5章 17 天使の繭
真っ白い部屋。
見渡す限り影ひとつなく、上も下も分からない。立っているのか浮いているのか、それとも落ちているのか。『空白』という言葉をそのまま具現化したような世界。
リザイアは徐々に失われていく自分自身の感覚を必死に手繰り寄せながら終わりのない抵抗を続けている。
(あのよく分からない声もあの後ピタリと消えてしまいましたわね……でも彼女のお陰で自分の名前は、まだ覚えている…………とはいえ、このままじゃ結局根負けしてしまいますわ。どうにかしてここから抜け出さなくては……)
前に進んでも、後ろに進んでも。どこも塞がっていないのに八方塞がり。無限に空間が続いているのか、それともただリザイアが立ち止まっているだけなのか。大地を踏み締める感触も無い今、それすらも分からない。
リザイアは最後の切り札である魔力を手に集めた。
ここが現実世界であれば、彼女の召喚魔法は発動する。カルヴィテリアに伝わる召喚魔法とは、現実世界のどこかに存在するものを、自身の魔力を通すことで目の前に虚像として映し出すようなもの。現実という名のスクリーンがない場所には呼び出せないのだ。
つまり、もし魔法が発動しなければ……この世界はリザイア本人の精神の中、夢のような幻であるということだ。
(お願い……なんでもいい、現実に繋がる確証をが欲しい…………そうでなくては――)
――そうでなくては心が先に死んでしまう。
時間が経てば経つほど、自身の根幹を揺らす強さが大きくなっているのがわかる。元々百を締めていたリザイアという成分が、徐々に置き換えられている。
その割合は恐らく、もうすぐ半分。
きっとその後は早いだろう。何せ、今までは優位に立てていた盤面が入れ替わるのだから。
(指針となるカードはない。けれど!なんでもいい。なんでもいいから…………何か応えてくださいまし――――召喚!!)
声にならない願いが響く。
その魔力は空白に波紋を呼び、小さなゆらぎを作り出した。
あまりに弱々しい気配。蜃気楼のように何かが歪んだ気がする。しかしどこを向いても白、シロ、しろ。気が狂うほどの無が伸びている。
(やっぱり…………ここは現実世界ではない……。外部からの援助は期待できそうにありませんわ……ね)
期待を裏切る結果に、リザイアの士気が一段と低下する。これ以上、何をしていいのかも分からない。そう肩を落とした時、視界の端に何かが過ぎった
―――の――な―――だち!
――大――。『――』は君を―福し―る
(――声?!だれか、誰かいますの?お願い、姿を見せて!もっと、声を聞かせて!!私は一人でないと……そう思わせてくださいまし)
必死に周囲を見渡すと、ノイズが走るようにぼやけた何かがそこにいる。
手も届かない、姿もよく見えない、それでも確かに自分以外の何かが……。
それは何かを繰り返し伝えていた。砂嵐に混ざる電波のようなか細い声。鼓動が邪魔と思うほどに小さな音。
リザイアは目を瞑り、その音に耳を傾けた。
――僕――事な――もだ―!
―――丈―。『――』――を祝――てる!
何度も何度も繰り返される言葉。一度に聞こえる言葉は僅かだが、それらを繋ぎ合わせると小さな激励が浮かび上がった。
「僕の大事なおともだち!
大丈夫。『未来』は君を祝福してる!」
――と。
その幻は間違いなく、リザイア自身の魔力によってできていた。
☆。.:*
羽の集合体はシアンが思った以上に頑丈だった。否、正確にはそれらを覆う何か。目には見えないが、確かに魔力の層がある。
オリジナルとは言え神殺しの秘技でもある神壊術を持ってして、漸く表層が削れる程度。実際、それを持たないアミナやサヴは有効打を与えられていない様子。
苦戦を強いられる彼女らを嘲笑うかのように外郭の何かからクツクツと音が鳴る。ラップ音のような怪奇音。
それはやがて音と呼ぶには意志を持ち、感情の波を滲ませる。
「――く――ふ、ひ、はは、は、はははははははははは!」
妙に重い笑い声。ビリビリと肌を刺すような魔力。そして、首筋に鎌をかけられたような悪寒。
「なになに、いきなりなんでありますかぁ!」
「………………っ!」
「アミナ、サヴ!辛いだろうが怯むなよ!!」
シアンは思わず足を下げそうになっていた二人へ叱咤する。
しかし気持ちは分かる。シアンとて経験していなければ同じ反応をした。
全身が警戒しろと信号を送る。一歩でも下がってしまえば、命を持つ生物として二度と立ち向かおうとすら思えない威圧感。
恐怖と同時に、腹の底から嫌悪や拒絶にも似た瞋恚が湧き上がる。
忘れるものか。
これは――――限りなく神に近い存在だ。
「ああ…………ああ!これが、これが神か!!『陽光』の神よ、『慈悲』のソウェルよ!!」
未だ形を定められないのかモヤのように蠢く魔力。その足元で、今の今まで屍のように立ち尽くしていたジオーネが唐突に目を輝かせ、歓喜の声をあげた。
『陽光』の神、あるいは別名『慈悲』の神――ソウェル。
天使の親玉であり、現在進行形でリザイアと融合する実験を行われている者。
(それが既に顕現したとでも?だとすれば、リザイアは既に…………)
現実から目を逸らしたくなる。間に合わなかったと、その悲劇を認めたくない。シアンは奥歯を噛み締め、目の前で形を変える魔力を見つめた。
繭を覆う魔力は、ジオーネの言葉によって自身を認識したように次第に目に見える実体へと作り変わっていく。
ウエディングベールを思わせるヒラヒラと靡く純白。その神聖さに似合わぬ重厚な枷と鎖。極め付きはそれらの上に煌々と輝く天輪。頭は無く、マネキンのような手足がぶら下がる超常体――天使、その上位存在に他ならない。
それは存在しないはずの口を動かし、神託のような言葉を紡いだ。
「誰だ。我の可愛い器を傷つけようとする無礼者は」
発言と同時に押し潰すような鋭い斬撃が飛ぶ。
シアンは寸前のところで剣で受け止めたが、その余波のなんと重いことか。同様に攻撃を受けたアミナも機械の手を二つ同時に使用して漸く難を逃れ、サヴは本当にギリギリのところで回避している。
眷属の集合体から生まれたとはいえ、神であるのに神壊術が効かない。否、そもそもシアンの神壊術はただ一つの例外を除いて眷属にだって有効打を与えられる。アイシハイクのスノーマンがいい例だ。
天使だって、彼らの生息地であるソウェル大草原を通る度に殺り合ってきた。神壊術が効かないことなどなかったはずだ。
「チッ…………イライラするなぁ!」
シアンは再び神を殺すための剣を握り、天使にとっての弱点である輪を狙う。神壊術で外殻が深く傷つけられないということは、力が足りないということだろう。
自身の怒りとも呼べる魔力をある一点に強く込め、剣を高く振り上げた。
「なんだ騒々しい。羽虫にかける慈悲は無いわ」
「言ってろ馬鹿野郎――――うぐっ」
剣先が天使に触れる直前、見えない何かによってシアンは壁に叩きつけられた。
受身を取ることも許されない。まるで巨大ななにかに掴まれたような拘束感。思わず剣を手放し、為す術なく衝撃が全身を襲った。――が、
「――――サヴ!!」
シアンは壁に凭れながら仲間の名を叫んだ。
「――何をするつもり……だ?」
天使がその意図に気がつくよりも早く、アミナの操る機械の手に乗ったサヴが天使の輪の真上に落ちた。その手には先程シアンの手を離れた神殺しに特化した剣。
「――――――!」
一言の無駄を発することもなく、サヴがその剣を輝く天輪に振り下ろす。その目に一切の迷いなし。ただもとある線をなぞるようなブレることない一太刀。
魔力でできた刃はまるで空気でも切るように天使にとっての心臓を切り裂いた。
「あ、あぁ…………ああああああああああああああ!」
鼓膜を劈く絶叫。顔の無い天使の断末魔。傍から見れば確実に仕留めたであろう最後の唸り。
しかしシアンも誰も、一度たりとも警戒を緩めることはなかった。なぜなら本能が未だ警報を鳴らし続けている。ここで油断するのは愚者の骨頂だと。
「――――などと言う訳があるまいよ」
現に、目の前の天使もどきはそう吐き捨てた。
神聖の象徴であった輪はボロボロに崩れ、それでも尚死に至らない。自身を見上げる人間を馬鹿にするその姿はもはや、天使と言うよりも悪魔であった。
「神に歯向かう愚か者ごとき、我に傷がつけられるはずもなかろう……はははは!」
愉快極まりないらしい悪魔の哄笑。その声をトリガーにシアンを含め、アミナ、サヴ、ジオーネまでも、全てを押しつぶされるような重圧がかかる。筋肉が、骨が、内蔵が、重力に逆らうことを許可しないとでも言いたげに。
「そのまま潰れて消えるがいい。我の凱旋に羽虫は要らぬ!!」
体が軋む音と共に、顔の無い悪魔の嘲笑が響いた。




