64、ダンボールベビー
それは若い女で、とても妙な格好をしていた。
ベビーカーを押しているのだが、両手を不自然にビンと伸ばして、顔を背けている。
おまけにベビーカーの上に乗っているのは、ガムテープで封をしたダンボール箱なのだ。
箱の表面を見て、背筋に冷水が流れた。 目打ちで開けた沢山の穴がある。
生き物を入れている、箱だ。
あたしたちは、久しぶりに見る女の顔を改めて見直した。
頬の影が濃くなった。 あたしが前回見た時より、顔の輪郭がひとまわり細くなった気がする。
痩せたのだ。 いや、体は前よりもふくよかになった。 こういうのを、「やつれた」って言うんだろうか。
「よく来てくれたね。 優亜ちゃん!」
ウィズが笑いかけた。
塩谷 優亜は伏せた顔をぶるぶる震わせた。
「だめ、あたしはもう無理。 この子をあたしに近づけないで」
「わかった。 美久ちゃん、少し離れて押してあげて」
あたしはベビーカーを押す役を代わった。 できればすぐに箱から出してあげたかったけど、何故か優亜はそれを許さなかった。
「あんたはあの子がどんなに怖い子か知らないのよ。 あの子がお腹にできてから、あたし自分で信じられないことをたくさんしたわ」
「火をつけたこと?」ウィズが聞いた。
「そうよ! 突然、ほんとに急に、憎しみがこみ上げて止まらなくなるの。
最初は、この女よ」
優亜の指先があたしの眉間をまっすぐ指し示して見せた。
「夢の中で起きたことを、誰かに解説して欲しい。 そういう意味のことを人に言ったら、その人がこの子を、篠山美久を連れてきたの。 この子のカレシはすごいのよ、紹介してもらいなさいって」
「美久ちゃんを見たとき、すぐに殺意が沸いたの?」
ウィズが、話題に比べると冷静すぎる声で質問した。 優亜は首を振った。
「その時はなんとも思わなかったわ。 その時には、この子はお腹にいなかったもの」
「じゃ、ウィズに会ってから?」
思わず問い返した。 ウィズの顔を見たとたん、あたしを憎たらしく思う女は珍しくない。
ウィズに妊娠させられたって思ってたんだから、お腹の子はウィズに会ったあとでできたわけだし、それであたしを憎んだなら話が通じる。 実際は子供の父親は雷太さんだったわけだけど。
でも、それじゃ、まどかの家に火を点けた動機がわからない。
「とにかく、この子ができてからあたしはめちゃくちゃよ」
優亜は叫んだ。 その声は暗がりに押しつぶされたように重く、もうずいぶん前から持っていた狂気を、充分熟成したような声だった。
「なんの前触れもなく、殺意が湧いてブレーキが効かなくなるの。 その怖さがわかる?
妊娠中も何度もあったけど、生まれてからもあの子を抱いてると、すぐにひどいことがしたくなった。 あたしの気持ちなんかおかまいなしに、ふらっと人が殺したくなるのよ。
あの子は人殺しの魔法をもって生まれてきたのよ! 三瀬が待ち望んだ『くだん』って、ああいう子を言うんだと思う。
そう、あれは悪魔。 悪魔の子なんだわ!」
ウィズが、普段無表情な眉をキッとひそめ、右手で自分の心臓を押さえた。
彼にとっては二度と聞きたくなかった言葉だろう。 この場にミギワがいたら、同じ表情をしたに違いなかった。
「わかった、あなたはその殺意から逃れようとしたのね。
だから、赤ちゃんを遠ざけようとした。 もしかしたら、階段の下で育てたの?」
「悪い?」
ウィズは決していいとは言わなかったが、この場で優亜を責める気もないようだった。
「とにかく今は、僕らが赤ちゃんを預かろう。 それでいいだろ」
ダンボールから小さな子供を取り出すのは、これで2度目の経験だ。
興奮してめまいを訴えた優亜を、奥の和室で休ませてから、あたしはウィズの姪っ子とご対面をした。
中の赤ん坊はまだ眠っていた。 薬でも飲まされたんじゃないかとウィズが言った。
「ああ、この子!」
その赤ちゃんの顔には、やっぱり見覚えがあった。 そう、あの時夢の中に出て来た、階段下にいた赤ちゃんだ。
あの時見たあの子は、自分で歩いていたから、今よりもう少し大きくなっていたけど、顔は同じだ。 かなり痩せてるところも同じ。 幸い手足はまだ曲がっていないようだ。
「三瀬に引き渡したから幽閉される、ということかと思ったけど、そうじゃなかったね」
ウィズが口の中の苦味を噛み締めるような表情で言った。
「なんとか助けてあげたかったのに」
「じゃ、三瀬と関わりを持ったのも、そのため? もしかして積極的にマスコミと仲良くしたのも、三瀬を失脚させるため?」
「いろんなことを考えて、端から試してみたんだよ。 でも結局ダメだった。
美久ちゃん、僕、どうしてあげればよかったのかな」
「わかんないけど、それは今から決めればいいと思うわ。 生きてたわけだし。
それより、薬局があいてるうちに紙おむつとミルクを買いたいわ」
冷静にそう言えた自分自身に、あたしはちょっと感動した。
シスター松岡のお手伝いで、施設の子供たちを見ているうちに、かなり実践的な考えがあたしの体に育っている。 やっぱりあの経験は、ウィズのお手伝いをするのに必要なことだったんだ。
何しろあたしのパートナーは、仙人の変種と言われた男だ。 現実的なことはあたしが担当しなくちゃ。
赤ちゃんの世話を始めると、まどかが手伝ってくれた。
怜さんとのスイートタイムを邪魔されたのに、気を悪くしている様子はない。 手が空くと全員にコーヒーまでサービスしてくれた。
「怜さん、優亜の具合はどうなの?」
「心配ない。 情緒不安定だから疲労が早いんだよ。 一通り、話は聞いたよ」
怜さんが主治医らしい口調で言って、運ばれてきたコーヒーカップに一番に口をつけた。
「怜はどう思った? 殺意の話」と、ウィズ。 怜さんは鼻先で低く笑った。
「ま、俺は『くだん』の話自体をそこまで信じてないからな。
まず赤ん坊が口をきくってとこから、疑わしいと思うね」
「なんで?」
「喋るってのは、最初は訓練を必要とする行為なんだ。 声は生まれてすぐ出せるけど、喋るために必要なのは、口と舌先の筋肉だ。
赤ん坊がブーブーとか、マンマンとか、わけのわからない声を出すのは、無意識に口元の訓練をしてるからなんだ。 筋トレしなきゃ、いくら知能が高くてもしゃべれるもんじゃない」
確かにあたしも、児童教育の授業で習った。 赤ちゃんは、自主学習をして、言葉をしゃべる機能を身につけるんだって。 とすれば、生まれてまもない赤ちゃんが、人の言葉を喋るなんて無理だってことになる。
「例えそこに『くだん』の魂が入り込んだとしても、使うべき筋肉がない口を、思い通りに動かすことなんてできないと思うね。
美久ちゃんは、ミギワを見てるからわかるだろ? 彼が乗り移った時、ピノは喋るか?」
あたしは愕然とした。 確かに、ミーくんはピノになって会いに来ても、ミャアとしか喋らない!
「じゃ、『くだん』が赤ちゃんの頃にしゃべったって言い伝えは、うそ?」
「嘘かどうかはともかく、『くだん』が万能なら、そんな不自由な赤ん坊の口を使うより、他の方法で自分の意志を伝えようとするはずじゃないか、コロ助の意識を乗っ取ろうとしたくらいのやつなんだぜ。
『喋った』と言いだしたのは、喋った言葉を聞いた、少なくともそう思い込んだ方に能力があった、と俺は思う」
ウィズが大きく息をついて、コーヒーをスプーンでひとすくいして口に入れた。 熱いものは苦手なのだ。
「つまりさ、怜は、優亜ちゃんが赤ちゃんのせいにして、実は自分の憎しみを発散させてたって、思ってるんだね」
「俺は現実主義なんでね」
「でも、まどかはどうして恨まれたの?」
あたしが聞くと、怜さんはちょっと照れたように鼻の頭をこすった。
その時、ウィズが突然椅子から飛び上がるように降りたので、話は中断した。
「来た。 サイモンさんだ」
あたしは腕の中でまだトロトロしている赤ちゃんを、抱え直してウィズの後ろに下がった。
「そこじゃダメ」
ウィズはあたしの背中を押して、テーブルの下に這い込ませた。 ご丁寧に椅子で視界を塞ぐ。
そうしている間、なんだかとても楽しそうに魔術師は顔を輝かせていた。
怜さんはまどかと2人、優亜の寝ている和室の前に立ち、ウィズの背後から玄関ドアを注視した。
チャイムは鳴らなかった。 ウィズが見計らってドアを開けたからだ。
深まりつつある宵闇をバックに、長身の男性が玄関灯の明かりの下から室内を一わたり見た。
奇術師、サイモン。
その姿にダンディなイメージはもうなかった。
無精ひげの生えた顔、シワの寄ったズボン。 アルコールの臭いが全身から発散されている。
「優亜を返して貰いに来たよ」




