王女ドロシアと囚われの銀髪爆弾
「それではノマ様。こちらが、貴方様へご用意をさせて頂きましたお部屋になります。ドロシア様がお越しになられますまで、今しばらくお待ちくださいませ。」
「あ、はい。どうもご丁寧にすみません、ありがとうございます。」
そう言ってぺこりと一つ頭を下げて、私を案内してくれた女官さんへとお礼を述べる。いや、女官さんだか使用人さんだかはよくわからぬが、こうして王族の手足となって王城奥深くで働くあたり、おそらく女官さんで間違い無かろう。多分。
そんな彼女は眉一つ動かすこと無く見事な所作で一礼すると、静かに丁寧に扉を閉めて、部屋の外側からカチリと音を立てて鍵をかけた。はい、どう見ても座敷牢です。本当にありがとうございました。
ひとしきりきょろりと視線を回してみれば、室内には如何にも高そうで品の良い調度品がずらりと並び、奥の方には天蓋付きの大きな寝台まで設えてある。ふむり。このままここで、寝泊まりをしろという事であろうか。
どうやら無体な扱われ方をする事は無さそうだと、胸を撫でおろしつつも中央に鎮座ましますこれまたお上品な机へと足を向けて、小洒落た椅子に小さなお尻をストンと降ろす。さて、はたして鬼が出るか蛇が出るか。待てと言うのならば、待たせて頂こうではありませんか、王女様。
時を遡ること小一時間。わざわざ城門近くにまでお越しいただいた高貴なる御仁からの、熱烈なるそのお誘いに、私はさしたる抵抗をするでも無く膝を屈した。彼女の細腕を振り払うは造作もない事ではあったが、私のそのような周囲への影響を顧みない行動によって、ゼリグ達の立場が悪くなるのを恐れたからである。
そして理由はもう一つ。感情の面で多少気に障ったからといって、彼女の行動が誤っていると断ずるだけの材料などと、到底私には持ち合わせが無かったのだ。なにせ、こちとら徹頭徹尾に小市民。対してお相手は人の上に立つ者として、広い視野で物事を捉えるべく教育を受けたのであろう王族である。まさに見えている世界が違う。
そんな彼女の言い分も聞かずして、ただその強引さが気に喰わないからと関係を悪化させてしまうのは、とても正しき選択だとは言いかねた。まあ単純によい年をして、若い娘さんのする事に目くじらを立てるのも、大人げないなぁという自戒もある。ましてや今の私は、暴力に裏打ちされた自由を振るう事の出来る、化け物であるのだから尚更だ。
精緻な細工の施された背もたれへ、きぃことばかりに身体を預け、天井を睨みつけて深く細く息を吐く。そこまでは、まぁ納得が出来た。だがこうしてお城の中へと連れ去られ、歩き通して奥の間へと通されるにあたり、少々ばかり気も変わった。これから伺うであろうお話の如何によっては、残念ながらこの国の上層部に対し、私は敵対せざるを得なくなるやもしれぬ。
……なにせこの城内、死臭がするのだ。いや死臭といっても、腐敗臭であるとかそういった類のものでは無い。例えるならば第六感に訴えかける、弔われぬ死者の無念の声とでも言うべきだろうか。不死者の一員たる吸血鬼であるが故か、私はその、文字通りの声なき声を捉えてしまった。そしてそうである以上はこの不穏に対し、見て見ぬ振りをするというつもりは毛頭無い。
よもやこの城の裏側では、人道に背くような行為が行われているのではあるまいな。ドーマウス伯爵やメルカーバさんは、それをご承知であるのだろうか。いやあるいは、それは異邦人である私だからこそ異常と見做してしまうだけであって、この地の人々にとっては正常の範疇であるのやもしれぬ。だが仮にそうであったとして、私にそれを許容する事は出来るのか。
千々に乱れた思いを胸に、右へ左へと身体を揺らし、きぃこきぃこと軋ませる。そうして何もない中空を見つめるうちに、何時の間にやらそれなりに時間も過ぎていたらしく、先程私をお閉じ込めになった扉からノックの音が、コツンコツンと軽く響いた。おうおう。いよいよ、おいでなさりましたか。
「ふふん。べその一つでもかいているかと思ったが、案外にふてぶてしい態度を見せてくれるものだな。なぁ? ノマとやら。」
「これはこれは。王女様にお見苦しい姿を見せてしまい、誠に申し訳ございませんでした。失礼ついでに一つお教え願いたいのですが、この国における最敬礼の所作というものは、どのようにすれば宜しいのでしょうか?」
「無用だ。お前のようなどこから用意されたかもわからぬ娘に、そのような礼儀など求めておらん。それよりも、さっさと本題に入るとしよう。」
お姫様の所作にしてはやや乱暴に開かれた扉から、先陣を切って踏み入ってきたのは誘拐犯ことドロシア殿下。ちょうど斜めに倒していた身体をぎこんと戻し、何の説明も無く無理やり連れてこられたんだぞと放ってやった嫌味はしかし、どこ吹く風と受け流されて虚空に散った。うーむ、手強い。
そしてその流れ弾は続けて姿を見せた後ろの御仁、微妙に顔色を悪くしたメルカーバ嬢へとトッスと刺さり、私も思わず真顔になってピシリと固まる。そんな彼女は私へ向けて、どうか穏便に済ませてくれと言わんばかりの視線をくれると顔を伏せ、音もなく扉を閉めた。いや、なんか、すみません。こちらこそ如何にも不機嫌そうな姿を見せてしまって、すみません。およよ。
「さて、改めて名乗らせて貰おうか。私こそが王国第一王女、ドロシア・インペレ・ハートクィンである。銀の娘よ、この私が身の安全を保障してやる故、お前の背後で糸を引いている連中について知っている限り、洗いざらい話すが良い。無論、直答を許す。」
「ああ、そうでございました。今しがた許しも得ぬままに口を開いてしまった我が身の無礼、どうか、お許し下さいませ。それで、ええと、糸……でしょうか? あの、申し訳ございませんがドロシア様の仰られている事、私には少々ばかり、わかりかねます。」
「とぼけるでないわ。先のはぐれ騒ぎにせよ今回にせよ、お前のような幼き娘が化け物を退けたなどと誰が信じる? 誰ぞ、私の与り知らぬ強力な手駒を兄上が隠し持っていて、その功績を貴様という見目の良い娘に集めている事は明白。偽りの聖人を手中に収め、己の正当性を主張しようというその企み、この私が看破出来ぬとでも思ったか。」
「んん? いえいえ、お言葉を返すようで恐縮ですが、それこそ私のような幼き娘に、お会いした事も無いような雲の上の方のご意志などと、量りようもございませんよ。どうやら色々と行き違いが生じているようですが、隣に居らっしゃるメルカーバ様からの詳細なご報告、既にお受け取りになられましたか?」
私の対面にドッカと腰掛けた姫様から、矢継ぎ早に飛び出してくるはまぁ出るわ出るわの追及の嵐。いやまあ、今回の聖女騒ぎについてドーマウス伯爵、ひいては彼が所属する王太子派が実際のところ、この機に乗じてなんらかの利を得ようとしているのかまではわからない。だが少なくとも今しがた受けた質問について、その前半はまごう事無き誤解である。
別に己の成果を誇ろうというわけでも無いが、こうして耳に入ってしまった以上はその誤った認識を、正さないというわけにもいかぬ。ましてや、彼女は政治に携わる高官の身。より正しき判断をして貰う為にはこの残念極まりない真実の数々、ぜひとも知って頂く必要があるだろう。そう、主に私のやらかしとかを。
「ふん、口の回る娘だな。だがしかし、確かに少々ばかり、事を性急に進め過ぎたか。メル、ここは人払いも出来ていて良い機会だ。お前自身が見聞きしてきた実情について、報告を頼む。」
「……あの、申し上げにくいのですが、先触れを通じて伝えさせて頂きました戦の経過、全て事実でございます。いえそれどころか、その裏側はさらに厄介極まる代物でして……。」
「……ほう? 興味深いな。私はお前の事を、信頼のおける友だと思っている。まさか兄上に金でも掴まされて、そこな娘と口裏を合わせているなどとは言わんでくれよ?」
「無論、心得ましてございます。ではその、お耳を拝借頂ければと……。」
心もち、ちょいとふんぞり返って腕組みをした王女様の耳元に、膝立ちになっておずおずと顔を寄せるメルカーバ嬢。そのモショモショと可愛げのある内緒話はしばらく続き、やがて彼女は大きく目を見開きながら私の事を凝視して、それから徐々に徐々に半眼になった。なんとなく、その変化から話の進み具合が察せられる。おなかいたい。
「ほう。ほうほうほう。我ら王国の者だけでなく、蛮族どもから化け物に至るまで、その全てを手玉に取った恐るべき魔人の正体が、この娘と? くくく。実に興味深い。」
「ドロシア様、わたくしの話を信じて頂けたのでしたら、どうかあまり、彼女を刺激するような行為は慎んで頂けますと……。」
「ふむ。メルを疑おうというわけでもないが、それでもやはり、己が目で確かめない事には得心もいかん。なあ、はぐれ化け物のノマとやら。我が友の伝える事が事実であるというのであれば、お前のその化け物らしい姿というものを、ぜひともこの私に見せてはくれぬか?」
自業自得の結果とはいえ、この腫れ物扱いは微妙に辛い。そんなドンヨリとした私へ向けて、発せられるのはじゃあ証拠見せろやという至極真っ当な疑問の声。まあ、当然と言えば当然か。目の前の少女は実は恐ろしい怪物なのですと、急に言われたところで眉唾物もよいところ。私が彼女の立場であっても、きっと同じ事を言うはずである。
さてそれは構わないとして、ではゼリグ達への断りも無しに、我が身の理不尽さを見せつけてしまっても良いものか。と、一瞬の戸惑いはあったものの、考えてもみれば既にメルカーバ嬢を通じて事の詳細が伝わっている以上、なんとも今更な話であった。
なによりその騎士団長様に真相を明かしたのは、彼女達の同意あってのものである。で、あるならばその上役である王女様をこうして巻き込んでしまう事もまた、キティーにとっては最初から織り込み済の話であるはず。ふむり。
「かしこまりました。それで殿下にご納得が頂けるのであれば、私としてもこの場で披露をさせて頂きます事、やぶさかではございません。少々ばかり窮屈となってしまうやもしれませんが、どうか、ご無礼をお許し下さいませ。」
「む……? 窮屈になる? 待て娘、貴様何を……きゃぁっ!!?」
とんとんとん、と。さぁおいでなさいなとばかり、その場で軽く足踏みをして調子をとる。途端、私の肩口からおへその辺りまでがメギリと裂けて、ゾロリと牙を生やして濡れそぼったその大口から、まろび出ていらっしゃいましたは大きな大きな銀の怪魚。
王女さま方を取り囲みながら見る間に部屋を埋め尽くしたフクロウナギは、調度品を押し退けつつも一際大きなその顎をグゥンともたげ、それからドチャリと水気のある音と共に身を横たえた。頭の上に、相変わらず妙に血気盛んな銀髪赤眼、例の我が子を乗せたまま。
「ふはははは! お呼びになられましたかノスフェラトゥ様ぁ! この踊るフルート吹き! 御身のお役に立てるとなれば何時いかなる時であろうとも、馳せ参じさせて頂く次第でありますぅっ!!!」
「なっ!? キリーが滅ぼしたはずの魔人!? ドロシア様! お下がりください! あれは危険な女です!!!」
「ふん、下がる場所などどこにも無いわっ! それにしても、貴様本物の化け物か!? 面白くなってきた! これは面白くなってきたぞおっ! あはははははは!!!」
ウナギに押し流されてベチョリと壁際に叩きつけられた私の上で、フルートちゃんの笑い声がこだまする。そこへ何が気に入ったのか、気勢を上げる王女様の高笑いに、慌てふためく騎士団長様のうわずった声が重なって、場は一気に混沌の坩堝へと陥れられた。いや、それをやった犯人は私ですけど。
証拠を出せというのであれば、実際に暴れ回った脅威の姿を見せるのが最適である。それを考えての人選であったのだが、それでも安易にこの子を呼び出してみせたのは不味かったやもしれん。せめて、パンダの一匹くらいで留めておいたほうが良かったか。モフモフだし。
「どっこらせっと。あー、踊るフルート吹きよ。私の事は今後、ノスフェラトゥでは無くノマと呼ぶように。それとメルカーバさん、少なくともこうして私が監督をしております限り、この子達に無体な真似はさせません。お気持ちはわかりますが、どうかご安心下さいませ。」
「し、信用して宜しいのですね、ノマさん? 正直なところ私はあの時、貴方の放った熊一匹を相手取るのが精いっぱいであったのです。それがこんなところで、あの群れをけしかけられようものならひとたまりも……。た、頼みましたよ?」
「女ぁっ! 貴様! ノマ様の仰る事が信じられぬと言うか!? 矮小なる人間共を生かしてやろうというそのお慈悲に感極まり、伏して拝み奉るのが当然の……わひゃあっ!!?」
「はーい。呼びつけておいて申し訳ないけども、フルートちゃんはちょいと黙って、良い子にして待っていましょうねー。」
恐る恐ると口を開いたメルカーバ嬢に、泡を飛ばして食ってかかるウチの子を、羽交い絞めにしてウナギの口の中へとポーンと放る。そのまま海の幸によってバクンと挟まれ、頭だけ出した格好となったフルートちゃんは、叱られた事を気に病んでかシュンと縮こまって大人しくなった。
ふいー。公園で近所のお母さんに頭を下げる、母親の気分が良くわかる。まさか人生一周したその先にあったものが、ママ友同士におけるご近所付き合いの妙技であろうとはなんともはや。それにしてもさっきからケラケラと笑い転げている王女様、図太いですね貴方も。
「くくく。メル、控えておいてもらって構わんぞ。こんなどこへでも手勢を持ち込めるような怪物相手に、多少抗したところで我らの破滅は目に見えておるわ。それでも私を守ろうとしてくれた、その献身には感謝をするがな。」
「ふむり。それを振りかざすかどうかは別として、私に生殺与奪を握る力がある事を否定はしません。しかしそう仰られる割に、ドロシア様には随分と余裕がお有りになるとみえますが?」
「まさかまさか。これでも内心、悲鳴を上げたい気持ちで一杯よ。だが私は、こうして貴様が言葉の通じる相手である事を知っている。いつでもこの国におぞましい痛打を浴びせる事が出来たのに、今日まで大人しく振る舞っていた事も知っている。だからこそ昂るのだ。そんな貴様をどのように篭絡して、我が物にしてやろうかとな。」
「さて、どうでしょうか? 貴方のような自信家に夢を見させて、最高と言えるその瞬間にグサリと裏切る。私がそのような悪意を好む、卑劣な愉快犯では無いという保証はありませんよ?」
「ふふん、その時は存分に貴様を恨みながら死んでやるさ。見る目が無かった、失望した、あんな化け物を信じるのでは無かった、とな。そうなったとして、貴様はそれで満足か? ノマ。」
「いいえ。それは私にとっても、実に悲しい結末です。このお話し合いの結果がそのような仲違いに繋がるものでは無い事を、切に祈らせて頂きたいものですね。」
そこらに蔓延る邪魔な魚体をヨイセと跨ぎ、若干生臭くなった椅子の上へとよじ登る。向かい合うは両手を組んで、実に愉快だと言わんばかりに口角を上げるドロシア殿下。その私達をウナギの口に収まったフルートちゃんが恨めし気にじぃと見つめ、そんな彼女から主を庇うようにして、メルカーバ嬢が間に入って視線を切った。
「さて、そもそもにして、お前をこの王城へと連れてきた理由だがな、それは先にも言った通りだ。万物の王に仕える御使いを連想させる、美貌に溢れた銀の娘。そんな貴様を聖人に仕立て上げ、その威光で以って、自らが王権を継ぐことに箔をつける。兄上のその幼稚な企て、全て白日の下に晒してやろうと思っていたのだがな。当てが外れた。」
「それはなんとも、ご期待に添えず申し訳ございません。しかし、ドロシア様が王太子殿下と政敵であろう事は察しがつきますが、何故にそうも争っておられるのでしょう? もしや貴方様は、自らが玉座に座かんとする事を欲しておられるとか?」
ちょこんと座った椅子の上で、膝の上に置いた指の腹を、骨の縁をなぞるようにしてすりすり動かす。王太子なる言葉の意味は、ところ時代によって異なる事もままあるだろう。だが少なくとも今現在のこの国において、王太子殿下は王家の長子という立場にある。ならば彼こそが王位継承権の第一位を持つのであろう事は、内情に疎いこの私にも何となく察しがついた。
この王女様は既に確定されたその力関係を、無理やりにでも覆そうとしているのだ。では、はたして大きな混乱を招くであろうその行動に、彼女なりの正義はあるのか。その返答の如何によってはいよいよこの私も腹を括り、どちらへ肩入れするのかを決めねばならぬ。
「必要とあれば、そうなる事もあるだろう。だが私の目的が王位にあると思われているのであれば、それは甚だ心外だ。権力などと言うものはな、望む政策を実行する為の手段に過ぎん。」
「そうは言っても表裏一体。権力は権力で、大切だとは思いますがね。ですが、言わんとされているところはわかりました。つまりドロシア様と王太子殿下では、主張されるこの国の舵取り、見えている未来の姿が異なる、と?」
「その通りだ、話が早いな。相変わらず気の抜けぬ情勢は続いているが、それでも我が王国はみなの尽力のおかげもあって、一応は安定した状態をみせている。そこにあって、兄上の主張は現状の維持。このまま亀のように首を引っ込めて閉じこもり、細く長く生き延びていこうという腑抜けた策よ。」
「良く言えば堅実、悪く言えば先細り、というべきでしょうか。ですが失礼ながら、小国であるこの国の国力からいっても、やむを得ない選択では無いかと思います。私としても、既に実績のある手堅い戦略があるのであれば、それを支持したいところではありますね。」
どうやら権力を得たその先に、見据えるものも無いような不毛では無いと知って、まずは安心とばかりに息を吐く。ふむ、しかし政策の不一致か。ならば私のような素人が、口を挟むべき分野では無いと思いはしつつ、それでも一応は自らの考えを口にする。前例主義万歳。ノマちゃんは保守的なのだ。
「ふん、頭の固いやつだな。貴様自身、今しがたに先細りと言ったばかりでは無いか。確かに数年の先しか見据えぬのであれば、それも妥当ではあるだろう。だが十年二十年と長期的な視点で見れば、いずれ東の衆国に飲み込まれるか、そうで無くとも蛮族ども相手の防壁として、使い潰されるのは目に見えている。そうなる前に我が国は軍拡を推し進め、武力を持たねばならんのだ。」
「仰ることは理解できます。ですが、無い袖は振れぬというもの。私がこう言うのもなんですが、化け物の脅威が蔓延るこの地において、人の生活圏が実に狭いものであるという事を私はこの目で見てきました。そのような状況において軍拡などと、国力に見合わぬ行動は身を滅ぼしますよ?」
「全く以って、その通りだ。座して死を待つつもりなどは毛頭ない。しかしだからといって、具体的な見通しが立つわけでも無い。出来るといえば兄上の鼻をあかし、現体制に反発する連中を味方に引き込む程度の事。くくく。だからな、つい小躍りをするほどに嬉しかったのだよ。この八方塞がりを打開できる最高の一手が、こうして目の前に現れてくれた事がな。」
そう言って、白い肌を桜色に紅潮させた王女殿下は右手を伸ばし、私のお手々をがっしと掴んで握り込んだ。あれですか。それってもしかしなくとも、最高の一手って私の事ですか。あ、すいませんちょっと、握手が激しすぎて身体ごと揺さぶられてます。
確かに、私が秀でていると言えるのはこの果てしない暴力の一点のみ。しかしその暴力こそが、彼女が求めてやまない国防の要に見事に合致しているというのだから、この興奮ぶりも頷けようというものである。うふふ、まさにノマちゃんストップ高。照れてしまいますね。
「単刀直入に言わせて貰うぞ! ノマよ、この私のものになれ! 報酬は今の五倍、いや、十倍だそう! 共にこの国を支えて育て、世界に覇を唱えようではないかっ!!!」
「あ、すいません。ちょっと私の一存では決めかねますので、先に上の方を通してください。」
しょっぱい対応の次の瞬間、すっぱぁぁぁぁん!!! と良い音を立てて、平手で頭をぶっ叩かれた。いや、だってしょうがない。姫様の言い分に賛同できないというわけでは無いが、今現在の私はちゃんと雇用主のいる雇われの身なのだ。それをきちんと話もつけずして鞍替えなどと、些かばかり不義理が過ぎる。
「貴様ぁっ! 化け物の分際で、この王女たるドロシアの命が聞けぬというか!? 不敬であるぞ!!?」
「いえ、それを仰るのならば化け物が、この国の理に従わぬ事は当然でしょうに。別に、お断りするとは言っておりません。ただ引き抜きをかけようというのであれば、きちんと通すべき筋は通してくださいと、申し上げているのです。」
「ぐぐぐ! あ、兄上に頭を下げよというのか!? い、いや! そもそもだ、貴様自身はどう考えているのだ!? 断るつもりが無いというのならば、私を支持するという事であろう!? そこに要らぬ横槍が入ったところで、貴様には力がある! ねじ伏せてしまえば良いではないか!!!」
「と、申されましても実際のところ私には、お二人のどちらがより正しき選択をされているのかなぞ、判断を致しかねます。それに私という一石が投じられた以上、王太子殿下のお考えにもまた、変化が生じるところもあるでしょう。そこのところを一度ご兄妹でしっかりと、話し合っておくべきでは無いでしょうか。」
ふんすとばかりに鼻息荒く、息を荒げて立ち上がる王女殿下へと持論を述べる。とはいえ、誤った事は言っていないという自負はある。なにせこの場で力を貸す事に了承し、その結果として国が良い方向に向かったとしても、それが禍根を残さないわけがないのだ。そんな事をして蚊帳の外に置かれた王太子様が、面白かろうはずもない。
人の心とは難儀なもの。如何に理屈の上では正しかろうと、互いの納得を経らずして為された決定は必ずや、不和の種となる。まして彼女らはこの国の最高指導者に近いとあって、ならば尚更のこと、互いに合点がいくまで話し合って貰うべきであろう。うむうむ。
「殿下、それと老婆心ながら、一つ忠告をさせて頂きます。貴方様も人の上に立つ者なれば、もっと正道というものを重んじるべきでしょう。下の者に尊敬をされ、この人になら従っても良いと相手に思わせるような人徳こそが、上位者を上位者足らしめているゆえんなのです。それを力でねじ伏せてしまえば良いなどと簡単に……。」
くどくどと、偉そうに垂れた言葉は最後まで言い切られる事も無く、私はズダンと机ごとひっくり返されて、ウナギの上にぶにょんと落ちた。ああ、いかんな。やはり年をとると、どうにも説教臭くなって宜しくない。ではお前にはそれが出来ているのかと問われてみれば、そろりと目を逸らす事もままあるのだから尚更である。あ、ちょっとフルートちゃん落ち着いて。ステイ、ステイ。
「おうおう上等じゃあっ! 黙っとれば調子に乗りよって、ようも偉そうに講釈を垂れたなノマぁ!? メルよ! お前の下げちょる長ドス貸せぇや! この無作法者を手討ちにしてくれるわっ!!!」
「ドロシア様! すぐにそうやって、お読み物から影響を受けるのはお止めください! ごめんなさいねノマさん。殿下は最近ひんがしから流れてきたという、冒険活劇とやらを大変お気に召しているようで……。」
ひっくり返った私に向けて、メルカーバ嬢の剣をひったくって突き付けようとするご乱心様。とはいえ流石に騎士団長様には敵うべくも無かったようで、あっさりと取り押さえられた彼女は後ろから羽交い絞めにされて、じったばったと暴れながらもずーりずーりと引きずられていく。そしてそんな彼女らに道を譲るべく、モソモソと動いて魚体を動かす海の幸。気が利くね君。
「どうか気をお静め下さい! そもそも剣を向けたところで勝てるはずも無いと、そう仰られていたのは殿下ではございませんか! とりあえず、ここはいったん引きましょう! そして彼女の言う通りにやはり一度、王太子殿下と会談の機会を設けるべきです!」
「そうですよ殿下。きちんとお話を通して頂けたのでしたら、私も殿下の為にこの力を振るわせて頂く事、やぶさかでもございません。あ、それと殿下お気に入りだという冒険活劇、今度ぜひとも貸してください。読んでみたいです。」
「ええいメル! 貴様どっちの味方なんじゃっ!? くそぅ! おうノマ! 私は絶対に諦めんぞっ! 貴様のその力! 必ずや我が物としてくれるわっ! 本もそれまでは貸してやらんからなぁっ!!!」
はい、楽しみに待たせて頂きますね~。と、軽く手を振って見送る前で、なんとも騒々しい王女さま方は扉の向こうへと姿を消した。後に残されたのは相変わらずうず高く積み上がったウナギの山と、ガルルと牙を見せて威嚇する我が子の姿。部屋の外から漏れ聞こえてくる、鍵の上から鎖でも巻いておけ! というキンキン声はご愛嬌だ。
これにて、ひとまずボールの持ち主はあちらへと移った。あとはお偉い方同士できちんと話を通して貰い、私という資源の有効な活用方法を見出して貰いたいものである。うむり。ではそれは良いとして、しっかりと封印され直してしまったこの缶詰生活、さてさてどうやって時間を潰したものか。そう考えつつも首を傾けてポキリと鳴らし、不意にある事を思い出す。
あー。この城内に立ち込める死臭について、探りを入れるのを忘れておった。とはいえ今しがた接した限り、王女殿下はその気性にこそ激しいものを持っておられるものの、お人柄からは特段よこしまな何かを感じさせるというものでも無い。とくれば、彼女はこの件についてシロであろうか?
いやいやいや。考えてもみれば、事の真相すらわからぬうちに、他人様をシロかクロかという色眼鏡で見るのも宜しくない。まずは何につけても、情報を集めるところから入るべきであろう。一に情報二に情報、三四が無くて五に情報だ。まあ収拾の手段に関して言えば、コツコツと聞き込みをする事以外に思いつかぬが。
頭に浮かぶのは城内のあちらこちらを徘徊し、弔われぬ哀れな仏様について心当たりはありませんかと、方々に聞いて回る囚われの少女。うーむ不気味だ。しかも鍵付き扉をぶち破って我が物顔で闊歩しているあたり、衛兵の皆様方をはじめとして、色んな方の面目丸潰れもよいところである。
うん、いかんな。大人しくメルカーバさんを通して外出の許可を取ろう。なんせアレだ、私はつい先ほどに、王女様に正道の大切さを説いたばかりなのだ。それが舌の根も乾かぬうちに吐いた言葉を翻すなどと、恰好悪いが少々過ぎる。正道を行き、我は通し、さりとて傍若無人というわけでは無い。そういふものに、わたしはなりたい。
お、上手い事言えたね。とばかりに小さなお手々を顎に当てて、くつくつと笑う変な小娘。そんな私を見て我が分身達は、互いに示し合わせたように首を傾げると、なんとも声をかけづらそうに目尻を下げたものであった。
まあとりあえずは、すっかり散らかって生臭くなってしまったこの部屋を、さっさと片付けてしまうとしましょうかね、うん。やっぱりパンダにしとけば良かったわ。
こうしてお話を書いていると面白いもので、しばしば登場人物は作者の当初予定に無い動きをします。今私が考えている事はそうでは無いと言われるのです。
何が言いたいのかと申しますと、何故か準レギュラーと化したウナギはその産物です。本来その席にはパンダが居ました。




