1話 始まりは五月雨
「琴音さん。ちょっといいです?」
「おはようございます。院長、朝からどうされました? 私、まだ着替えもタイムカードも押してませんよ」
私は、時東 琴音。短大を卒業して、この内科の病院で看護師として働き、まもなく三年になる。
「早く診察室で真面目な話があるんだけど。それは後でいいから」
院長の黒目が小刻みに泳ぐ。まさか、昨日、田中さんに筋肉注射をしたのが、今になって問題になったの?
「イタっ、イタタタっ。お前のせいで腫れたじゃないか! ったくよー、新米ナースじゃあるまいし、おまえ何年目だよ? この仕事向いてないんじゃないのか?」
昨日、診察室で田中さんに大目玉を食らった。怒鳴り声を聞きつけた受付の看護師までもかけつけた大騒動となってしまったのだ。
たまに血管が細くて分からず、上手く刺さらない人もいるけど、それにしてもこのおじいちゃんは大袈裟すぎる。
怪しいと思いながらも、丁寧に謝っても許して貰えず、大人の色気のある香織先輩が助けに入ってくれた。
「田中さんは、血管が細いから上手く刺さらないんです。本当にごめんなさい。痛かったでしょう」と甘い声を出し、彼の前で片膝を立ててしゃがみ、上目遣いでおじいさんを見つめながら、彼の腕をヨシヨシとさすってあげていた。
「まあー、誰だって失敗とかあるわな。そう言えば俺、健康診断で血液取りにくいってよく言われてたわ」
すると、怖いくらい穏やかな表情になり、空中で腕をブンブン振ると、ニンマリ顔になる田中のおじいちゃんは、香織さんのミニスカートと豊満なバストの奥へと交互に視線を這いずり回し、堪能していたように見えた。ド変態だっ。
次第に頬を赤く染め鼻の下まで伸びるしまつ。
香織先輩のおかげで、なんとかなった。これなら彼がクレーマーになることはないと、安堵していたはずだった。
なのに、何で院長は朝早くから物悲しい目をして時折視線を逸らしているの?
消毒の匂いのする診察室へと入る。他には思い当たる節が全く見当たらない。
シワが額に強く刻まれて、痩せた院長は、浅く椅子に腰かけるが、その額からはやけに汗が吹き出している。季節は十月で、こんなにも朝は涼しいのに……何かが引っかかる。
彼は机のお茶を一口飲むと窓の方を見て小さなため息を吐いた。
「言いたくないんだけど、唐突過ぎて驚くかもしれないが、琴音さん……あなた――」
最後の語尾が小さくて聞き取れない。
「は、はいっ?」
話が聞き取れない時、「もう一度お願いします」こんな簡単な言葉が、相手に申し訳なさすぎて口にできない時がある。「はいっ?」と、反応を示して院長がもう一度話してくれるのを待とうと思った。
「……」
けれども、院長の表情はさらに曇るばかりで視線はどこにも定まっていない。
――話しにくいことって何なの? 言いようのない恐怖に背筋がゾゾッとする。けれども、私は院長の目の下の隈が酷いことの方が気になってしまう。院長ちゃんと睡眠しっかりとってるのかな?
ここ『あさひ病院』は、愛知県の片田舎に建てられはいるものの、毎日患者が後を絶たないぐらい人気がある。
「なにも他の病院に比べて特別な治療をしているわけじゃない。私が心がけているのは、ただ患者さんに親身になって診察しているだけ」
頬が赤く染まった、ちょっぴり可愛らしい院長も今年で六十七歳になり、そろそろ病院を畳む頃なのかもしれない。そんなことがふと頭を過ぎる。
それは三年前。私を面接した時に院長が言いずらそうに、あと五年くらいは医師としてここで頑張りたい。そして、それぐらいで転職になるかもしれないけど、大丈夫なのかと言った話をされたのを昨日の事のように思い出す。
――もうその時が来てしまったのかな? 三年なんてあっという間だった。この職場にもせっかく慣れてきたというのに…。
窓から見える青い空に入道雲がもくもくと立ち上る。なのにポツポツと雨が降り出し、しだいにそれは強くなり雨粒が窓に体当りしては流れていく。
――やばっ、洗濯物、ベランダに干してきたんだ……。ここから家まで三十分はかかるから、お昼休みに往復するなんて出来そうにない。
ふと院長の机の上に誰かの健康診断の結果の紙があり、ハッとなった。
私は築三十年のアパートに、一人暮らしをしている。なので仕事が無くなると困ると思ってたけど根本的に間違ってる気がした。それじゃあ、院長は何がしたいの?
院長は着替えなくても良いと言ったにも関わらず、他の看護師はいつものようにナース服に着替えてた。そのことから考えると、
――まさか……院長は私をからかってふざけている?
「どういうことなんですか? 私、覚悟は出来ています。こんなの心臓に悪すぎです。どんな話でも構いませんので、ストレートに話して貰えませんか?」
――院長が冗談を仕掛けてきているのかもしれない。この院長は看護師の困る顔を見て楽しむ性癖がある。患者にはとても親切なのに……バランスをとっている。ほんとうに困った。
でも、意地悪なところもある反面、その後のフォローが上手いから、看護師三人とも上手くやってて、皆、長く仕事を続けている。香織さんなんかはもう10年近く働いてるし事務の典子さんはもうすぐ還暦を迎える。
今回も院長が、ふざけていると思ってたけど、院長が涙ぐみ、元気がないのを見ると、自然と私の目頭も熱を帯びていく。
――机の上の健康診断の結果の紙が気になってしょうがない。いつもならすぐに「冗談だよ」って謝ってくれるのに。沈黙の中、院長はお茶を何度も飲み、目が充血して赤くなる。
――ドクンと心臓が嫌な音を立て、私は覚悟を決めて拳を握った。
嘘っ……。結果がよくなかった? そんなはずはない。今まで何か違和感を感じたことなんてないし、大きな病気にかかった?
院長は深く息を吐くと、私の目を直視して呟いた。
「あなた癌なんだ……時東さん。それも末期の……」




