これまで互いに交わることなく、別々の場所に留まっていた。
しかし今、少しずつ重なり始めている。
星が一つ、また一つと夜空に灯るように。
離れた場所で輝いていた光が、やがて一つの星座を描き出すように。
彼らの聲は、まだ学院全体には届いていない。
学院を動かす力にも、なってはいない。
それでも。
誰かが耳を傾けた。
誰かが言葉を受け取った。
そして、誰かが、その聲を記録した。
それは、世界を変えるにはあまりにも小さな出来事だったのかもしれない。
けれど、世界を変えるために必要なのは、最初から大きな力を持つことではない。
疑問を抱くこと。
聲を上げること。
そして、その聲を聞き届けること。
その一つひとつが重なったとき、やがて誰もが想像しなかった未来へとつながっていく。
グランヴェル魔法学院の歴史は、まだ変わっていない。
制度も、待遇も、何一つ変わってはいない。
それでも、その内側では、確かな変化が始まっていた。
世界は、いつだって正しいとは限らない。
だからこそ、人は考える。
だからこそ、人は語る。
そして、だからこそ、人は変わることができる。
まだ誰も知らない新しい世界へ向けて。
彼らの聲が、今、重なり始めていた。




