サロン
扉を開けた。
鈍く重い音が、すすけた気分を助長する。
油を差しておけ……と一言落とし。無駄となった書類をポケットに突っ込んでから店内を見渡す。
「……好きにやれってことか」
店員が消えたサロンは、酒と乾き物が大量に積まれている。
他にも同じことを考えた者がいたようだ。薄暗い店内の卓は、もうほとんど埋まっていた。
「よう、あんたも来たのか」
こんな日に、物好きだなと呼びかけてきた相手は、自嘲気味に笑んでいる。
似たような笑いを返し、同じ卓を囲むことにした。
椅子に腰をかけ、グラスに酒を注いで煽る。
喉に刺さるような痛みがきた。
心地よい苦痛を味わいながら、店内をぐるりと見渡す。
どいつもこいつも辛気臭い。
それもまあ、当然か。
一様に肩を落とし、黙々と酒を煽っている面々。何ゆえこの場に集っているか、想像するまでもない。
皆が皆して嘆願を弾かれたのだろう。
普段なら、いくらでもある外勤の任務。その数が減らされていると気づいた時には手遅れだった。
(今年の冬を、里で迎えては駄目だ)
言い出したのは誰だったか。
もっと早くに気づいていれば。そうして悔やんでみても、外界への道はすでに閉ざされてしまった。
普段なら、確認らしい確認もしない移住申請書ですら、大した理由もなく弾かれてしまう。
時、すでに遅し……だ。
「ちくしょう……」
奥の卓ですっかりと酔いつぶれている一人が、呻くように呪詛を吐いた。
「…………終わりだ」
もう終わりだ。
全員、殺される。殺されてしまう。
今度こそ、誰も助かりはしない。
呪詛に続いて、恨み言が出される。
慧師。
中枢。
里への暴言は、懲罰の対象。
しかし、いまとなってはどうでもいいこと。密告する者もいなければ、罰する余裕もなかろう。
居心地の悪さを誤魔化そうと、胸元に仕舞っていた紙を取り出す。「指令書か」という虚しいからかいに、首を振って応じた。
「息子のいたずら描きさ」
崩れた線。
覚えたばかりの字が、紙の上で踊っている。
破天荒に踊っている字は、どうにかこうにか名前を形成していた。横には、下手糞な人の姿もある。
散らかった紙面の中、とある文字だけ塗りつぶされ、書き直した形跡がある。
……ひどいものだ。
こんな簡単な字を間違えるとは。
(帰ってきたと思ったら、ごろごろと寝てばかりいて)
休暇の時くらい、もっと構ってやって欲しい。
口うるさく言われていたのを、生返事で流してきた。
今更ながら深く反省する。
歴史的な意義も、金銭的な価値も、重大な意味もない紙。
そんなものを後生大事に仕舞っていたらしい。自身の行いのはずだが、いつから入れていたかも不明だった。
塗りつぶした拍子に、破きかけた箇所がある。卓が透けて見えてしまいそうな場所から、何故か視線がはがせなくなる。
背後では、まだ恨み節が続いていた。
慰めはない。
慰められる奴はいない。全員、置かれている立場は同じだ。
「もし、抜けたらどうなる」
ふいに落ちた言葉。
突然の出来事に、自身が一番動揺した。
動揺が伝染したのか。卓の向かいにいる知己が、口から酒を零す。
「見回り部隊は出払っている。上層は中央棟に張り付きだ。誰が高士を監視できる」
動揺は、堤防代わりとはならなかった。
次から次へ、するすると流れ出ていく言葉。一度切れた堰は、流れ出た言葉に揉まれ、何処かへ消失する。
例えば、だ。
例えば高士のほとんどが里抜けしたなら、サガノトスは全員を処罰できるのか――?
続けて問いを落とす。
指先にある紙の感触だけが確かで、他のすべては曖昧に沈んでいる。
自身の存在が消えていくような心地だった。感覚が潰されていく不気味さにまとわりつかれながら、強く疑問に思う。
そもそも、この感触以外に必要なものなどあっただろうか?
問いを胸に留め、ひたすらに反芻する。
ここで砕けたら、椅子から立ち上がることもなく命が終わる。いきなり降りてきた直感が、心の臓で種火を生んだ。
針のような沈黙が、全身に刺さっている。
次に口を開くのは誰か。互いに出方を窺い合う。
「オレは行く」
じわじわときていた火が肺で燃え広がり、熱を帯びた煙と化して外へ出る。
紙に書かれた文字。
拙い線が、無邪気に帰還を呼びかけている。
「オレは里を下りる。聖都に女房と子供がいる。あいつらを残して死ぬわけにいかん」
意思をもって反逆を口にした。
思っていた通り、どこからも罰は飛んでこなかった。
注いだばかりの酒を残したまま席を立つ。扉の先にあるのは、不名誉に飾られた世界のはずだ。
「共に下りる者がいれば続け」
言葉を放り捨て、出口へ向かう。
間をおかず、耳に席を立つ音が届いてきた。
数えるのが馬鹿らしくなってしまうほどの響きを背負い、重い扉を開く。
待っていたのは厳しい季節。
肌を裂くような風が、真正面からやってきていた。
目指す先にある巨大な壁は、今日も染みるような白い輝きを放っている。
輝きの向こうにあるのは生か。それとも死か。
道は二択。
ありがたいものだ。
何しろ、こちら側には選択の余地すら残されていない。
記憶に残る舌足らずな声が、早く帰ってこいと駄々を捏ねている。汗ばんだ冷たい手を懐に入れ、財布の厚みを確かめた。
聖都に下りたら、土産に菓子を買っていこうか。
……ついでに新しい紙も買ってやろう。
父の名くらい、きちんと覚えてもらいたい。




