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師弟失格  作者: 守野伊音
師弟失格
17/17

10

 


 総崩れで敗残兵となった神城軍は、投降する者と逃亡する者に分かれた。ここは既に戦場ではなくなっている。神城軍は、人間神によって成り立っていた軍だ。その神の眼が失われた今、彼らに戦う術はない。

 死を経験して眠りに落ちた人間神は目覚めるかどうか分からない。彼女が自身の生に気づくかは、彼女自身がそれを望んでいるかどうかなのだ。もしも彼女がもう一度目を覚ましたのなら、今度は話が出来たらいいと思う。一度として話さなかった人間神。言葉で語らなかった彼女はきっと、会話を知らない。

 人間は彼女に何も教えず、望むだけだった。

 彼女は何も知ろうとせず、望むだけだった。

 人間は真っ二つに割れるという形で罰を受けた。いつか、人間神がその意味を知る日は訪れるのだろうか。





「隊長、私達は一足先に神殿に行きます。早く会いたい人達がいるんです」

 振り返ると、やけに視界が広い。皆が膝をついているのだ。

 見渡す限り下げられた頭を、ルタは動じず見下ろした。

「よく務めてくれた」

「勿体ないお言葉、身に余る光栄です、我らが王よっ……」

 言葉に詰まり、呻きながら頭を下げた隊長だけでなく、あちこちから啜り泣きが聞こえてくる。

「我が師も世話になったようだ。礼を言う」

 さあ、皆の視線が盛大に彷徨ったけれど、どうしたものか。思いっきり猿扱いしてくださったことは私と皆の秘密にしておきましょう。

 ただし、一矢くらいは報いておきたい。私はぼそりと呟いた。

「うきぃ」

「おまっ!」

 弾かれたようにこっちを向いた面子に、にやぁと笑うと、彼等は下顎を突き出して威嚇してきた。どっちが猿ですか。

「師匠?」

「ん?」

「どうされましたか?」

「ちょっと仲間との絆を深めています」

「はあ……随分と仲良くなられたようで」

 確かに、悪ふざけできる存在というのはいいものだ。そして、戸惑いながらも態度を変えないでいてくれる皆の存在がありがたい。本当に、ありがたい人達だ。

 一人で嬉しくなっていると、ルタが手を繋いできた。

「師匠」

「はい?」

「一番仲が良くなったのは誰ですか?」

 一番? 順位をつけて関わったことがないから分からないけれど、一番長く一緒にいたというのなら彼だろう。

「カルカラですかね」

「ちょ、まっ、おいっ」

 ブルクスさんが手をばたつかせ地上で泳いで、ぎょっと身を引いてしまった。皆の視線が、見えるはずもないのに後方にいるカルカラを探すように向いていく。非常に憐れんだ瞳で。

 ルタは一つ頷いた。

「分かりました」

 …………何が?




 神殿に降り立ったら大騒動になっていた。神城軍がやけになって籠城かと緊張したのも束の間。私達の眼に飛び込んできたのは、逃げ出す神城軍に向けて彼らの荷物を投げつけて歯を剥き出しにする神殿の皆。勇ましいのは大変結構なんですが、もっと人間らしい喧嘩をしませんか? それとも流行ってるんですか、猿。

 とりあえず中庭に飛び降りたら、転がるように一人の女性が駆け出してくる。大人っぽくなった見覚えのあるその人に、私も駆け出す。

「ローリヤ!」

「アセビ――!」

 お互い体当たりの勢いで抱きつく。その勢いのまま抱きしめて振り回してやろうと目論んだ私の身体を抱き上げ、ローリヤはくるくると回った。流石親友。先手を取ってきた。

「アセビ! 会いたかった、会いたかったっ……!」

「私も会いたかった! 無事でよかった、ローリヤ!」

「絶対無事だって信じてたのよ! ああ、嬉しい! 顔を見せて!」

 私を下ろして両手で頬を掴んだローリヤは、ぱあっと太陽のような笑顔を浮かべる。

「やだ! 名残がない! アセビだって事しか分かんない!」

「やだ!? ローリヤだって大人っぽくなっちゃってまあ!」

「アセビおばさんくさい! 私もおばさんだけど!」

 お互いの頬を両手で挟みこみ、私達は泣きながら笑った。



 私達の後ろでは、泣き叫びながら跪いた室長達に囲まれたルタが困っている。もう、皆の感情が大爆発だ。

 でも、私はその中で足りない姿に気付いてしまった。

「ローリヤ……その、お爺ちゃん達は……何でいないの?」

「十年よ、アセビ。十年なのよ…………」

 悲しげに目を伏せたローリヤに悟る。気づきたくなかったのに、気づいてしまった。

「そう、よね……十年だものね」

 人間の、それも年老いた人間の十年がどういうことか、地上で生きた私はもう知っている。目を伏せて冥福を祈る。ルタと手を繋いで墓標に挨拶しに行こう。あの人達だったら、墓標の中からムーディな音楽を流してくれるだろう。

 どうしたって痛む胸を押さえた私を、誰かの声が責める。

「なんじゃなんじゃ! どうして王と抱き合っておらんのじゃ!」

「わしゃそれだけを楽しみに急いできたというに!」

「手入れをかかさんかった楽器達の出番がないじゃろ!」

「いや、今からでも遅くはないぞ!」

「それいけ!」

「やれいけ!」

「そこじゃ!」

 勢いよく振り向いた私の髪がローリヤの顔面をはたいてしまった。ごめん!

 振り向いた先では、一際皺皺になった老臣達が杖を振り回しながら突撃してくる。杖は身体を支えるものであって、自分の感情を表現するものではありません!

「普通にご存命でいらっしゃる!」

「十年だもの。駆けつけるのも遅くなるわよねぇ」

「活力には満ち満ちていらっしゃる!」

「王様の寝室の隣にあるアセビの部屋は、どんな新婚夫婦でも回れ右して逃げ出す仕様に仕上がってるわよ。ちなみに、掃除係の私も毎日回れ右してしまうわ!」

 ローリヤはにこりと笑って手を握った。その手をやんわりと解きながら、私もにこりと笑う。

「さようなら!」

「逃がさないわよ!」

「ローリヤが寝返った!」

「十年間の鬱憤、ここで晴らさずしていつ晴らすの! あなたはきっと帰ってくるって信じてたけど、それが百年後か二百年後だったら流石に待てないから、子ども達に待っていてもらおうと頑張って産んでたんだからね!」

「何人!? 後で会わせて!」

「七人よ! 是非会ってあげて!」

 もうどこに驚けばいいのか分からないけれど、とりあえずおめでとうと叫んでおいた。ローリヤもありがとうと叫び返した。



 ぜえはあと荒い息を吐いて向かい合っていると、今更じわじわと実感が沸き上がってくる。さっき再会したばかりなのに、まるで昨日別れたばかりみたいだ。十年前から途切れていたはずのあの日々が、あっという間に帰ってくる。

 これから紡いでいけると思った日常は、あの日突然ぶつりと途切れた。あの時続くと信じて疑わなかった明日へ、随分大回りして辿りついた気がする。思っていたより一周多く辿りついた今日は、こんなにも優しい。

 こんなにも、明日を信じられる力に満ちている。


 黙った私に首を傾げたローリヤがぎょっと飛び上がり、慌てて私の頭を抱え込んだ。院長先生といいローリヤといい、どうして頭ごと抱きかかるのだろう。不思議に思ったけれど、その疑問を口に出すことはできなかった。

「な、なんでいきなりそんなに泣くのよぉ!」

「る、涙腺が、こわ、壊れた」

「お、王様! 王様ぁ! アセビが壊れました!」

 ローリヤの必死な声に呼ばれたルタは、弾かれたように振り向いて足早に近づいてくる。ローリヤと場所を代わって膝をつき、私の顔を見上げた。

「師匠、どうされましたか」

 手を握って見上げてくる金紫に余計に涙が溢れてくる。

 ルタはよく聞いてくる。どうしたのかと尋ねてくる。知らなかったことを、今まで見せなかった部分を、違えず知ろうとしてくれる。

「ぶ、ぶわっ、と、いろ、い、ろ」

 だというのに、答えるはずの私がこの有様だ。本当に壊れたとしか思えない涙が次から次へとぼたぼた降っていく。

 少しの間私を見上げていたルタは、諦めて立ち上がった。

 私を抱きかかえて。

 驚いたけれど、声は嗚咽にしかならなかった。止め方を忘れた涙でしゃくり上げることしかできない。

「師匠の部屋は?」

「王様の隣ですぞ!」

 意気込んだお爺ちゃんの声と「あ、ちょ、ま」と制止するローリヤの声が重なる。

「お前らはついてくるな」

「殺生ですぞぉ!」

 嘆くお爺ちゃん達の悲鳴はあっという間に遠ざかっていった。




「師匠、とにかく部屋に………………」

 ルタの声が不自然に途絶え、扉の閉まる音がする。そして、数歩移動して隣の扉を開いた。

 降ろされたのはルタのベッドの上だった。つまりここは、懐かしいルタの部屋だ。あの日から全然変わっていなくて、十年経ったなんて思えない。皆がどれだけ頑張って維持してくれていたかが分かる。


 ベッドの上に私を座らせ、自分は前に膝をついてしゃがんだルタは、さっきみたいに私の両手を握って見上げている。そして、堪えきれない様子で微笑んだ。

「師匠の泣き虫」

 正解だ。流石ルタ、優秀ですね。

「他には? 他に、俺の知らない師匠はどんな顔をしているのですか?」

 嬉しそうな顔を見て合点がいった。

「ど、道理で、さっきから覗きこんでくるなって、思ったのよっ!」

 今考えると、院長先生もローリヤも顔を隠してくれていたのだ。それをわざわざ下から覗きこんでくるとは。

 私は今までルタの事をいい子だと思っていた。だが、もしかするとこの子は、この男は!

「結構いい性格をしてる気がする!」

「ご存じではなかったのですか? 俺は、非常に執念深くて嫉妬深い性格ですよ」

 結構どころか非常にと来た。涙も吹っ飛ぶ。なのに、悪戯っ子みたいに笑うルタを見ていると自然と舞い戻ってきた。涙も止まらないけれど、笑っていく顔も止まらない。

「嫌いになりましたか?」

 何を今更と呆れる。でも、不安が欠片も見えない笑顔に、分かっていて聞いていると気づいた。本当にいい性格をしているようだ。

 ルタがしゃがんでいるのをいいことに、額にごつりと頭突きする。

「馬鹿」

「はい、師匠」

「他には? 他にはどんなルタがいるの?」

 額を合わせていた頬に両手が伸びてきた。私と同じ色の金紫が熱っぽく揺れる。

「貴女を好きな俺しかいませんよ」

 そうきたか。

 私もよと返そうか、それともその目尻が少し赤くなっていると指摘しようか。

 色々と悩んだけれど、重なってきた唇に答えるのが忙しくて、すぐに忘れてしまった。









 風に靡いた髪を押さえて、ぎょっとなる。

「あ! また細かい三つ編みが増えてる!」

「もっとしてあげるね、アセビ!」

 にぱっと笑ったのは、ローリヤの長女オレガだ。その丸い頭を、通りすがりのガラムがすぱぁんと叩いた。

「年上を呼び捨てにするな。アセビは母さんと父さんの友達であって、お前の友達じゃないだろ。ちゃんとさんをつけろ」

 後ろから叩かれたオレガは、何が起こったのか分からないときょとんとしていたが、じわじわと涙を滲ませていく。

「う、うわぁあああん!」

 見る見る間に大粒の涙を流し、少し離れた場所で掃除をしているローリヤの元に駈け出した。それを眺めていると、小さな身体をばたばたと動かして一所懸命説明している。そして、こっちを指さしてわんわん泣いているオレガの頭に拳骨が入った。あれは痛い!

 わんわんがぎゃんぎゃんへと変化したオレガを抱き上げたローリヤは、指を揃えた片手を顔の前に立てて口をぱくぱくさせた。ひらひらと振った手で答え、そのまま後ろに回して細かい三つ編みをちまちま解く作業に入る。

「まったく……ごめんな、アセビ」

「いやいや、楽しいですよ。掃除人に戻してもらえなくて暇ですしね」

「じゃ、俺は忙しいからもう行くな」

「足速い!」

 走っていないのに、あっという間に消えて行ったガラムの背中に驚愕する。



 ぽつんと一人になってしまったけれど移動しようとは思わない。だって、元々これを見ていたのだ。

 私の視線の先、中庭の一角では、ぶるぶる震えるカルカラがルタから剣を習っている。

 先日、ルタが突然カルカラ情報を欲しがったのだ。ルタは最近、周りへの関わり方が積極的になった。オレガ達ちびっこのいたずらに無表情のルタが混ざっていた時は、驚けばいいのか、微笑ましく思えばいいのか、お爺ちゃん達みたいに感涙すればいいのか分からなかった。

 そんなルタだから、もしかして友達を作ろうとしているのかもしれないと思い至り、少しでも関わりが出来ればとカルカラが師匠募集していると伝えてみたのが始まりだ。

 その次の日からカルカラは特訓を受けている。

 いろいろと忙しい議会の元で各地の暴動の鎮圧に向かっているブルクスさんは、泣きながら追い縋るカルカラに「…………まあ、名誉だな! うん! 俺じゃなくてよかった!」と言っていた。色々と素直な人だ。

 それは置いておいて、確かにルタもそろそろ弟子をとってもいい頃だろう。カルカラも、敬愛する王が師匠なんて緊張するにも程があるだろうけど、そんなものは親しくなったら些末事だ。

 弟子が弟子を取る。時の流れと成長を感じて感動し、二人ならいい師弟になれるわと言ったら、両者から即座に師弟じゃないと否定を受けた。

 なのにルタは、今日もカルカラに剣を教えている。

 つまり、友達か!

 ルタに友達が! ついにルタにも初めての友達が!


 私の世界が広がったように、ルタの世界もこれからどんどん広がっていくと嬉しい。

 そう思いながら見学していると、カルカラの剣が弾かれ、べしゃりと転んだ顔の横にどすりと突き刺さる。それに合わせて盛り上がる悲劇的な音楽。

 私は慌てて音の出所を探す。すると、廊下の曲がり角から出所が現れる。普段は杖をついて歩いているくせに、こんな時は楽器で演奏しながら歩いてくる脚力。力を発揮すべき場所が違う。

「カルカラが泣きそうなので、その辺りで本当に勘弁してあげてください! 泣きそうというか、泣いてますから! 普通の、ふっつうの時に聴きますから! 演奏会してください! 全身全霊で聴きますから!」

「それじゃとわしらの気分が盛り上がらん!」

「気分の盛り上がりの為に若者の心を折らないでください!」

 鎮魂歌流すのは本当にやめてあげてください。


 断固抗議する私に、今度はお爺ちゃん達が詰め寄ってきた。

「お主があの部屋を使ってくれんのが悪いんじゃろ!」

「何が気に入らんのじゃ!」

「わしらが丹精込めて!」

「余生を詰めて!」

「作り上げた部屋じゃぞ!?」

 この世には、老人に涙目で詰め寄られても譲れないものが確かにある。

「詰められたものが重すぎますよ! それに、隣のルタの部屋で一緒に暮らしてるんですから、目的は果たされてますよ!」

「そっちは、不敬じゃから上下に入りこめんのじゃ」

「私の部屋にも入らないでくださいよ」

 思わず真顔になってしまった。このお爺ちゃん達だったら、車椅子になっても乗り込んできそうだから怖い。


 お互い一歩も譲らず言い合っていると、私の後ろに視線を向けたお爺ちゃん達が下がっていく。振り向くと、予想通りルタがこっちに歩いてきていた。地面に突っ伏したカルカラを放置して。

「師匠」

「カルカラはいいの? 休憩?」

「永遠に休憩でも構いません」

 きっぱり言い切ったルタは、どうやら友達には甘いらしい。疲れている上にお爺ちゃん達に止めを刺されたカルカラの心が回復するまで、いつまでだって待つ心積もりのようだ。

 なんて優しい師匠だろう。

「いいなぁ。私もルタに弟子入りしたかったなぁ」

「俺は、俺のような師匠は絶対に嫌です」

 これまたきっぱり言い切ったルタは、懐から時計を取り出して丸い空を確認する。カルカラの休憩時間が増えたのか減ったのか、私には判断できない。もし減ったのなら、余計な事を言ってほんとごめん、カルカラ。

 心の中で謝罪した私は、時計を覗き込んでその心配がないことに気がついた。空は夕暮れになっている。顔を上げれば、いつの間にか空の様相は夜へと向かう準備を始めている。


 時計を大事にしまい直したルタは、ふと何かに気付いて私の髪に手を伸ばした。ルタの指に絡まっているのは細い三つ編みだ。まだ解き切っていないものが何本も残っている。細かい三つ編みを解くのは手間がかかるので、ゆっくりちまちま解いていくつもりだ。

「これ、オレガですか?」

「そうそう。いまはまってるみたいで、何でもかんでも編んでるわね。さっきお爺ちゃんの髭も編まれていたわ」

「俺も先日やられました」

 オレガ凄い。そして、子ども達に纏わりつかれてじっとしているルタを見たかった。

 でも確かに、この艶々の黒髪をいじりたくなる気持ちは分かる。私も今度ルタの髪で遊ばせてもらおう。

「ねえ、ルタ」

「はい、師匠」

 私は、最近学校に通い始めたローリヤの長男がはまっている動作、挙手をした。

「今度、私もその髪で遊ばせてほしいです」

「いいですよ?」

 さらりと許可が出て、やったと拳を握る。どんな髪型させてもらおう。先日、巷で流行っているという髪型図録をローリヤと眺めたので、それを試す日がやってきた。ルタは美人さんだからどんな髪型でも似合いそうで楽しみだ。

 うきうきとあれこれ思い描いていると、三つ編みを軽く引かれて視線を戻す。近づいてきたルタの唇が耳元で囁いた。

「ただ、俺も遊ばせてくださいね。アセビ」

「うぐっ」

 二人っきりの時にだけ呼ばれる自分の名前がここで現れて、思わず呻く。

 このいい性格をした私の恋人は、非常に優秀で出来の良い弟子である。しかし、私は知っていた。

 夜のルタの「はい、師匠」だけは、絶対に信用してはならないということを。



 視線を彷徨わせた私の耳に穏やかな音楽が聞こえてきた。どんどん盛り上がりをみせていくそれを聞こえないふりで誤魔化して空を見上げる。今日も美しい空だ。晴れていても、曇っていても、私達の故郷は変わらずそこにある。


 私達はこれから見送り続けるのだろう。世界に天人は私達二人だけだ。皆の時は、私達とは違う速度で回っていく。

 だけど、世界は廻るものだから。業が、罪が廻ったのならば、縁も、幸も廻っていく。彼らが与えてくれた得難いものが、私達に喪失を与えない。

 終わりならいつでも選べた。けれど、分かっていて、今を選んだ。

 私達は変わらぬ二つの空の中、移りゆく命と共に生きていく。



 嘗て、天人の楽園だった空が堕ち、人間神の楽園があったこの世界で。

 最後の天人として、この地上で永遠に眠る日がくるその時まで。




 見上げた空は薄暮を迎えようとしていた。後はもう夜を待つだけだ。

「師匠? どうされましたか?」

 少し屈んで合わせてきた瞳の中に、自分と同じ金紫を見つける。まるで夜明けのようだと目を細めて手を繋ぎ、その腕に頭を寄せる。座っていたら肩に乗せられたけれど、立っていたらこの辺りが限界だ。でも、どちらにしても伝わる体温は変わらない。

「今日の夕食、何かなと思って」

「ゴルマの種が出るといいですね」

「出たら嬉しいなぁ」

 いつか必ず訪れる終焉は、きっと氷の中に閉じ込められるような暗闇ではないだろう。それだけ分かっていれば充分だ。

「明日は空が綺麗だといいね」

「そうですね。ですが、師匠」

「ん?」

 ルタは不思議そうに言った。

「空が綺麗ではなかったことは一度だってありませんが」

 ひどく真面目な顔で、心底不思議だと言わんばかりのルタに思わず噴き出す。

「そうね。空はいつだって綺麗よね」

「はい、師匠」

 ルタは出来が良く、非常にいい性格をしている素晴らしい弟子である。




 そして私は、そんな弟子と生きていく、幸せな師匠だ。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 作者さんの話の進め方が大好きで、涙がいつもとまらなくなります。 今回も感情が揺さぶられ、あっという間の楽しいひとときを過ごせました。 狼領主、忘却聖女、そして、今回の師弟失格も大好きなお話…
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