第一話 朝霧家の姉妹(1)
朝霧家には二人の娘がいる。
一人は前妻の娘、有紗。
もう一人は後妻の連れ子、千里。
二人は対極的な性格で、穏やかでありながらしっかり者の姉と、わがままで自己主張の強い義妹という姉妹である。
同じ年齢、同じ女学校に通っていてもまるで違う二人に対して、人々は口々にこういうのだ。
朝霧家の義妹はわがままだ。それに比べて姉はなんと心優しい娘に育ったのだろうか。
血縁ではないとはいえ、とても姉妹には思えない。
大勢が千里を嘲笑し、有紗を哀れんだ――――――それが、千里の壮大な計画であるとも知らず。
「あら姉さん、いつまで掃除なんてしているのかしら! ほこりだらけでみっともないじゃない!」
甲高い声で罵って見せれば、姉の有紗は雑巾片手に穏やかに微笑む。
「まあまあ千里ちゃん、お手伝いに来てくれたの? 千里ちゃんは本当に優しい子ねぇ」
にこやかに笑い、罵られたことにも気づかないどころか、盛大な勘違いまでしている。
相変わらずな姉の様子に千里はため息をつきながら、有紗の手から雑巾を奪った。
「早く顔を洗ってきて。姉さんがみすぼらしい格好をしていたら、この家の品格が疑われるじゃない」
「そうね、ありがとう。千里ちゃん」
裕福な家の娘のはずなのにこの姉は困ったことに家事の手伝いが大好きで、暇さえあれば掃除に料理の手伝いにと働いてばかりだ。
出会った頃から、有紗は身の回りのことはなんでも自分でやろうとする変わった人だった。
千里の母親がかんしゃくを起こし何人も使用人を解雇するようになってから、その性格に拍車がかかったとも言える。
朝霧家の正当な跡継ぎは有紗だと言うのに、日当たりの悪い隅の部屋に押しやられても、有紗に優しかった女中たちが突然解雇されても、有紗はいつだって不満をもらすことはなかった。
ただいつものように人の好さそうな笑顔を浮かべるばかり。
千里は有紗のそういうところが、大嫌いで痛ましくて、見ていられなかった。
「文句の一つでも言ってみなさいよ、馬鹿らしい……」
母屋と違って離れはしんと静まっていて、陽の光も差してこない。
せっかく有紗が綺麗に磨いた廊下も、どことなく寂しげな雰囲気が漂っていた。
いっそ、面と向かって恨み言の一つや二つはいてくれたら、どれだけ楽になれただろうかと何度も思った。
姉に辛い状況を押しつけているのが、ほかでもない自分とその母親だという現実が、有紗には見えていないとでも言うのだろうか。
千里の母が亡くなり、妻を深く愛していた朝霧家の当主朝霧尚政は悲しみに暮れるばかりか「死者を甦らせ、生命の神秘を解明する」とのたまうわけのわからない研究団体にのめり込み、有紗には一切の関心を持たなくなった。
そして尚政の思想に賛同するふりをして朝霧家に忍び込み、女主人として我が物顔で居座っているのが千里の母、喜久子だ。
母は小劇場の女優だった。しかし、結婚の約束をしていた男はある富豪の跡取り息子であり、母は恋人ではなくただの不倫相手だった。
男に騙され捨てられた母は、それ以来持ち前の美貌と演技力を活かして、自分がされたのと同じように男を騙し、金をむしり取ることで暮らしてきた。
朝霧家には亡き夫を想い娘と泣き暮らす哀れな親子という設定で潜り込み、当主が夢中になっている新興宗教めいた怪しい団体の思想に賛同し、お互い亡き配偶者との生活を取り戻すまで協力し合うという形で後妻に収まった。
もちろん、愛する亡き夫などいない。千里は自分の父親の名前も顔も知らなかった。
外で無理に愛想ばかり振りまいているおかげか、母はいつも不安定な精神状態で、千里を可愛がり抱きしめて眠る日と、顔も見たくないと寒空の下追い出すような日が交互に繰り返されるような生活が交互に繰り返される日々だった。
しかし、怪しい思想に染まった資産家に目をつけたのは流石と言うべきか、今の世相を見ているとそう思わざるを得ない。
この時代、ふざけた思想に傾倒しているのは、尚政だけではなかった。
明治六十六年の震災以来、世間ではカタストロフなる思想が大っぴらに出回るようになった。
世間では世界滅亡の予言だとか、新世界の構築だとかがうたわれるようになり、しまいにはその辺の山を指して「この山はかつて存在した高度な古代文明の遺構である」なんていうふざけた内容の出版物が並ぶ始末だ。
いい歳した大人が揃いも揃って新世界のなんちゃらかんちゃらと言論を交し、女学校でも何月何日に世界が滅びるんだって、なんて会話が笑いながら当たり前のようにされている。
どことなく日常の中に悲観的な何かが当然のように並んでいて、誰しもがそれを完全に否定することができないままでいる。
世も末。その一言に尽きる。
だが、千里は立ち止まってはいられなかった。
カタストロフなるものが全てを破壊し千里を救ってくれる、なんて未来はありはしないことを千里は知っているからだ。
「……絶対に、姉さんは私が助けてみせるから」
ぎゅっと雑巾を握りしめてぽつりと呟いた一言は、千里の決意が滲んでいた。




