目覚めの時
意識が浮かんでいく。
上へ、上へと昇っていくごとに、身体の重みが増している。
目覚める時がきたようだ。
悟ると同時に、哀切が心を埋め尽くす。
……もう、戻れない。
彼女とは。
彼等とは共に在れない。
あんなに深く触れ合ったのに、二度と交わることはないのだ。
唐突な別れは、卑怯と思えるほど呆気なかった。
右手が動いた。
指先に感触がある。それを得た途端、大きなものが押し寄せてきた。
膨大な知覚の波。
様々な感覚が一度にやってきたせいで、取り戻したはずの意識が押し流されてしまいそうになる。
静かな場所だ。
寒くもなく、暑くもなく……ひたすらに暗い。
額が痺れていた。どうにもならない不快感が、頭にきつく巻き付いている。
暗い場所に、光が射した。
一瞬だけ光り。すぐに消えて、しばらく経ってからまた光る。
雷だろうか。
雷にしては静かだ。雷鳴どころか雨音すらもしない。
もしかしたら、自分の耳がおかしくなっているだけだろうか?
身体中が痛んでいる。
真眼も同様で、周囲を探るどころか、真力を吐き出すことも難しそうだ。
許されるなら、それらに意識を向けたくはなかった。気を逸らしていれば、少しは苦痛を和らげられるように思っていた。
でも、いけない。
まだ混乱は残っているけど、記憶はしっかりとしている。
自分は囚われていた。
恐らく、いまもそうなのだろう。
確信を胸に、呼吸を整えていく。
助けは来ていない。来ていれば、こんな状態で放置されることもないはず。
自分はいまだ、敵の手中にある。
最悪の状況を前提にすえ、まずは呼吸を整える。
少し楽になってきた。
痛みは消えていないけれど、どうにか動けそうだった。
真眼は開いていたようだ。しかし、機能のほとんどが失われている。
右手をついて、静かに身を起こす。
目の中に星が散っている。いまひとたび瞼を下ろし、大きく大きく息を吸った。
「あら、お目覚め?」
咄嗟に目を開き、声とは逆側に飛び退いた。
「おはよう。ご機嫌いかが」
ぐらつき痛む頭の中で、あり得ないと騒ぐ声がある。
「……いやね、挨拶も返せないの。導士の分際で失礼な子。特別扱いに慣れて、すっかりいい気になってるのかしら」
目の前に、いてはならない女がいる。
第一部隊に捕縛され、いまも中央棟の地下に捕らえられているはずの――淪落となった女。
笑みが浮かぶ白い顔と、頬に添えられていた赤い爪。
対称的な色彩の上に、光がかかった。真横からやってきた強い光によって、取り戻した視界が塞がれてしまう。
無音の雷が消え、元の薄暗さに戻った時、女は目と鼻の距離までやってきていた。
赤に彩られた指が、右頬に触れる。
それだけで全身が総毛立ち、冷や汗が浮かんだ。
「…………驚きました」
ようやく出した声は、震えがひどい。
「幻影なのに、体温まで再現できるのですね」
震えてはいたが、どうにか最後まで言い切った。
妖艶な女の白い顔が、露骨に歪む。
気に食わないといわんばかりの表情は、真術とは思えないほど精巧だった。
「本当にいやな子。海で仕留めそこねたのが悔やまれるわ」
気分を害した様子のまま、幻が後退した。
その足元には、左右交互に回る円。鈍い真眼を可能なかぎり凝らしてみれば、女の胸元からも水晶大の光が漏れている。
……やはり幻影だ。
だからといって、気を緩めてはいけない。
人をここまで再現できるなら、術者の力量はかなり高い。
例え真術であろうとも。そして、即座に攻撃を仕掛けてくる気配はなくとも、危険な相手に変わりない。
不安に巻かれている最中、またも光が射してきた。
視界を眩ませる、轟音を伴わない雷。
これは何だろう?
疑問に思った時、女が右手側に顔を向けた。動きにつられ、自分の視線もそちらへ流れていく。
何もかもが不明瞭な薄暗い場は、右手側だけ透き通った真術の幕で区切られている。光は、その硝子のような幕の向こうからやってきていた。
こちらより、ずっと明るいあちら側。
まだ眩みが残る目を凝らし、じっと覗いて――思わず立ち上がった。
「――バトさん!?」
幕に張り付き、その名を呼ぶ。
透き通った幕は、触れた拍子に大きくたわんだ。それでも、突き破ることはできなかった。
あちら側に、青銀の真導士がいる。
手を伸ばせば届きそうな場所なのに、声すらも聞こえてはいなさそうだ。
低空を飛ぶバト。
唐突に、その姿が二つに分裂した。
驚きの声を落とした直後、さらに一つ、人影が増えた。
「あ……」
鏡だ。
バトの周囲に、鏡の壁がある。
あちら側は上下も、そして左右も、すっかり鏡で埋め尽くされている。
形に規則性はない。ばらばらと並んだ壁と柱に、青銀の真導士の姿が映り込んでいるのだ。
目に光が飛び込んできた。
バトが真術を放つ。周囲にある鏡がいっせいに輝く。
反射によって膨れ上がった輝き。それが、雷と見間違うほどの光量となり、ありとあらゆるものを照らす。
刺激に耐えきれず目を瞑る。
次に目を開いた時、光景は一変していた。
鏡の壁が動き、今度は細長い迷路のような形となっている。
うねった通路を、白いローブが飛んでいく。
鏡の雲間から、炎の雨が降り注いできた。
次々にやってくる炎が、白を執拗に追いかける。
赤い豪雨をすべて回避し、鏡の床に降り立った青銀の真導士。この動きは読まれていたらしく、時をおかず別の角度からも攻撃がやってきた。
巨大な炎から間一髪の状態で逃れ、バトは再び風をまとって空を駆けていく。
フードの影にある青銀が、ひときわ強く輝き、真円に導かれた鋭利な風が上空へ向かう。
目指す先は鏡の雲間。
そこにちらりと見えたのは、緑の人影。
フィオラと似た笑みを浮かべている男は、やってきた風を難なく消し去った。
そう、それこそ腕の一振りで。
真術を放ったのは確か。
でも、それは大きな力とは言いがたいものだった。
だからこそ、いま目にした事柄を、とても信じることができなかった。
バトが放つ風の真術は、常に凄絶な力を有している。
極めに極め抜かれた鋭い風。
驚異的なまでに鋭利な風は、もはや旋風と呼べるものではなく。そのため、"風牙の陣"という名を与えられている。
幾度もその力を間近で見て、それと同じだけ結果を見た。
だからわかる。
いまジーノが放った真術は、とても対抗しうるほどの威力はない。
しかしながら、バトの風牙を跡形もなく掻き消してしまった。
理解しがたい事象が、硝子の向こうで起きている。
「驚いてくれたかしら」
いっそ無邪気とも思えるような口調で、幻が問う。
「素敵でしょう。造るの大変だったんだから」
楽しげに語る幻を見つめ、隙を見て周囲を確認する。
境界はある。
けれど、はっきりとした形がない。
こちらも、あちらも。
視界にあるどの場所をとっても、建物らしき構造が見られない。
「お嬢ちゃん、蟻地獄って知っている?」
幻の女が、妖艶に微笑みながら語りはじめる。
すり鉢状の砂の穴。
そこに落ちた蟻は、たくさんの砂に降られ。徐々に足を滑らせて、最後には底へ落ちてしまう。
「いいと思ったの。十二年ぶりにやってくる大願の日。記念すべき風渡りに、邪魔しに来るだろう愚か者の棺。これ以上ないほどお似合いだってね」
術の名は、"空隙の陣"。
一度入れば最後。二度と生きては出られない。
「馬鹿みたいだわ」
ゆっくりと硝子の前に進んだ幻影の女が、ひとりごとのように呟く。
「拾った命を、わざわざ捨てに来るなんてねえ」
かっと熱い感情がせり上がってきた。
「バトさんは負けません!」
女の台詞が許しがたかった。そして、どうしようもなく悔しい気分だった。
バトは負けない。
あの人はすごく強いのだ。だから、この二人に負けるわけがない。
信じることだって、こんなにも容易い。
それなのに、悔しくて悔しくて……胸が苦しい。
「まあまあ、よく懐いていること。まったく何がいいのかしら。どちらの気持ちも、私にはさっぱりわからないわ」
いかにも人を馬鹿にしたような顔で、フィオラが言う。
「……二度と出られないというのは、真術が展開されている間だけの話。どんな真術であろうと、真円を弾けばいいだけです!」
「導士にしては博識ね。でもね、お嬢ちゃん。この"空隙の陣"は特別。あの男に、真円を弾くことはできないの。……せっかくだから、とっておきの秘密を教えてあげる」
色のついた爪が、鼻の先までやってきた。
視界が、艶めいた赤で埋まる。
「あの男は、空隙の中で全力を出せない」
ご覧なさいと言って、突きつけられていた人差し指が、硝子の幕へと向けられた。
透明な幕の先。ぎらぎらとした光に満ちた鏡の世界では、戦いが続いていた。
戦いの行方を追っている間に、違和感がどんどん膨らんでいく。
膨らみに合わせるように、豆粒ほどだった不安が大きく育ち、心臓を圧迫しはじめた。
おかしい。
青銀の真導士が押されている。そんなこと、あり得ないはずなのに――。
首謀者とみなされている男は、長く外勤の高士として活動してきた。
でも、実力者だとは聞いていない。
力を隠していたとも思えなかった。
放つ真術は、船の実習で見かけたものと同程度。だから、里の調査結果は事実だったのだと思う。
合同実習から昨日までの間。里で指折りとされる高士達の真術を、この目で見てきた。
男が展開している真術は、彼等の真術とは比較にもならない。
だというのに、里で随一とされている青銀の真導士が、ひどく苦戦を強いられている。
バトの頭上に出現した、いくつもの炎。
雨のように降り注ぐ、攻撃の数々。
数え切れないほどの炎を紙一重の状態でかわし、転送で渡って反撃を試み――あえなく弾かれる。
「ほら、言ったとおりでしょう?」
くすくすとした笑いが、いやに大きく聞こえた。
いつからか握りしめていた両手は、じっとりと汗に濡れている。
「何で……」
弱気に染まった言葉が落ちる。
否定の要素を探し、必死になってあちらを見つめて――それに気づいた。
男の近くで舞う光の粒と、青銀の真導士を囲む粒達。
二人の周囲にいる彼等の数が、明らかに偏っている。
「精霊が……」
ぽつりと出した言葉を聞いて、女が声を上げる。
「まあ意外。気がついたの」
ちらりと見た顔が、わずかな間だけ歪みを見せた。
それから「本当にいやな子だわ」と言い、うんざりしたように顔をしかめる。
「習ったでしょう。真術は、真力と精霊を元にして放たれる」
放たれる真術の威力は、籠められた真力と精霊の数に比例して高くなる。
多量に真力を籠めただけ、多くの精霊が集まる。
しかし、精霊は――。
「特定の真力に、懐くことがある」
より多くの餌を求め、世界をただよい続けている精霊達。
彼等は、真力あふれる場所を見つければ、そこに棲まおうとする性質を持つ。
常時、得ている真力を好み、愛する。
そのため、慣れた真力が含まれている真術に対してなら、他では見られないような力を発揮する。
また精霊は、精霊を呼び集める力も有している。
彼等は仲間が集まっている場所にやってきて、自然と集団を作り上げていく。そうやって作り上げられた精霊の集団は、真導士の戦いにおいて、心強い味方となるのだ。
「だから馬鹿だと言ったのよ」
――十二年。
それだけの時間を、有意義に使わないはずがない。
「何年もかけて、私達の真力に懐かせた。ここにいる精霊は、他の真力には見向きもしない」
隙を探し、反撃を続けているバトの姿を追う。
「迷惑なことに、あの男は用心深くてね。常に真力を撒いて精霊を飼っている。だから、それを上回るだけの精霊を閉じ込めておいたの。本当に素敵でしょう。"空隙の陣"は、精霊にも有効なのよ」
女は硝子の幕に手を添わせ、楽しげに語り続ける。
「……でも、こんなに粘るとは思わなかった。どう足掻いても、勝ち目なんかないとわかっているでしょうに」
苦戦しながらも、縦横無尽に飛ぶ白い影。
じわじわと追い詰められ、行き場を失い。転送で渡っては、何かを探して首を動かしている。
青銀の真導士が探しているのは、状況を変えるための一手だ。
けれども、真術で構築された鏡の世界に、それらしきものは見当たらない。
「無駄なのにね。諦めが悪いったら……」
滑稽だと言わんばかりの横顔。
笑みをたたえた女の顔は、見ているだけで胸に荒い熱を生む。
「罠が敷かれていると知っていたでしょうに。そんな場所に、単騎で乗り込んでくるなんて愚か。どれだけ自信過剰なのかしら」
女は、あの日、あの時と同じ笑いを浮かべ。「それとも」と落としてから、さも可笑しそうにこう言った。
「ずっと捨てたかったのかしらね」
――屑みたいな、その命を。
血が沸騰した。
そして唐突に思い出す。
微動だにもできなくなった身体。痛みすらも感じなくなった世界で、最期の最期に見た、あの光景。
小ぶりの杖に添えられた、赤い色。
身動き一つ取れなくなった彼女に跨って嗤う、あの醜悪な顔――。
――許さない。
額に光があふれた。
――許せない。
何をすべきか。どう念じればいいのか。
その瞬間、誰に言われなくとも全部を理解していた。
――絶対に、許してたまるものか!
彼女と彼と。
自分に渡されたすべての悔しさが、一気に火を噴いた。
頭の中で、何かがぐるりと旋回する。
それには構わず、両手を前にかざし、強く強く念じた。
理屈などわからない。
そもそも目の前にある真術が、いったいどのようなものかは知らないし、いま放とうとしている力の名も不明だ。
でも、これで正しい。
そしてこの感覚だけあれば……それでいい!
「――放て!!」
心臓の近くに、力を視た。
身の内へと取り込んだ時に感じた、あの神秘的な光が真眼から迸る。
真眼の奥からやってきた美しい七色が、暗い場所を明るく染め変えていく。
「馬鹿ねえ」
何もない場所に、女の声が落ちた。
心底呆れたような声だった。
「力の使いどころもわからないような子供を、所有者とするなんて……」
本当に馬鹿ね――。
最後にそれだけ言って、女の姿が消えた。残されたのは、粉々に散らばった水晶のかけらのみ。
時同じくして、硝子の幕にもひびが入った。
硝子の向こうは戦場。
そんなこと重々に承知している。
危険からは、極力遠ざかるよう言い含められていた。自分の行動は、指示と対極の行いだ。
それでも、強く強く念じ続けた。
境界すらもはっきりとしない狭い世界に、女神の風は吹いていない。
それでいい。かまうものか。
加護がなくても結構だ。
悔しさと悲しさと。
渡された思いのすべてを携え。
大きく開いた運命の場に、勢いをつけて頭から飛び込んだ。




