第四話 本当の未来(1)
『綺麗ですね。花も……あなたも……』
その人との出会いは、母の喜久子の気まぐれで花見に連れ出された時のことだった。
はらはらと落ちてくる花弁をぼんやりと目で追い、地に落ちたそれを通行人が踏んでいく。
川沿いの大通りでは見物客も多く、母は千里に歩調を合わせることなどしないため、すぐにはぐれてしまった。
どうしようもなく、ぼんやり見つめて時間を過ごして、あの頃の千里は何をするにも諦めて無気力な毎日を送っていた。
隣で声をかけられて、ようやく千里はその人がずっとこちらを見ていたことに気づいたのだった。
佐倉京矢。
貿易商社の跡取り息子で、賢く、語学に長け、男女問わず周囲から羨望の眼差しを集める高嶺の花。
誰もが羨む彼が選んだのは、路傍の石だった。
『愛しています、千里さん。俺と結婚してください』
彼と出会い千里の日々は目まぐるしく変わった。
彼はいつだって千里に優しく、千里が望む言葉をかけてくれる。
恋心を覚えるのもそう時間はかからず、気づけば千里は彼から求婚されていた。
母は恋愛結婚と聞いて千里を怒鳴りつけたものの、相手の名前を聞くなり目を輝かせて大喜びした。
当主の尚政はこれといって興味が無さそうだったが、嫁入り支度にはお金をかけてくれた。
姉の有紗は涙ぐみながら喜び、千里を送り出してくれた。
嫁入りしてから、千里は佐倉家の屋敷の一室を与えられ、それはもう丁重に扱われていた。
夢のような時間だった。
流行りの素敵な洋服を身にまとい、自ら家事をする必要もなく、夫が帰宅すれば食卓を共にする。
広い屋敷の中にいるのに、千里の生活はあの一室の中で完結していた。
それに違和感を抱くことも不満を持つこともなく、千里はただ、京矢に愛されるだけの日々を送っていた。
京矢が頻繁に外で誰かと会っていることも、屋敷で顔を合わせる佐倉家の人々が青い顔をすることも、分かっていながら目を逸らしていた。
この生活に終わりが来るのは、案外すぐのことだった。
千里は死んだ。知らない女性に刺されて、もつれ合った末にその人も死んだ。
薄れていく意識の中で、悲鳴とざわめきと、京矢の声が聞こえてくる。
『馬鹿な人だ。あなたも……あの男も……』
出会った時も似たような言葉を聞いた。
いつだったか。あの男とは、誰を指しているのだろうか。
『もっと利用するつもりだったのに、残念だよ。可哀想に』
京矢はいつだって千里を愛し、慈しみ、そして誰よりも――――――哀れんでいた。
「……っ!」
ハッと目を開いて、千里は飛び起きる。
心臓がばくばくと音を立てて、指先はぶるぶると震えていた。
「なに、今の……」
凄まじい夢を見た。佐倉京矢との結婚生活の末に、自分が刺されて死ぬ夢だ。
悪夢にしてはやけに長く、千里は思わず自分の脇腹を触って、出血していないかを確認してしまう。
「そんなはずない……ただの、悪い夢よ」
やけに現実味のある、気味の悪い夢だった。
出会ってから結婚するまでのくだりは、千里が以前見た未来と同じだったが、その時はこんな結末ではなかった。
ただ、一言、千里は幸せに暮らしたと――――――。
千里は立ち上がると、机の引き出しに飛びつく。
中にしまっていた未来予知の本を手にして、勢いよくページをめくった。
ほら、ここには同じように書かれている。
千里は幸せに暮らし――――二十一歳でその生涯を終える。
「はぁっ!?」
千里は思わず叫んだ。昨日までこんな記述はなかった。
遡れば、夢で見たことと同じ内容が追記されている。
まるで、隠されていた行間が埋められて物語が補完されたような、完璧な追記だ。
千里は恋愛結婚で幸せになったのではない。
佐倉京矢の何らかの目論見によって利用され、早々に死を迎えた。
ただ、利用されたとしても当時の暮らしが未来の千里にとってなんの不満もなく幸せだったと言うだけだ。
「何よこれ、こんなの、おかしいじゃない!」
現時点の千里からしたら、そんな未来はとても幸せとは思えない。
佐倉京矢は完璧な存在だと思ったからこそ、自分と有紗の未来を取り替えるつもりだったのに、これではどちらにせよ有紗は不幸になってしまう。
「あんな人間だったなんて知らなかった。こんな男、絶対に姉さんに会わせられない!」
佐倉京矢が千里の何をどう利用しようとしたのかは分からないが、彼に関わるべきではないということだけは千里の中で決定事項になった。
今朝の夢は、新たな未来予知というよりも、未来の内容をより詳細に深堀したと言える。
自身の死の理由も分からないとなるとわまだ千里の見た未来は今回で全てではないのだろう。
昨日佐倉京矢の話を聞いて早々にこんなことになるとは思わなかった。
千里は盛大にため息をついてから、本を閉じて引き出しの中に戻そうとする。
その拍子に、中に挟んでいた紙がぺらりと落ちた。
「これ……」
九朗から貰った、セイレーンの館の住所だ。
未来予知について知らないことが多すぎる。
このまま不確定な未来ばかり信じて、姉を不幸に陥れるわけにはいかない。
しばらくの間迷ってから、千里は身支度を整え始める。
今日は土曜日。授業終わりに午後から出かけるにはちょうどいい。
夢の中で味わった嫌な感覚をかき消すように、千里は腹をさすりながら着替えを終えた。




