王太子派のはかりごと
「殿下。我々の勝利であると、既に狼煙は上がっているのです。それほどに気を揉む事もありますまい。」
「いや、しかしだなドーマウス伯。勝ったとはいえ此方の受けた損害の如何によっては、今後の戦略を見直さねばならぬやもしれんのだ。手元に兵が戻ってくるまでは油断も出来んさ。」
此度に持ち上がった、蛮族による侵犯問題。その対応をせんが為、急遽王城の一室を改装して作られた作戦室は、秋も暮れだというのにじっとりと汗ばむような熱気が渦を巻いていた。
そこに詰めるは王太子殿下を筆頭に、葉巻を咥えたままで黙して語らぬマッドハット卿と、ドーマウス伯ことこの私、ファーグナー・モナレ・ドーマウス。そして雁首並べた我々責任者の眼前で、机に齧りついて書類と戦う大勢の官僚諸君と、まぁ狭い事この上ない。今思えばもう少し、広い部屋を確保すべきだったか。
無事に蛮族を退けたとの一報が入り、胸を撫でおろしてからかれこれ数日。それでも彼らの仕事は終わらない。いや、むしろ事が終わった今からこそが、佳境であるとすら言えるだろう。
この遠征にあたり手配をした諸々の物資の支払いに加え、諸侯への恩賞も軋轢を生まぬようにと、参陣した者の序列を考えて計算せねばならない。それに勝利が与える影響と被った損害を加味したうえで、我が国の対外戦略に対し、見直しをかける必要もある。求められるものは多いのだ。
そんな渦中に我々が居たところで、別に何が出来るというわけでも無い。しかし実務こそ出来はしないが、我々には意思決定の能力と権限があり、何よりも責任を取る事の出来る立場にある。ならばこうして部屋の一角で報告を受け取りつつも、彼らの仕事ぶりを気にかけ期待をしているという姿を見せる事こそが、我ら上役に課せられた役目というもの。まあそこの太った御仁からの、受け売りではあるのだが。
「確かに。北方の蛮族共は元よりとして、昨今どうにもきな臭い噂が漏れ聞こえるようになってきた、東の衆国の存在もあります。備えねばならぬ外患は未だ、数多くございましたな。それに、王女殿下の一件も。」
「ドロシアか……。今回の出兵に際しても、『兄上! この国難において自らの利益の為に、王城内で相争っている場合ではありますまい!』と、ぐうの音も出ないような正論を吐いて、自分の配下を融通してきおったな。まったく我が妹ながら、つくづくもって御し難い。」
王太子、ヘンゼル・インペレ・ハートクィン殿下。今や私の実質的な主君であり、幼少の頃より競い合った友でもある青年は、そう言って深く一つ息を吐いて、亡き王妃殿下譲りの濃い金髪をくしゃりと掻いた。その苛立たし気な仕草に合わせ、指の先が机を叩く軽い音が書き物の音と混ざり合って、部屋の中にコツリと響く。
「私共臣下の前で、あまり感情を露わにするような振る舞いは、感心できるものではありませんな?」
「そう言ってくれるな、ファーグナー。今は友として、愚痴の一つでも聞いてくれ。そもそもにして私はな、蛮族侵入の一報が入った時点で、アイツへ協力を申し出るつもりではあったのだ。それをアイツ、会議の場で機先を制してあんな物言いをするものだから、強情を張った私が説得されたかのような流れになってしまった。」
「……アレにはしてやられたな。元より、こちらの狙いは王城内における意思の統一。それに先手を打たれた以上、もはや我々が何を言おうともドロシア様の発言に乗ったようにしか見えん。」
「それで以って出張ってきたのが、メルカーバ嬢の擁する血薔薇騎士団ときたものだ。悔しいがこちらの手駒に、彼女を凌ぐ戦力の持ち合わせは無い。これは間違いなく、勲功一番はあちらに持っていかれたぞ?」
カツン! と、一際大きな音を響かせ、それを最後に殿下の指先は荒ぶりを止め、握り込まれて静かになった。まぁ不満を漏らしたくなる気持ちもわかる。私も臣下として友として、彼の事を支える身だ。この一件が決定的な流れを作るまでには至らぬだろうが、それでも日和見を決め込む中立派から、王女殿下の側へ就く者は少なくないであろう事は予想が出来た。
なにせ結果だけを拾ってみれば、王女殿下はヘンゼルをだしに、強い指導力を発揮したという見せかけの実績を作ってしまったのだ。そして『協力をしてあげた』という立場の上で、自らの手駒から最精鋭を抽出して手柄を攫い、持論の正しさを確固たるものとする。実に上手い事をやられたものだが、ただしそれも、メルカーバ嬢が活躍を出来ればの話である。
確かに、王女殿下には先手を取られた。それによってヘンゼルは統率力を見せる機会を奪われた上、事を命じた指導者としての責は負わねばならぬという、なんとも損な役回りを負わされている。それで戦功まで持っていかれたとなればいよいよ苦しい立場にも立たされようが、そうは易々と事を運ばせるつもりも無い。前もって、手は打っておいたのだ。
ノマを名乗る、正体不明の怪物少女。彼女こそが私とマッドハット卿が置いた、巻き返しの為の布石である。未だその出自は明らかでは無いものの、彼女の理不尽とまで言える暴力の冴えは、先の白ガエル騒動によって折り紙付き。そしてその暴力を我が妹たるキルエリッヒは、見事に御してみせているのだ。これだけの駒を遊ばせておく理由は無い。
早々に勝利の一報が入った以上、彼女が我々の目論見に沿う活躍をしてくれたのであろう事は期待が持てる。勲功第一がこちらの物となればヘンゼルの面目も保てるし、優秀なる妹君に支えられた、次代の王という体裁を取る事も不自然ではない。状況としては現状の維持に近いが、どうあっても悪く転ぶような事にはならないだろう。
「まあ落ち着け、ヘンゼル。我々とて君がドロシア様の手中で転がされるのを、ただ手をこまねいて見ていたわけでは無いぞ? 先の白ガエル騒動の立役者である銀の娘。アレを連れさせた我が妹をな、既にこちらの駒として送り込んである。マッドハット卿のご子息様の、身の安全の保障も兼ねてな。」
「ぶふー。そうですぞ、殿下。確かにメルカーバ嬢は、女だてらに神から賜った力を揮う剛の者ではありますが、こちらにもそれに比肩しうるだけの手駒はあります。以前にも、ご報告は差し上げていたと思いますがな?」
「む……。過日のはぐれを滅ぼしたとかいう、銀の少女か。確かに話には聞いていたが、とても信じられるものでは無いな。なにせ齢十にも満つるかどうかの、幼き子供なのだろう? 如何なる加護を得ているのだかは知らぬが、それでもそんな子供が化け物を殺し切るなどと、些かばかり荒唐無稽が過ぎはしないか?」
「ぶひゅ。仰ることはごもっともですが、実際に我らは、掘り起こされた化け物の死骸を目にしております。同日に、彼女の周囲に居た者からも複数の証言を取り、整合性が取れている事も確認しました。確かに信じがたい話ではありますが、彼女が人ならざる力を揮った事は、紛れも無い事実でしょう。」
腕を組んだヘンゼルの疑念の声に、葉巻をもみ消したマッドハット卿が静かに答える。その言葉を受けた我が友人は、右手の平で口元を覆い隠して少しばかり俯くと、両の目を閉じて黙ってしまった。長い付き合いだ、これが何事か思案にふけろうとする際の、彼の癖であることは知っている。そしてその内に渦巻くのだろう懸念もまた、想像のつくところであった。
すなわち、そのような得体の知れぬ存在が信用に足るものなのか、我々に御しきれるものなのかという事である。彼女の危険性については私も当初から承知しており、だからこそキルエリッヒやゼリグ君、シャリイを通じて情報を集め、彼女の人となりを調べる事には随分と腐心をさせられたものだ。我が妹が、おかしな輩に傾倒などしていようものなら堪らないという、個人的な事情もある。
その末に得られた結論としては、ノマという少女の持つ善性は、信用をするに値するというものであった。彼女の言動をどう穿ってみても、その裏側に二つ心を隠し持っているという様子は見えない。しかしだからといって、飛び切りの善人かと言われればそうでもない。なんというか、取り立てて語るべきところも無い、良心を胸に日々を暮らすだけの、普通の娘なのだ。
自らが揮う恐るべき力とは裏腹に、その心は全くもって平々凡々。しかも甘い物にめっぽう目が無く、菓子を用意して簡単に釣ることが出来るときた。結局、日々の報告が今日食べた菓子の一覧と成り果ててきたあたりで以って、私は調査を打ち切った。彼女を蔑ろに扱って機嫌を損ねでもしない限り、実害は無い。それさえわかれば、既に必要にして十分であったからである。
いや、それ以上に調べを続けるのが、虚しくなってきたというわけでは無い。本当である。妹が自らの茶会にシャリイを呼んだのに、私には声もかけてくれなかったとかそういう知りたくもない現実が、調査を通じて浮き彫りになってきたからというわけでも無い。本当である。
「ヘンゼル、君が懸念をしているであろうことは尤もだが、既に調べはつけてある。少なくともあの娘は己が不当に扱われない限り、こちらの言い分に不平を言うことも無く従ってくれるはずだ。面従腹背という可能性も無いではないが、見る限りではそんな腹芸が出来るほどの器用さは、とても持ち合わせが無さそうだしな。」
「ふむ、そうか……。ファーグナー、お前がそういうのであれば、私も信じてみるとしよう。いずれにせよ、卿らが講じてくれた一計が成ったのならば、件の彼女と面通しをする機会もあろうというもの。そこで私なりに、その娘の本質を見定めてやるとするさ。」
「ありがとう。かつてあの娘が示した実力からいって、分はあると見ている。期待をしておいてくれ。」
「そこまで言うか。そいつは楽しみだな。」
互いに軽口を叩きあって気を緩め、それから脇に除けてあった茶器の一つへと手を伸ばす。すっかりとぬるくなってしまった渋めのお茶を、一口含んで唇を湿らせようとしたその矢先、一礼をしながら入ってきた一人の兵が、応対した部下へと耳打ちをするのが目に入った。いよいよ、来たか。
「失礼を致します。ヘンゼル王太子殿下、並びにマッドハット侯爵、ドーマウス伯爵両閣下へ、至急ご報告を申し上げたい儀が……。」
「形式はいい、北方から兵達が戻ってきたのだろう? 早く状況を掴みたい、報告を頼む。」
「は、はっ! それではたった今入りました情報について、ご報告をさせて頂きます!」
王太子直々に促され、私を相手にする際よりも五割増し程度に背筋が伸びた部下の口から、先刻に戻ってきたばかりだという遠征軍の情報がもたらされる。息子は無事か!? 手柄は立てたのか!? と前のめりになるマッドハット卿を宥めてすかし、揃って耳を傾けたその情報は、なんとも素直には喜び難いものであった。
魔人の出現、化け物による介入、そしてそれらを退けた先に沸いて起こった、ノマ君を神聖視する聖女騒ぎ。うむ、彼女は我々の期待のとおり、見事にその役目を果たして大活躍を遂げてくれたようである。必要以上に。いかん、胃がキリキリしてきた。たしか懐に、薬の持ち合わせはまだあったはず。
「……ファーグナー、マッドハット卿。卿らが投じてくれた例の娘、些かばかり、劇薬が過ぎたようだな?」
「すまん、ヘンゼル。流石に私も、彼女がここまでの影響を方々に及ぼそうとは、考えが至らなかった……。」
「ぶふー。申し訳ございませぬ、殿下。儂も何と言って良いか、面目次第もありませぬ……。」
勝った。勝つには勝った。それも王国軍はほぼ全くの無傷であるとすら言ってもよい、文句のつけようも無い大勝利である。それ自体は大変結構。しかし今後の王女殿下の動向を考えてみれば、我ら王太子派はあまりにも勝ちすぎてしまったと、残念ながら言わざるを得ない。
そもそもにして、私達が兵を北方へと送り出したその理由は、国境を侵した蛮族共の撃退にある。それが聞くところによれば、突如として現れた魔人なる存在の横槍により、戦場は蛮族と剣を交える余地も無い程の混乱に陥ってしまったらしい。結果として魔人の撃退には成功したそうであるが、化け物ともまた異なる新たなる脅威の出現は、我が国の交易路を守るうえでなんとも頭の痛い話であった。
一方でその魔人を撃退した立役者というのが、キルエリッヒとその手を借りたゼリグ君なのだというのだから鼻が高い。妹は父の代において我が伯爵家から勘当された身ではあるが、それでもドーマウス家の娘という肩書は生涯消えることなく、彼女の身に付き纏う事実である。
つまり対外的には、未だ我が妹は王太子派貴族であるドーマウス伯爵家の一員であり、ならば彼女の成し遂げたこの功績は伯爵家、ひいては王太子派のものと見做される事になる。まあ当の本人は、私はただのキティーだと口を尖らせる姿が目に浮かぶが、周囲からはそう見られてしまうのだから仕方がない。諦めて貰おう。
で、その変事においてノマ君はどうしていたのかと聞いてみれば、なんと彼女は混乱に乗じて姿を現した『天蓋落とし』を相手取って、大立ち回りをしていたのだとか。しかも伸び上がった大地が空を覆い、あわや王国軍全滅の危機というその最中、彼女はその天蓋を一撃の元に打ち砕いて、自らの存在を激烈に示してみせたというのだからなんともはや。聖女扱いも頷ける話である。
仮に私がその場にいたとしても、はたして自らが持ってしまった畏敬の念を押さえつけて、聖人の出現を吹聴する者達を宥めて回る事が出来たかどうか。ともあれ、ノマ君の立場が私とマッドハット卿直々に雇われた私兵である以上、この撃退劇もまた、我々王太子派の功績という事になる。ここまでは良い。そして、だからこそ不味いのだ。
その一方で、王女殿下肝入りの血薔薇騎士団がどうだったかのと言ってみれば、団長であるメルカーバ嬢は敵将との一騎打ちに敗北しかけ、あわやというところをゼリグ君に救われたらしい。その後も団員共々、暴れ狂う魔人の眷属によって散々に掻き回され蹴散らされるばかりで、功績と呼べるものはとても、残すには至れなかったそうだ。
とはいえそれは彼女達に限った話でもなく、むしろ乾坤一擲の大勝負を物にする事が出来たキルエリッヒ達が、あまりに幸運であったとも言えるだろう。勝ちに不思議の勝ち有りとはよく言ったもの。なにせ魔人の脅威は、闘争を好むというあのオーク達ですら総崩れにさせる程の圧力であったというのだから、実にそら恐ろしいものがある。
損害らしい損害が無かった事もあり、おそらくこの一件において、メルカーバ嬢の責を問うものは居りはすまい。しかしながら、せっかく仕掛けた策のその詰めにおいて、好機を逃してしまった王女殿下がこのまま引き下がるとも思えない。
我々王太子派は、勝ちすぎてしまったのだ。王女殿下がまぁ良しとして引き下がるだけの、程々の落とし所を過ぎてしまった。ならば挽回を狙うドロシア様は間違いなく、晒されてしまった我々の柔らかい腹にここぞとばかり、喰らいついてくるはずである。そう、例の聖女様の一件に。
「さて……諸君、我々の次の行動は決まったな。ドロシアの奴が、兄上は聖女を偽る不埒者を重用していると難癖をつけ始める前に、そのノマという娘を確保するぞ。背信者への裁きを口実にして、アイツが教会を味方に引き入れるような事にでもなれば厄介だ。」
「ぶひゅー。それでは、殿下はあの娘を聖人として認定し、神に認められた聖人を遣わされた御身は、王権を継ぐに相応しい者である、と。そういった主張をされようというわけですな? しかしあの娘が兵達を救ったであろう事は、既に大勢が目にした事実であるはず。ドロシア様も、迂闊にその名誉を貶めようとはせぬはずですが。」
「マッドハット卿。諸侯らを救ったであろうノマ君を批難する事により、彼らから悪感情を向けられる事をドロシア様が厭うのではないかという、そのご意見は尤もです。しかしその一方で、彼女はあまりにも人間離れした力を示し過ぎました。それが悪神による異端の力であると指摘されて叩かれれば、我々にはそれを擁護し切るだけの手札がありません。」
「むう……。確かに我々は未だ、あの娘の出自すら掴めておらぬのだからな。かといってあれだけの武力を放逐してしまうのは、国益の点から言っても避けたいところじゃ。殿下の仰るように、我々が骨を折ってでも聖人として祭り上げてやるも、また已む無しか。」
一難去ってまた一難。外敵を退けたかと思えば息つく間も無く内部闘争のお出ましとあって、いい加減に長めの休暇でも所望したいところである。とはいえ、我らの筆頭であるヘンゼルが方針を決めた以上、そんな泣き言をいう時間も惜しい。まずは彼の言うとおり王女殿下を出し抜く為に、早急に彼女の身柄を確保せねば。
「すまんな、諸君。悪いがまた、手数をかける。」
「なぁに構うものか。それより君は指導者なのだから、もっとふんぞり返って堂々としていればいい。なにより私達は、既に君に対してチップを賭けてしまっているのだからね。協力は惜しまんさ。」
頭を下げようとする友人を手で制し、それからマッドハット卿と頷きあって、ノマ君確保の命を下すべく腰を浮かせる。そんな私を横合いから殴りつけるかの如き情報が、部下の口から発せられたのは、その瞬間の事であった。
「お、お待ちください! ドーマウス伯爵閣下! その、ドロシア殿下の動向について、まだご報告が残っておりまして……。あの、殿下は既に、自ら凱旋した遠征軍の元へと足を運び、件の少女を見定めてやると言って連れ去ったとかで…………ひぃ!?」
「…………は?」
……いかん、思わず不機嫌さが漏れてしまった。深くため息を吐きながらどすりと椅子に座り直し、それから三人揃って顔を見合わせて頭を抱える。やられた。また、出し抜かれてしまった。というか王族の身でありながら、ひょいひょいと城下に降りるなどと護衛はいったい何をしていたのだ。まあ仮に引き留められていたとして、あの王女様が言う事を聞くとも思えんが。
実に口惜しいが、既に先手は打たれてしまった。ならばここから巻き返す為に、返しの一手をどうするべきか。再び思案にふけり始めた私達の前に、次いで恐る恐ると差し出されたのは、マッドハット侯爵家の封蝋の押された一通の手紙。いや、今度は何だ? もうこれ以上の厄介事は御免だぞ?
「その、伯爵閣下。そ、それとこのお手紙を、マッドハット侯爵閣下のご子息より預かっております。なんでも、伯爵閣下の妹君がしたためられたものであると、伺っておりますが……。」
「キルエリッヒが? わかった、受け取ろう。マッドハット卿、ご子息を通じての文ではありますが、先に検めさせて頂いて宜しいですかな?」
無言で頷く侯爵殿に、軽く一つ目礼をして、早速とばかりに封を切る。なにせ実際に、渦中のノマ君と同行して戦場を経験してきた妹が、これほどに急いで伝えようとしてきた情報だ。この状況を打開してくれるような一手の手掛かりとなってくれる事は、十二分に期待を出来るものがあった。頼んだぞ、我が妹よ。
『親愛なるお兄様へ。ここに、私が実際にノマちゃんから聞いた此度の一件の全容について、その全てを記させて頂きます。どうかこの文をお読みになる前に、胃薬の準備をお忘れなきよう、お願い申し上げます。』
キルエリッヒの美しい文字によって綴られた、強烈な妖気を放つその序文。それを目にした私はもうその時点で血の気が引いて、思わずパタリと手紙を閉じた。
よ、読みたくねぇ……。い、いやしかし悪い情報であればこそ、迅速確実に伝えられるべきである。妹もそれを承知しているからこそ、こうしてわざわざ文を用意してまで、私の元へこれを届けようとしてくれたのだろうから。ええい、ま、ままよ。
急激に顔色を無くした私へ向かい、なんとも怪訝な視線が浴びせられる中で覚悟を決めて、我が妹から託された文を読み進める。そしてその信じたくも無い内容をたっぷり三回は読み返してから、それはそれは神妙な真顔で以って、私はその手紙を恭しく殿下へと差し出したものである。
片眉を上げながらそれを受け取り、マッドハット卿と共に一読をする我が親友。その姿を横目にしつつ、懐からありったけの胃薬を取り出して握り締め、一息に口に放り込んで飲み下す。まずい、これはまずい。確かにノマ君の実力は驚異的なものがあったが、だからといってこれほどに途方もない怪物であるとは全くの予想外であった。
叩けば埃が出るどころの話では無い。なにせ彼女は魔人なる化け物を自在に生み出す、化け物の親玉とすら言えるような能力を有しているのだ。これがドロシア様の知るところになろうものなら、斯様な怪物を王都へと誘い込んだ王太子派の責任について、激しい追及が始まるであろう事は最早必至。最悪となれば、ヘンゼルの失脚にすら繋がるやも知れぬ事態となる。
そして何よりも憂慮せねばならないのは、ここから始まるであろう一連の騒動によって、悪し様に扱われるであろう彼女が我が国を見限ってしまう事だ。妹の伝える彼女の力、仮に王都の中で無制限に解放でもされようものなら間違いなく、それが王国最後の日となる。
……まずい、これは非常にまずい。どうする? 私はどうしたら良いのだ? お、教えてくれ、キルエリッヒ!?
必死で思考を回しながら白目になった私の前で、表情の抜け落ちたヘンゼルとマッドハット卿の顔が、音もなくこちらを向いた。そして呟かれた『どうしよう。』という友の声を最後まで聞く事無く、私はゴフリと湿った息を吐いて、その場に倒れ伏したのである。
とりあえず、すぐに妹を呼びつけよう。そして相談しよう、どうしたらノマ君の機嫌を損ねることなく、穏便に事を治められるのかというこの難題を。ぐふ。
どのような企みがあろうとも、ノマちゃんは全ての胃を、平等にブレイクします。




